ブルックナーの9番
ブルックナー交響曲第9番。
ズヴェーデン、ヴァント、ヨッフム、朝比奈指揮があるが、いまはカラヤンを聴いている。取りあえず外れないだろうという見込みからだ。今回で3回目。
この9番はブルックナーが
「精神的、肉体的に苦難に見舞われていた時期の作品で、1891年に作曲され始めたが完成されることはなかった。この時期、肺の病気と弱った心臓がブルックナーに痛手を与えていた上に、精神的にも苦しんでいたのである。」(リチャード・オズボーン。以下「」内は同)
といった状況下で作曲している。
苦痛、苦悩という試練のとき、ひとは何をなし得るのか。
この演奏は非常に威厳があり、音楽的密度が高いとされているようだ。音楽的密度については自分の言えるところではない。威厳はたしかにその通りと思う。ただ3度聴いてもまだ分らないことがある。それは「ブルックナーが自らのイマジネーションに取り憑かれ、それが心身両面に影響を与えたのか?あるいはダーウィンによって信仰の危機がもたらされたのか?あるいは何か未知の、この世の地獄とでも言うべきものを予感していたのか?」という点。
ブルッックナーは生涯自然科学に大きな関心を寄せていたという。
わたしはこの3つの疑問符が気になっている。
ただ何をいうにも、わたしには深刻な病に苦しんだ経験がまだない。音楽を専門的に知っているとも言いがたい。
それでもなぜ気になるかと言えば、
ブルックナーはいかような現実にあっても、魂は今一つ超えたところにあり、そこから、この創作に向き合い、このような肉体的な状況下でも自らの内からもたらされる旋律をそのときの状況下で自然体〟のまま連ねつづけた、うまくは言えないがそう思われてならないからだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
神に献げられた曲はたくさんあるだろう。才気に富む壮麗な曲。純粋な信仰からの曲。その他さまざまな素晴らしい曲があるだろう。神はどれも喜ばれるに違いない。ただ、苦難の最中にも信仰を失わずに証として創り献げられた曲には涙されるのではなかろうか。
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