終戦記念日
終戦記念日。身近には、父が樺太帰り。叔父はシベリア帰りだ。いまだに戦争体験談を語り継いでいる三田照子さんは満州。梅村功二先生も満州。これらの人々から戦争の話しを聞く前は、「また反戦映画?もう食傷ぎみ」「またその話?もう聞いたからいい」、正直なところこう反応していた。十代の頃はよく戦争映画を観た。戦争映画は緊迫感のある多様なドラマ満載だった。しかし戦争はそんなものではないと知った。
父はもともと寡黙であり、叔父は、母には「もし聞いたらお前たち、気が狂う」と話していたらしい。
三田照子さんの夫善右衛門さんは、敗戦後に残留の同胞を救うために、妻子を先に帰国させ現地に留まった人だ。真っ先に逃げ帰った関東軍もあれば、帰れるチャンスを目の前に多くの人々の惨状を見かね身の危険を覚悟で留まったこんな人もいたのだ。私などが語るよりも、図書館に「光陰赤土に流れて」という著書がある。照子さん自身も「再見」を著している。
梅村功二先生は敗戦で捕虜となったとき、白昼敵の前を悠々と脱出することに成功した人だ。
戦争は万人の人生をドラマティクにする。普通じゃない、平凡じゃない、平穏じゃない、それは大方地獄というべきものだ。人が作り出した地獄だ。
終戦記念日の特番もあったかもしれないが、きょうはたまたま手近にあった文藝春秋9月特別号で「そのとき私は戦場にいた」を読んだ。
森光子さん: 訪問先(慰問先の戦地など)でお願いされる歌は、勇ましい『愛国行進曲』や『日の丸行進曲』ではありませんでした。むしろ高峰三枝子さんの・・・感傷的な歌詞の『湖畔の宿』に人気がありました。聴いてくださる皆さんの表情は笑顔を通り越して、泣きそうな顔だった・・・。
元「大和」乗組員坪井平次さん: 敵の攻撃が収まり、死傷者の収容に手を貸すため甲板に出ると、いたるところ鮮血に染まり、手すりには二つに折れた兵隊の胴体がぶら下がり、腕があちこちに散らばっていました。私たちは四散した肉片を素手で拾い集め、大きなたらいに入れていくのです。血で汚れた手のまま、戦闘食のにぎり飯にかぶりついたのを覚えています。
やなせたかしさん: 唯一どこの国でも変らぬ正義は、「ひもじい人を助ける」ということ。
大塚初重さん: 寿山丸は舳先の方から沈んで・・・ロープが揺れながらズタズタになって垂れ下がってきたので・・・つかまった・・・懸命に上りはじめたら、私の胴体から足につかまる人がいて、ズルズルとまた下の方にずり下がっていく。何人も何人もつかまってくる。だからとにかく、生きたい、死にたくない、助かりたいという一心で、つかまってくる人を体をもがいて、蹴落としたんです。彼らは燃えている船底に落ちていった。
※簡略に過ぎ、筆者には失礼かもしれませんが、この特集から私が初めて知った惨状などを抜粋しました。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ここのところすっかり夜行性になっている。昼間は落ち着いた時間が取りにくい。何とか自然なスタイルに戻したいと思いつつ、毎日午前0時のアラームを聴くことに。きょうはすこし早い目にブログを開けている。
きょうは親戚筋に不祝儀があった。私は早朝、実家の墓参りのあとは終日自宅に。32度。庭で寒暖計を持ち歩いた結果、いちばん涼しいところは葡萄棚の下と判ったが、蜂が来ていた。その下と辺りの草取りをしたところ、いつの間にかサンショウがそちこちに芽を吹いている。大きなサンショウの木があるのに何故キアゲハが見あたらないのか。おそらく幼虫のうちに鳥や虫に食べられてしまっているからだろう。1㌢ばかりの黒い幼虫を見たことがあるが、緑色に脱皮した幼虫を見たことがない。
近所にキアゲハの飼育を16匹、20匹としている方がいる。私は蝶々夫人と呼んでいる。餌がたりなくなるといらっしゃる。ここのサンショウは専ら蝶々夫人宅の〝こどもたち〟の食事に供されている。家の玄関で飼っている。「無菌です」と標本を一羽いただいた。
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コメント
荻野留美さま
ブログを訪れていただき、その動機を知り、保先生に労をねぎらわれたかの嬉しさでした。拙書を取り出して読んでくださったこと、感謝申し上げます。あの本を書いているとき、私は何ものかが私に力を貸してくれるのを感じていました。何ものかと言いましたが、保先生や赤沢先生であると私は今でも思っています。
チェリスト村井正一先生から保先生の自刃のお姿をお聞きしました。音楽上の、剣豪としての、人道上の数々のご尽力からして、敗戦に直面、如何に無念であられたかを思います。
ただどのようなお考えを持ち、どのような理由で自刃されたかは、軽々しく言うことはできないと思っています。時の盛岡市長二見直三は、保先生のご葬儀で、「まことにおめでとうございます」と遺族にご挨拶したということです。
音楽活動なさっているのですね。日々お忙しくあられると思います。ミュージシャン瑠美の音楽が、人の心を癒し慰め勇気を注ぎ込むものと輝きますように!!
投稿: 中ぶんな | 2009年8月16日 (日) 16時03分
はじめまして、荻野留美と言います。
梅村保の曾孫になります。今、東京で音楽活動をしているので、今は東京からメールを
打っています。
幼少の頃は、毎年夏休みになると名古屋から宮古へ
帰っていましたので功二おじいさんから、保おじいさんの事は、良く同じ話を聴いていました(o^-^o)
今日は、終戦記念日と言う事は分かっていたのですが、何故か胸が苦しく
そういえばと思い、考えていると、今日は保、御爺さんの命日でした。
自決した事を考えるとどんな思いだったのかと何とも言えない切ない気持になります。
中ぶんなさんが書かれた本を取り出して再度読んでいました。
そしてこのブログに辿り着きました。
今年の春に圭一叔父さんの子供の真美ちゃんの演奏会を聞きに行って来ました。
もう何年も宮古ジュニアを聞いていないな~と思い今懐かしく思っていました。
また、ブログを見に遊びに来ます。
投稿: | 2009年8月15日 (土) 23時43分