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2009年11月

万事相働いて益

 起きがけに家族のことやら人様のことなどを考え、自分の応対の欠落部分に思いが至り、若干気が重くなったとき、

  「万事相働かせて益となる」

という聖書の言葉が浮かんだ。途端に吹っ切れて元気が出た。先ず祈らなくちゃ。主の祈りをとなえ、救いの祈りをなし、食事のしたくにかかる。

 きょうは一日ゆったりと過ごした。ネットでクリスチャンの方々の証しなども読んだ。
 
 なぜ神を信じるのか。あるときは家族のため、あるときは友だちのため、あるときは文芸がうまくいくようにと様々だった。つまりこちら側の何かを良くして貰うため、或いは自分の何かを都合良く運んでもらうためだった。

 しかしいまは分った。神が神として存在するが故に神を礼拝し、神の意志に適う歩みをして当然なのだと。

 たとえ私が富んでいようと無一文であろうと神は存在する。そしてそれを信じるなら、たとえ私が富んでいようと無一文であろうと、神は私と共にいて下さる。わたしはやっと分った。

 インマヌエル綜合伝道団の創始者蔦田二雄牧師が、戦時中に宗教弾圧の下、あの巣鴨プリズンで確信したことは本当だった。
   インマヌエル、「神われらとともに在す」

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きょうのことば

     ひとりのみどりごが、
   私たちのために生まれる。
     ひとりの男の子が、
     私たちに与えられる。
     主権はその肩にあり、
その名は「不思議な助言者、力ある神、
  永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
 ダビデの王座に着いて、その王国を治め、
  さばきと正義によってこれを堅く立て、
  これをささえる。今より、とこしえまで。
  万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

       
イザヤ9:6~7

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 このイザヤ書はイエスが誕生する約700年前に書かれました。キリストの誕生は聖書の中に予言されていたわけです。

 キリストの降誕の記念日は間近。きょうは第一アドベント聖日礼拝です。

世が暗闇にあるとき、神が私たちに介入してきてくれたのがクリスマスです。あのベツレヘムの馬小屋におこった出来事に多くの人は気づいてはいません。
 待ち望んでいたシメオンとアンナには分りました。待ち望んでいるものには分るのです。どんな小さなことも、待ち望んでいれば分ります。

今日世がもっとも必要としているとき、栄光の神が私たちの人生に介入してくださるとは、何とすばらしいことでしょうか。
(國光牧師のおはなしから、心に響いた箇所でした)

正餐式にもあずかりました。
お昼はひろ子牧師が準備した昼食をいただきました。
これがすばらしく美味しいのです。何かって?それは、ひ・み・つ。
午後はクリスマスに備えての大掃除でした。照明も床も硝子もスリッパの底までぴかぴかになりました。

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

あなたはイエス・キリストを何といいますか?

    「生ける神の子なり」

 イエスは神です。それが曖昧な時には立前でそう言っていました。しかしもはやそのときは終わりました。長い間の不心得をお詫びしたとき、神はご自身の愛と憐れみとを示されました。わたしはそれを受け取りました。それはいま心の内に実在しています。

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真っ白な木-プチ童話その2ー

 真っ白な木、雪がつもって真っ白だとばかり思っていた木からとびだしてきた動物たち。りす、きつね、うさぎ、くま、ふくろうたち、それから5匹のそれぞれのなかまたち12匹。

 りすがもっていたのはドングリの形の小っちゃなルビーでした。くまがもっていたのは、透明な黄色い栗の実。どうやらトパーズです。

 みんながデモちゃんを取りかこみます。デモちゃんのまわりの雪は、デモちゃんの好きな動物たちの大きな足跡小さな足跡がいっぱい。

 デモちゃんは言いました。
「こんなにきれいなドングリ、いったいどこで見つけたの?」
りすがしっぽをぱたんぱたんさせながら言いました。
「流れ星がたくさん落ちた夜、雑木林にも何か落ちたの。そのあたりの木にもぐりこんだら、たくさんのドングリの中で、一つだけ光る実が枝についてたんだ。それがこれなのさ」

「流れ星が落ちると、いつでも木に石の実がなるの?」
するとふくろうが目をしばたたきながら言いました。
「きつねさんの友だちが病気になって、飲む薬もなくて、お医者さんも来なくて、たった一人で死んでいったとき、トチの木には、青く透明な石の実が付いてたって聞いたよ」
「きっとロイヤルムーンだ。涙のような宝石だからね。どうも悲しいことがあると、どれかの木に光る石の実がなるみたいだね」とデモちゃん。

 こんどは、きつねが、そうかもしれないと小声でつぶやきました。
「りすくんの従兄がね、冬に備えて木の実を一生懸命に集めたところが、誰かにぜんぶ横取りされてしまったことがある。そのときにも、流れ星がたくさんふったってさ。栗のいがに入ってた三つの栗のうち、一つだけが透明な黄色の実だったそうだよ」
 くまが驚いて、もっていたトパーズの実に小さくまん丸な目を一回り大きくしました。
きつねが怪しそうに言いました。
「くまくん、もしや、それって、りすくんの従兄のものだったんじゃないの?」
「違うよちがうよ、ほんとうに僕が見つけたんだ」

 ふくろうが仲裁していうには
「どうやら石の実は、悲しい人には届かないらしい。誰かが、その人の代わりに受け取って、幸せをもらっているのかもしれない」
 みんな真っ白な雪のうえに立ちすくんでうなだれました。
「僕、これ返すよ」とりす。
「僕も」。くまも、すまなさそうです。
みんな空を見上げました。
「わたしたち、また、木になりましょうよ」とうさぎ。
 みんながピラミッドを作ると、またもとのように雪をかぶった木のようになりました。りすが、てっぺんですました顔でルビーのどんぐりとトパーズの栗を捧げ持っています。

 もう暗くなってきたので、デモちゃんは動物たちの木に振り返りふりかえり「さよなら」を言いました。

 とおりかかった動物たちが、どこか不自然な白い木をどこが変なのかに気づかずに見上げては遠ざかっていきます。

 夜空には威厳のある雲がかかっていました。けれどもゆっくりと流れているようです。ほんのすこし、そしてまたすこし流れていきます。星空のドームが、しだいに広く大きく深くなってきました。そして冬のダイヤモンドがすっきりと現れたとき、12匹は、はっとしました。これまで見たこともない星座、南十字座が、星の六角形の中にすっきりと掛かっていたのです。ここからは決して見えるはずがないのです。
 驚きに輝く24の瞳が、いっせいに星の十字架を仰いだとき、リスの手からは二つの石が消えていました。

 デモちゃんは家で毛布にくるまり、カーテンをちょっとだけ開けて、さっきから夜空を眺めていました。そして、たったいま、、星が、悲しむひとたちに届けるために、たしかに石を受け取ったことを直感したのでした。

                     2009年11月28日 ぶんな

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雑感 ー恐れてはならないー

 昨夜は気分的には通奏低音が流れていた。そこで目を閉じて心静かに思い巡らせているうちに、真っ白な銀世界や真っ白な不思議な木が浮かんできたのだった。わたしはしばらく空想の世界を追っていた。あっ、そうだ、これを童話っぽく書いてみようかな、そう思った。きららかな雪景色にわたしは癒されていた。何分にも夜更けのこと。数行書いただけで、続く、にした。きょう続きを書くつもりだった。きょう書かなければ昨日の気分が損なわれてしまうだろう。

 ところがこの天候不順、季節の変わり目か、人生の課題かで、生きることを苦しく思っている方がいらっしゃるのを知った。こんなことをしてる場合じゃない! 一瞬自分への怒りに神経がぴりっと引き締まった。さりとて何もできない自分。無能と非力を自覚し、慨嘆するしかないのか。

 否、こんなときにこそ、こんなときのために、神は弱いわれらに、わたしのようなものにさえも、神のことばを与えているではないか。

      恐れるな。
 わたしはあなたとともにいる。
      たじろぐな。
  わたしがあなたの神だから。
   わたしはあなたを強め、
      あなたを助け、
   わたしの義の右の手で、
      あなたを守る。

         イザヤ41:10

 いま20時になろうとしている。唐突にそれを知ったことが、歳のせいもあろうが靄がかったわたしの頭を、いっぺんにすっきりとさせた。いま、この言葉が、しっかりせい! とわたしの前に拳をふりあげている。そしてイエスの慈愛の眼差しがわたしを見下ろしている。

 
 

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真っ白な木-プチ童話その1ー

 雪がこんもりとつもった朝、先っぽに緑の枝先をのぞかせて木々はみんなあったかそうに枝をのばしています。

 ずっと林の奧に、一本だけ、どこか不自然な真っ白な木が立っていました。ところどころにまん丸な実が見えます。近づいてみると、どうもその実が動いているようなのです。パチパチ、キョロキョロ。木の中に生き物がひそんでいるようです。

デモちゃんが「出ておいで」というと、
木に雪が積っているとばかり思っていた白いかたまりが幾つにも分かれて、動物たちがぴょんぴょんと飛び出してきたのです。あとに突っ立つとちの木のはだかんぼ。風がカタカタと笑っています。

 きつねやうさぎ、それにくま、ふくろう。みんな毛が真っ白でふさふさ。まん丸でいたずらな目が一斉にデモちゃんを見上げます。
「ねえ、どこから来たの?」
「誰なの?」
「ここで何をしてるのさ」

 そこでデモちゃんは言いました。
「氷の石を探して、雪の金平糖を食べにきたのさ」
 するとりすが、にぎっていた指の間からつるんと光るものをだしました。てのひらに転がすと、それはドングリの形の小っちゃなルビーでした。そしてくまがにぎっていたのは、はちみついろの透明な栗の実だったのです。

                       
   続く
  

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J.S.バッハ:ミサ曲 ロ短調

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 さてどの曲を聴こうかなとの手掛かりの一つに、コンサートのある機会を生かし、すこしでも理解できるように備えるという場合がある。

 新年の1月31日にリリング&OEK(オーケストラ・アンサンブル金沢)&MBKV(盛岡バッハ・カンタータ・フェライン)の演奏会がある。

 手持ちのB.S.バッハ「ミサ曲 ロ短調」、カール・リヒター指揮、ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団で予習するとしよう。

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 つい最近までの合唱への理解は、声は便利なもの、声をさえだせば合唱は成り立つという単純さだった。しかし仕上げるまでには、体全体を使っての発声か ら、言語、音楽表現、或いは、各パートが一つのパーツとなるまでの歌いこみといった積み重ねがあるようだ。楽譜にある音楽が音楽たり得るまでの練習が彷彿 とする。この大作を歌ってくださる方々の努力に見合う聴き方で聴かせていただこう。

 ミサ曲。魂をとおし、何かが神に伝わるだろう。

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慈しみふかき友なるイエス

     心の貧しさを知る謙遜な人は
          幸福です。
   天国はそういう人に与えられるからです。
      悲しみ嘆いている人は
          幸福です。
         そういう人は
        慰められるからです。
          マタイ5:3

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        いつくしみふかき

   いつくしみふかき ともなるイエスは
   つみとがうれいを とりさりたもう
   こころのなげきを つつまずのべて
   などかはおろさぬ おえるおもにを

   いつくしみふかき ともなるイエスは
   われらのよわきを しりてあわれむ
   なやみかなしみに しずめるときも
   いのりにこたえて なぐさめたまわん

   いつくしみふかき ともなるイエスは
   かわらぬあいもて みちびきたもう
   世のともわれらを すてさるときも
   いのりにこたえて いたわりたまわん

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祈ってください

今夜ともだちから電話がありました
「息子が亡くなりました。10日まえに」
まだ20代です
祈ってください
それがどこの誰ともわからなくとも
いつ、
どこで、
どのように亡くなったかを
知らないとしても
祈ってください
この20数年の命が
そして
この死が
けっして
無駄ではないはず
たくさんの人たちに
祈ってほしいのです

そうです無茶苦茶です

筋道もとおっていません

それでもお願いします

亡き魂がやすらかであるように
息子を失った母が
なぐさめられるように
どうか祈ってください

     主よみもとにちかづかん

主よみもとにちかづかん  のぼるみちは十字架に
ありともなど悲しむべき   主よみもとにちかづかん

さすろうまに日はくれ    いしのうえのかりねの
ゆめにもなおあめをのぞみ 主よみもとにちかづかん

主のつかいはみそらに  かようはしのうえより
まねきぬればいざのぼりて 主よみもとにちかづかん

めさめてのちまくらの  いしをたててめぐみを
いよよせちにたたえつつぞ 主よみもとにちかづかん

うつし世をばはなれて あまがける日きたらば
いよよちかくみもとにゆき 主よみもとにちかづかん

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きょうのことば

 「イエスは近づいてきて彼らにこう言われた。
わたしは天においても、地においても、いっさいの権限が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、……」
 マタイ28:18、19


    2009101_022

 きょうは「キリストの愛と委託」と題して、いつもの牧師さん国光勝美先生のおはなしでした。
eye snail xmas

 日常の中で、自分だけの特別な場所で自分だけの特別な時間に聖書を読み祈ることがとても大切。部屋がなければカーテンで仕切るだけでもよいし、またどこか山の上でもどこでも構わない。こうした神との交わりを持つなら神は必ずそこでご自身をその人の心の内に現わし、その人を取り扱ってくださる。

 イエスさまはガリラヤの山で宣教の委託をされた。公の伝道生涯に入られたのもこのガリラヤでした。ガリラヤやカペナウムはイエスさまのホームグランドです。主は、先ず、異邦人のガリラヤで宣教を開始したのです。マタイ伝5、6、7章の有名な山上の垂訓もガリラヤ地方で語られました。同じところで宣教の命が下されたのです。ただ伝道は押しつけられたり義務感からできるものではなく、キリストの愛に押し出されてこそできるものなのです。

 この次は私自身が、その通りだった、と頷きながら聞いたのですが
聖霊の働きなくしては礼拝できないし、聖霊によってイエスさまの十字架が自分の罪の為であると感動した者のみが、真の礼拝を捧げることができるというお話でした。

 そして、わたしがこれはほんとうだと日々実感していることは、
「聖霊は不思議な助言者である」という事実です。
full clover key

      ひとりのみどりごが、
    私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
      主権はその肩にあり、
         その名は、
     「不思議な助言者、力ある神、
      永遠の父、平和の君」
        と呼ばれる。
         イザヤ9:6



※お話の中では、もっと沢山のお言葉の引用や例話が出てきますが、さらに聞きたい方は教会に足をお運びください。

特別集会に来られた方が仰いました。「眼には見えないけれども存在するものが確かにある」と。また来たいと仰っています。



 

 

 

 

 

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鶴彬

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けさは雪がふっていました。
積雪を見たのはことし初めてです。

  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 16日のブログに「足跡」と題した川柳を素描のまま20句あげましたが、きょうになって、T子さんから聞いた鶴彬(つるあきら)ー1909~1938ーの〝足跡〟を知り、わかりました。自分の描いた20句よりも

 手と足をもいだ丸太にしてかえし

 この一句の重み。鶴彬を検索したとき、眼に飛び込んできました。一瞬ハルピンの731部隊のあの非人道的な人体実験の〝丸太〟と呼ばれた人々のことかと思いましたが、解説では、国のための戦争で手足を奪われて帰された、との意味だったようです。反戦川柳があるということも初めて知りました。

 半球の闇を地球は持ちつづけ    鶴彬

 溺死者の続く思想の激流よ      鶴彬

 米つくる人人、粟、ひえ食べて     鶴彬

 万歳と挙げた手を大陸に置いてきた 鶴彬

 

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ミレー「無原罪の聖母」

 今朝9時からNHKBS2「アインシュタインの眼」で、山梨美術館にあるミレーの絵画を紹介していた。子どもだったときに「晩鐘」に敬虔な思いになったことがあり、興味を引かれた。この番組での紹介は「種をまく人」「落ち穂ひろい」「無原罪の聖母」などだった。

 特に興味を持ったのは「無原罪の聖母」、1858年の作品だ。多重分光カメラが捉えた〝解析〟には実はそれほどの驚きはなかった。
 これはローマ教皇ピウス九世のお召し列車の礼拝堂に飾るためにミレーに制作依頼があって描いたものだという。

 ミレーはできるだけ顔を描かないように構図を取っているが、この「無原罪の聖母」は例外的に真っ正面から顔を描いている。聖母の絵画に要求される青いマント、三日月、ざくろも描かれている。聖画としての条件は満たされている。

 ところが、あろうことか法王庁は「無原罪の聖母」を拒否。受け取らなかったのだ。さらに驚いたことには、TVに顔を並べていたどこの評論家か画家かは知らないが、受け取らなかったのはマリアの顔が、バルビゾンの農民の娘の顔立ちだったからだろうなどと言う見解に対して、はっきりとした意見を述べていないということだ。わたしは「絵の真価からいえば、ローマ法王が受け取らないのは間違っている」とか「この絵画はミレーの絵画の中での位置はどのところだから、やはり」とか、この絵の価値そのものの見解を聞きたかった。

 たしかにこのマリアの表情には優雅さ、一般的にいう美人の要素はないとおもう。しかしわたしは、人類にとって重大な目的を持つイエス・キリストを、神が見目麗しい衆目を引くような、誰もがはっとするような美人に託したとは思えない。少なくともミレーが籠めたような、先ずは強い意志を持った女性であったろう。保育者として優れたものとまではわからないけれども、愛情深く庇護者たりうるもの。こういったことが第一条件とわたしには思われる。

 この絵を受け取らなかった教皇は(Wikiより)
第255代ローマ教皇ピウス九世。在位は1846~1878(明治11)年。
よくは分らないが「誤謬法」という文書を表わし、近代社会と決別したようだ。
1792年イタリアの貴族の生まれ。本名マリア・マスタイ・フェレッティ。
コンクラーヴェで1700年以来最年少の54歳で教皇に。
政治犯の恩赦。近代社会との断絶を促す。

 何分にも絵画の実物を観たことがない。ただTVで観た範囲では以上のような思いを持った。

  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 ミレーの「無原罪の聖母」の1858年は日本ではどんな年だったのか。1858年と検索してみると
安政の大獄  大老井伊直弼が一橋派と尊皇攘夷派を一掃するための弾圧開始。
岩手では
南部藩士の大島高任が南部藩大橋に建設した洋式高炉で初銑出に成功していた。

この同じ時代に地球のあちらバルビゾンではミレーが神と共に絵を描いていた。バルビゾンの土を絵の具として。

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聖書、天体

 聖書のマタイ伝1章は半分以上がイエス・キリストの系図だ。一見夥しい人の名前の羅列と見える。この中に5人の女性が出てくる。マリヤ、タマル、ラハブ、ルツ、バテシバだ。

 この中のマリアが純潔な処女であり、イエス・キリストを身籠もった。あとの4人は罪深い者だった。タマルは近親相姦、ラハブは遊女、バテシバは姦淫の罪を犯していた。

 人の罪を贖うために罪なき者として生まれたイエスさまを輩出する家系として、神がなぜこのような血筋を選ばれたのか。なぜ王侯貴族の中から洗練され教養もあり人格者でもある血筋を選ばなかったのか。

 それは、「わたしはあなたがどんな血筋、どんな状況にあろうともあなたの罪を洗い赦し救い、あなたをわたしの一族として迎えるのです」というメッセージであるように思う。

 一見無味乾燥な人物名の羅列、読むのが面倒になる箇所にもこんなメッセージが籠められている。聖書のすごさだ。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 自分と人とを考えるうちに、浮かんだのは

「天に輝く宇宙の星と……」だった。そこには人の確かさとは異なるまたもう一つの存在の確かさがある。余計な口を差し挟むところがない。煩雑なものがない。超然とでもなく、淡々とでもなく、ただ確かな存在として確かにそこに在り続けている。

「聖書・天体」と検索してみたところ、自分の言葉では曰く言いがたいところを、説明してくれているブログがヒットした。

 先日観た「もりおかデジカメ散歩」の写真展には、時間、労力、経費を注ぎ込んだ素晴らしい写真がたくさんあった。ただ天体の写真だけがなかった。

 ブログに大きく自分の撮った銀河の写真を載せることができたならと思うのだが、これこそ夢のまた夢。 

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雑感

 とにかくブログを毎日更新しようとの目標をもって書いている。

 書くと言いながら書かなかったこと。まだ「酪農」の一件が片付いていない。盛岡市の中津川にかかる三橋である中の橋、上の橋、下の橋を書き終えていない。ゴミ、八幡町界隈の写真を撮っていない。大正時代の音楽関連の資料公開も中途半端に。

 「酪農」に関して、何処もが誰もが、安価に手に入れられる飼料、そして牛肉の販路拡大を模索しているはずだ。酪農をともかくも100枚ばかりに書いたころには、農業の先々の重さを憂いても、まだ何らかの方策、農政に依り頼める部分があるのではないかとも思われたが、世界同時不況が始まって以来、株価の暴落に次ぐ暴落に経済は総崩れ。生きてゆくのに、闇に光を手繰り寄せねば存在自体が崩壊しゆく危機感に見舞われ、事実そのような悲しい事態となった。

 そのような中でわたしは聖書に眼が開かれ(それまでも聖書は知っていたのだが)、この暗いさ中を、聖書のことばを松明として生かされ、このブログにも書いてきた。優先的項目と思われた。自分自身が語るに足るものに達していないとしても語るべきだと思われた。

 民主の大躍進。政権交代。そればかりではなく、この年はさまざまな優先順位、価値観が入れ代わった年でもある。

 あと残されたひと月で何ができるだろうか。

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ご縁

  また雨がふっている。
お向かいで亡くなった方があり、きのう仏壇のまえで祈らせていただいた。

 実家の母が亡くなって(命日は12月26日)ほぼ2年。2年前、母はこの方と同じ病院の同じ階の並びの室に入院していたのだ。奥様は毎日病院に通っておられた。母の二年目の追悼の集いを終えて帰宅した夕方に、ご遺体が自宅に戻られているのに気づいた。

 霊柩車が発つときにお見送りした。主人が火葬に出席。明日がお葬式である。

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足跡

 夕方TVで川柳をやっていた。次の題は

     「足跡」

  面白そうなので詠んでみた。

        
spade

  足跡をたどってみれば迷い道

  深雪の母の足跡われも踏む

  先輩の足跡をさぐる卒業式

  テーブルに猫の足跡消えた魚

  雪原の雉の足跡影やどす

  足跡も轍も埋めて吹雪かな

  ヒール下駄草履の跡や成人式

  棺(ひつぎ)行くもはや足跡無かりけり

  足跡が足跡を超え新記録 

  有史よりつづき来足跡われも踏む

  点と線つなぐ足跡きょうもまた

  追いかけた足跡いつしか見失う

  足跡を崩してブーツ雪をこぐ

  春泥の足跡に光る雪解水

  足跡に押されて砂に貝ひとつ

  足跡の残るも拒む玉砂利

  足跡の十字架にまで順々と
  

  苦難の足跡を笑ういまがある

  板の間におさなの足跡戯れる

  ボンネットに猫の足跡秋日和

以上20句出るがままに川柳で遊んでみました。














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きょうのことば

           イスラエル人は、
           男も女もみな、
          主がモーセを通して、
   こうせよと命じられたすべての仕事のために、
      心から進んでささげたのであって、
彼らはそれを進んでささげるささげ物として主に持って来た。
          出エジプト35:29
     

      20091113
  
インマヌエル綜合伝道団からは、海外に、つぎのような先生方が派遣されています。

ボリビア   三森邦夫・加寿子
ケニア    田辺寿雄・宣恵
       蔦田就子
アフリカ    富沢香(準備中)
フィリピン   豊田常喜・恭子
カンボジア  蔦田緑乃
台湾    平瀬義樹・光世
香港    鹿島義喜・理香

きょうは各宣教地の様子を映像で観ました。

宣教地では会堂や神学校が建設され、人々が洗礼を受け、神学生が育ち、医療活動が為されています。ケニアのカボソンの活動に対しては、モイ前大統領からの個人的な協力も受けました。

  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 きょう個人的に浮かんだ言葉は「あなたは神のことではなく人のことを考えている」でした。図星です。神ではなく人に着目するという本末転倒が転倒に繋がることは既に学習済みでした。
happy01

 ああ、そういえば、こんなすばらしい言葉が
「内村(鑑三)君、自分の内なる罪を見ることを止めよ。十字架上に君の罪を贖いたもうた主イエスを仰ぎ見よ」
たしかに。
頼りない自分をばかりを見つめていたら、小さく小さくなるばかり。力ある主イエスがおられた!!

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追悼、語らい

 オバマ大統領の初来日のあった13日に実家の母の二年目の偲ぶ会があった。
インフルエンザで駆け付けることができない者もあったが、母の弟夫婦、姪、それに兄弟姉妹がそれぞれの子どもたち、孫たちを連れて出席し、亡き母を悼んだ。

 夜はみなで山の宿に宿泊。小学生から80代までが、近況を報告しあうなどして和やかに過ごした。

     20091113_002

 わたしにとってもこれまでで最も楽しい嬉しいときとなった。それは、これまで、どちらかというと、こういった集まりは苦手だった二男が、今回は心を開いて従兄弟や伯父、伯母、というよりも、居合わせたみなと、寛いで楽しそうに本音で談笑していたからだ。

 わたしは親族代表では勿論ないが、一人ひとりを見ながら一人ひとりのために心の中で本気で祈った。伯父伯母たちも楽しそうであり、みな健やかであることが嬉しかった。インフルエンザに罹ったものも回復するだろう。

 インフルエンザ大流行の年、オバマ氏来日の日の追悼会として生涯記憶にのこるだろう。

 
        しかし
        ついには
      上から霊が注がれ
      荒野が果樹園となり
   果樹園が森と見なされるようになる。
        イザヤ32:15

わたしはこのお言葉を拠り所に8年間息子たちのために祈りつづけてきた。

 

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亡き母を偲ぶ

 実家の母が亡くなって2年経とうとしている。

午後にはみなが集まって母を偲ぶことになっている。
ひと一人が地上から消えることがどれほどに重大なことか。
息が絶えからだが冷たくなっていくときの思いがどんなものか。

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あのときわたしは、母が今肉体から抜け出したと納得した瞬間があった。

水素、酸素、炭素、窒素その他の微量元素から成るものが命を帯びているという不思議さを思う。

「この土の器をも」

三浦綾子さんの著書名だが、人はみな霊を吹き込まれた「この土の器」なのだ。

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天に輝く

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  わがうえなる星の輝く空と……

 室温12度。湿度55。さてきょうは何を……と思いながらPCに取り込んだ写真を流しているうちに、星ではないけれども、この月の動きのある写真に心惹かれた。

 ガラス戸には結露。冷えていそうだが、開けると、近くの神社の前にそそり立つビルに整列する窓の灯。樹木は底に沈んでいる。天は雲に覆われているが、それでも天蓋の裾には瞬く星が二つ。この世界にこそ真実があると思われるこの夜だ。

   
   地の上の騒擾に遠く、 
   人の喧しさをきっぱりと退けて、
      遙かな闇のむこうに、

          瞬く

       星の一つひとつが、
         寡黙に、
     しかし雄弁に語りながら、

       広大な宇宙に    
    たしかな位置をしめている。

    暗闇のただ中に暗闇の力はない。

 ほんとうに静かだ。
  


  

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祈りはなつかし

 昨年末に、私は礼拝のときにパイプオルガンがいますぐそこで演奏されているように聞こえたことがある。これはほんとうに驚くべきことだった。その他にあと二つあるが、わたしはこのことは書いておかねばならないと思い、教会で出している「葡萄の樹」に書きのこした。

 今年になって、教会にパイプオルガンの音も出る電子オルガンが神様によって備えられた。ローランドだ。わたしはこれを見たとき、これがみなさんの心の慰め、癒しになるだろうとおもった。

 このローランドに教会員の方が礼拝が始まるまで、自動演奏で賛美歌を入れてくださることがある。その中の一曲に「祈りはなつかし」という賛美歌がある。わたしはこれを聴いたときに涙が出てしかたがなかった。ローランドはわたしを慰めわたしを癒している。これが神様の愛だ、わたしはそう分った。

 わたしは人にどのように誤解されよし憎まれようとも、わたしはわたしの魂を守ることを優先させる。踏み出してよいものか、はっきりと分らない事柄には分るまでは踏み出さないことにする。また踏み出すことによって自分に危うさを生じるとき、自分の側に問題を生じると予測されるときには、先ずは留まることにする。

 これまでたいして熟慮もせずに、弱さから、憤りから、あるときには自己弁護のために、あるときは誹謗するために、また気に入られようとするために、無責任な言葉をつかってしまったことが多々ある。慚愧に堪えない。神の前と人の前に深くお詫びいたします。

 こうして神が生かしてくださっている魂を大切にし、幾ばくかでも神様のお役に立つことが、長い間不義理をしてきた神様への愛の証しになると思っている。愛という言葉の解釈は人によってさまざまあると思うが、ある方は、聖書の中の「愛する」を「大切にする」と訳している。

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    祈りはなつかし

いのりはなつかし われをみちびきて
世のわずらいより しばしのがれしむ
なやみをしのぶひ ここにていくたび
こころむるものの てよりのがれしぞ

いのりはなつかし たましいをもやし
わがすくいぬしを したいもとめしむ
みそばにちかづき みかおのひかりを
まちのぞむときぞ こよなくたのしき

いのりはなつかし 主をしとうこころを
つばさにのせては みもとにつれゆく
よりすがるわれの おもにをのぞきて
なぐさめたもう 主のあいはかぎりなし




    

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めぐみ

  きょうは何を書こうかな、と気負わずに思い巡らせる。

 三森先生をお招きしたオープン・チャーチのとき、トーン・チャイム演奏やら昼食の準備があることはお知らせしたが、もう一つのお知らせを書き忘れ、とんだ片手落ちだった。それは、2人の若い姉妹と1人の兄弟のギター&キーボードの弾き語り。何しろ歌詞は著作権を取ることを考えたほうが良いほどの出来ばえ。ほんとうに恵みに満ちたすばらしさだった。こんどのクリスマスに再登板を期待。
note

 午後から「青の会展」を見にでかけたところ、以前3軒隣に住んでいたWさんにばったり。展覧会にお誘いした。「青の会展」のメンバーのなかで面識のあるのは、OさんとSさん。お二人にご挨拶。会場をまわりながら「これだけの大作を描くのは大変でしょう」などと感心しながら観る。Wさんが私の背中をたたいていった「時間のたつのは早いわよ、あなた書きなさいよ。絵でも文章でも」。
door 

 コーヒーを手にWさんに昨年末から今までの不思議な数々をお話した。自分の歩む方向がこの一年で方向付けられたように思う。自分を生かすものは十字架以外にはない。私の失敗、欠点をも、神は赦された。私の中に何か価値があるものがあるとすれば、それは私自身ではなく、私の足りない部分を神が補填されたその部分、即ち神の恵みの総体というべきものだ。私にはそれが分った。そして私については、私がどれほどに小さなものであろうとも、十字架のもとにある限りは、神ご自身がその義と恵とを証明してくださるだろう。spade

 

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きょうのことばー三森春生先生のおはなし その2ー

 三森先生の説教要旨を書く前に、先生のお話しの中で、きょうになってぷかりと浮かんできたことがあります。それは、

 いくら良いことをしていても、どれほどに数々の善行を積み重ねていたとしても、その後で何かひとつ悪いことをすれば、まえに行った良いことがみな無になってしまう。逆に、どんなに悪いことを何度もしでかしたとしても、神の前に悔い改めるなら、その人はぜんぶ赦されて天国に行くことができる。

 教会ではよく聞くことです。しかし昨日はまったく新しい感覚で聞きました。

 天国での驚きは

 えっ、この人が天国に来たの
 あら、必ずくると思っていたあの人が来ていない

 どうもこんなことになるらしいのです。

      20091023_025

【1】論理的な比較(以下は説教要旨から)
1、科学者、思想家であるブレーズ・パスカル(1623~1662)の「賭けの論理」によって、神があるとするのと、神はないとするのとどちらが勝つか勝負してみましょう。
2、神があるとする方が絶対勝つのは、「神」の定義に理由があります。その定義によれば、「神」とは人間と自然を超えた存在、超越者であるからです。
3、「神」について現代の日本人には誤解があり、偏見があり、また無知でもあります。それも当然で、「カミ」という言葉自体があいまいなのです。漢字の「神」も中国語では聖書に示されるような絶対神だけを指しません。ある中国語訳の聖書では「上帝」となっています。
【2】物理的な探求
1、20世紀から21世紀にかけて人類の知識や技術は非常に発展しました。そのため、人間にはできない事はないかのように思い上がり錯覚しています。しかし大宇宙の中での人間孤独、自然の限界、特に地球環境の破壊について、解決は全くありません。
2、時間、空間、エネルギーの源泉はどこに求められるのでしょうか。すべて限りあるものばかりです。探求すればするほど悲劇的要素が増すばかりです。
3、結局は超越者に対する無知、無力、無為を思い知らされるのです。

【3】倫理的な必然
1、私たちは、創造主に対する被創造主の分際を知らなければなりません。

2、しかし人類固有の道徳観、(イマヌエル・カント。1724~1804)を思い起こしてみましょう。

3、最終的にはイエス・キリストによる神への回復(十字架、信仰)に期待するほかはありません。神を知らなかった罪、知ると知らざるとすべての罪の解決はキリストが十字架上で贖ってくださいました。あなたは信じますか?

【結】キリストこそ知恵の源  

「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」コロサイ2:3

教会はキリストをかしらとするキリストのからだであって、そこにつながることで神の知恵を得ることができるのです。

「主を恐れることは知識の初めである」箴言1:7


 

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きょうのことばー三森春生先生のおはなし その1ー

             事実、
   この世が自分の知恵によって
     神を知ることがないのは、
      神の知恵によるのです。
        それゆえ、
      神はみこころによって、
    宣教のことばの愚かさを通して、
        信じる者を
     救おうと定められたのです。
        Ⅰコリント1:21


 きょうは三森春生先生特集でした。

 三森先生は、インマヌエル綜合伝道団の創設者蔦田二雄牧師の薫陶を受けられた方です。同教団の王子教会(東京)を50数年牧会し、今年4月に80歳で引退。埼玉県在住。

 学生時代に夏期学校に参加。
参加者60人中3分の2がノンクリスチャンだったため、急遽講義内容が聖書研究から伝道説教に変更された。
月~金曜日の日程のうち二晩目が蔦田二雄師だった。

 蔦田師は「エリートも一皮下はみな罪人である。そこから救われるにはイエス・キリストしかない!」と説教。蔦田師がまるで自分のすべてを知っているのではないかと思わせるような鋭い説教だったという。

 「信じる者は手を挙げなさい」との呼びかけに20人ばかり挙手。その中に三森先生の手も。

 三森先生の同輩は、石川島播磨重工業などに就職、或いはフランス大使となった方もあるようだ。そのような社会的地位への可能性をも捨て、神の大使としての道を選ばれ、50年間教会と信徒とともに歩まれたことに感銘を受けた。また大学生伝道(KGK、OCC)、教団聖地研修旅行の指導にあたられ、母校聖宣神学院でも教鞭を執られた。

 三森先生は、蔦田師からこんなエピソードも聞いている。
蔦田師は歯科医蔦田顕理の息子としてシンガポール生まれる。青年時代日本の岡山で過ごした後、外交官をめざしロンドン大学に留学。ここの学生であったとき、若槻礼次郎の通訳をし謝礼に金時計をもらったことがあるという。聞き落としたかもしれないが1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮会議の関係かと思う。

 今回、三森先生は午前は「築き上げられる教会」、午後は「神との知恵比べ」と題してお話しくださったが、齢80まで牧師として初志を貫徹された三森師の姿そのものが、わたしには何よりのメッセージであった。

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 伝道メッセージは
【序】「神の愚かさは人よりも賢い」
日本人は宗教を持っていることを人格的に劣っているように考えている。しかし「宗教」とか「信仰」ということをまともに考えないと、ほんとうに人間らしい生き方を求めることはできない。(伝道会説教要旨より)    つづく

【1】論理的な比較
【2】物理的な探求
【3倫理的な必然
【結】キリストこそ神の源

【1】~【結】はあす書きます。

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秋のオープン・チャペルのご案内

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会場 spadeインマヌエル盛岡キリスト教会
住所 
diamond盛岡市大館町12ー26
電話
 club019-646-2924

note心安まる賛美歌をいっしょに歌いませんか。

bellトーンチャイムを演奏します。

happy01おいしいお昼もご一緒に。

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片付け

  田園風景が懐かしく思いだされベートーヴェンの「田園」をかけた。やけにテンポが早い。素っ気なくも聞こえる。好みの問題もあるだろうが、モーツァルトの40、41あたりが悠長だとしたら拍子抜けするが、「田園」はもっと空の明るさ、林をとおる光や鳥の声、そして空気を感じさせるややゆったりめぐらいでよいのではないか。よく確かめもせずに選択しクリックしたのだが、はて指揮者は? と見ればパーヴォ・ヤルヴィ&ドイツ・カンマーフィルハーモニーブレーメン。この快速は仕事のBGにはもってこいかもしれない。捗るだろう。まだ第一楽章、途中で切るのも……というわけで、聴きながらブログ書きを。

 ブルックナーを全曲聴こうとの意気込みは意気込みだけが停滞。これは何かをしながら聴くというわけにはいかない。ながらではよく理解できない。しかも長い。結局「9番」に「テ・デウム」で締め括る繰り返しとなっている。「テ・デウム」は自分には説得力がある。

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 きのうの雨がうそのよう。朝露の輝き。

 午前中は部屋の片付け。随分と時間がかかった。棚のものも全部取り出し、拭き掃除や配置がえをする。

 拭き掃除にサイカチを使ってみた。食器洗いにも試してみたがなかなか良い。油汚れがひどいときには予め拭き取ってからなら十分に落ちる。ただ家にサイカチの木が無いので、30リットル入れの袋一つ分のサイカチはすぐに底を突くだろう。その間だけでも河川に洗剤を流し込まずに済む。

 押し入れの中から息子が使った通学カバンや肩掛けカバンが出てきた。まだ捨てられない気がしてまた仕舞いこんだ。

 部屋にあるもので幾分か価値があると言えるものは音響類だろう。

 いつの間にか、自分が書いた作品もそれほど大切ではなくなった。もしこのPCから今全作品が消えたとしても、ちょっと惜しかったな、ぐらいで、無念の思いも3日は続かないだろう。ただ祈りながら書いた作品は、たとえ人の評価がどうであれ大切に思う。

 外の鉢植えをみな家の中に移動させた。植物の株が大きくなるたびに株分けをし鉢が増えていく。アガバンサスはすでに二人の方にいつかお分けする約束になっている。

 色々なものを整理しながら、自分が多くの方々に生かされてきたものであることを確認させられた。随分と不義理ばかりしてきたものだ。

 片付けなさいという夢をみたのは、こういうことを確認するためだったかもしれない。夢自体は、捜し物が見つからずに弱っている場面だったが。

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  こういうわけで、

     いつまでも残るものは

       信仰と希望と愛です。

    その中で一番すぐれているのは

          愛です。

        第一コリント13:13

 

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そこにもここにも

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 盛岡のきょうの気温は17時発表で最低8度、最高13度だったよう。
21時のこの部屋は16度、湿度60㌫。
 一日中雨。それでも午後の3時頃には晴れ間が。樹木の滴を撮ったところ蜘蛛の巣発見。

 それから自転車で買い物へ。朝から飽きるほど降った、もう降らないだろう。すくなくとも30分程度は晴れ間が持ってくれるはず。

 36年間の営業を終えた最寄りのスーパーには、大手の薬スーパーが入り店舗の灯が復活。新たに内装された店内は以前よりも広く見えた。照明がぐんと明るくなっている。この辺りが明るさを取り戻しすこしほっとした。

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 これよりさらにひと町むこうのスーパーで買い物をしているうちに雨が強く降ってきた。家人に電話をしようかとも思ったが、自分が濡れて帰れば済むことで、幸い濡らすと惜しい衣服は身につけていない。帰ったら洗濯槽に放り込めば済む。簡単なことだ。大きめのハンカチを目深にかぶり自転車で。ほんとうに空は不思議だ。こんなに立派な雨を間断なく降らせるとは。これだけ沙漠を濡らそうとすれば一大事業となる。5分ほどで町も人も木も草もびしょびしょに。自然体、野人であることの身軽さ、ずぶ濡れで帰る。

 けれどもこの時期に体調を崩している方々もある。「雪が降るまでが何となくいや」とも聞いた。ヴィヴァルディの「冬」が流れる。鋭く冷たい木枯らし。けれどもあたたかな暖炉の火。ほんのすこしのぬくもりがあれば凍てつく寒さもやり過ごせるだろう。

   だいじょうぶ?
   疲れてない?
   ゆっくりとやすんでね。
   あなたを守る天使が
   ほら
   そこにも
   ここにも。


 

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ブルックナーの9番

 ブルックナー交響曲第9番。
ズヴェーデン、ヴァント、ヨッフム、朝比奈指揮があるが、いまはカラヤンを聴いている。取りあえず外れないだろうという見込みからだ。今回で3回目。

 この9番はブルックナーが
「精神的、肉体的に苦難に見舞われていた時期の作品で、1891年に作曲され始めたが完成されることはなかった。この時期、肺の病気と弱った心臓がブルックナーに痛手を与えていた上に、精神的にも苦しんでいたのである。」(リチャード・オズボーン。以下「」内は同)
といった状況下で作曲している。
苦痛、苦悩という試練のとき、ひとは何をなし得るのか。

 この演奏は非常に威厳があり、音楽的密度が高いとされているようだ。音楽的密度については自分の言えるところではない。威厳はたしかにその通りと思う。ただ3度聴いてもまだ分らないことがある。それは「ブルックナーが自らのイマジネーションに取り憑かれ、それが心身両面に影響を与えたのか?あるいはダーウィンによって信仰の危機がもたらされたのか?あるいは何か未知の、この世の地獄とでも言うべきものを予感していたのか?」という点。
 ブルッックナーは生涯自然科学に大きな関心を寄せていたという。

 わたしはこの3つの疑問符が気になっている。
ただ何をいうにも、わたしには深刻な病に苦しんだ経験がまだない。音楽を専門的に知っているとも言いがたい。
 それでもなぜ気になるかと言えば、
 ブルックナーはいかような現実にあっても、魂は今一つ超えたところにあり、そこから、この創作に向き合い、このような肉体的な状況下でも自らの内からもたらされる旋律をそのときの状況下で自然体〟のまま連ねつづけた、うまくは言えないがそう思われてならないからだ。

   ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

神に献げられた曲はたくさんあるだろう。才気に富む壮麗な曲。純粋な信仰からの曲。その他さまざまな素晴らしい曲があるだろう。神はどれも喜ばれるに違いない。ただ、苦難の最中にも信仰を失わずに証として創り献げられた曲には涙されるのではなかろうか。



 
 

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補填

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 きょうは文化の日。盛岡の最低気温は0度。最高は6度(ヤフー)。

 朝に霰(あられ)が降った。まるで白磁の細かなかけらを撒いたよう。

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 霰に打たれつつも咲くアンカーたち。

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ベルンケアはよくこのブログにも登場。ギャロップで咲きつづけている。

        
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     お向かいの塀の実。

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なかまたちはもうゴールイン。わたしはゆっくり咲くとします。

   ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 一日の流れ、できごとを気をつけてみると、ほんとうに不思議に満ちているのを思う。そそっかしく、さして人様に秀でている何かがあるわけではないが、いつも誰かに何かに生かされている、つまり天の配在の妙に生かされているのを思う。
spade

 今朝見た夢は、「時間を守りなさい」「もうすこしきちんと自分のものを整理しなさい」という警告であったようだ。
heart

 ある会合に遅れていったところ、もう空いている席が一つしかなかった。左右をよく見もせずに慌てて座った。気づいてみると、そこが所謂世の中で言うお偉い方の隣だった。当然顰蹙ものとなったことがある。そんなわけで居心地の良さは末席が一番。これほど自分にぴったりの席はない。
club

 ところが教会には末席というものがないらしい。
教会の席はみな〝上席〟と知る。 はて、これは困った。けれども最近になって、わたしはやっと分った。それは自分の足りない分には神からの補填があり、〝上席〟につくに間に合うものにしてくださる。だから心配は要らないのだ。その補填を神の恵みというのだと。diamond

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」
   

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祈り

 子どもの頃、ミレーの「晩鐘」に敬虔な思いになったことがある。それはいま思うと何か祈りたいという気分だった。けれどもどう言ったらいいのかわからなかった。

 ところが聖書には、「そんなときはね、こんなふうに祈るといいんだよ」とでもいうように、ちゃんと書かれてあるのだ。それが「主の祈り」。

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        主の祈り

    天にまします我らの父よ。
 ねがわくは、御名を崇めさせたまえ。
    御国を来たらせたまえ。
   みこころの天になるごとく、
    地にもなさせたまえ。
     我らの日用の糧を、
     今日も与えたまえ。
   我らに負債(おいめ)あるものを、
     我らがゆるすごとく
   我らの負債をも赦したまえ。
   我らをこころみに会わせず、
    悪より救いいだしたまえ。
     国とちからと栄えとは、
  限りなく、なんじのものなればなり。
         アーメン

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秋のオープン・チャペルのご案内

09118_4
会場 spade インマヌエル盛岡キリスト教会
住所 
diamond 盛岡市大館町12ー26
      (上記の地図をご覧下さい)
電話 
club  019ー646ー2924

        ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

 きょうは、昇天者記念礼拝でした。
人生のある地点で天国へと旅だった懐かしい方々を偲びました。

虫眼鏡を小さき文字にすべらせつ聖句読みたる愛姉懐かし
重度の障害にあり愛兄は税理士となり務め果たせり
生まれ来てまもなく逝きし幼児の笑いは届く天より今も
帰天せし一人ひとりに注ぎたる牧者の労をわれは今知る今さらに知る

道を全うせし兄弟姉妹に4首。拙さを詫びつつ。筆者。

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