きょうのことば
わたしはまことのぶどうの木であり
わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな
父がそれを取り除き、
実を結ぶものはみな、
もっと多く実を結ぶために、
刈り込みをなさいます。
ヨハネ15:1、2
【国光勝美牧師のおはなし】
神はイエスにつながっているクリスチャンが、もっと多くの実を結ぶために、要らない枝を切り落とすという剪定作業をなさいます。関心が色々な方向に向いている場合、肝心の実を豊かに実らせることができない。良い葡萄を実らせるために、不必要な枝を切るのです。
世の中からは、クリスチャンはあれをしてはいけない、これをしてはいけないとまるで制約づくめのように思われています。しかしそれは無駄なものを切っているだけなのです。
パウロは病弱なテモテを慮って、「あなたは少量の葡萄酒を用いた方が良い」とすすめています。これを根拠にクリスチャンは飲酒してもよいと勘違いされている場合があります。
宣教師は酒、タバコに手を出さないことに決め、夫婦の在り方についても高い倫理観をもって福音を広めていきました。ただここで勘違いしてならないのは、それをしないからクリスチャンだということではありません。他の人はしてもいいかもしれない。しかし貴方はそれをしてはならないという剪定作業なのです。神は多くの結実を期待するが故に、「他の人はやっていても、あなたはそれをしない方がいい」と剪定作業をなさるのです。
クリスチャンの中には、御霊の性質を持っていると同時に、肉による性質をも持っている場合があります。そこで肉に根ざした様々な性質が出てきてしまうのです。ふさわしくないと切っても、また同じものが出てきてしまう。またこれではいけないと思い、また御霊の実を持ってくる。クリスチャンにもしこの二つの要素があるならば、何とかしてこれを解決しなければなりません。どうでもいいことではない。イエスさまが豊かな実を結ぶことができるために、肉なるものから、神は肉の根になるものを除去することができます。この除去が〝潔め〟といわれるものです。この〝潔め〟をきちんと受けないと、クリスチャンはやがては落ちてしまうのです。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」ガラテヤ2:20 を信じ、しっかりとこの御言葉に立つことが神の選定作業に自らをゆだねることであり、肉を剪定して頂き、肉を火で焼いていただくことなのです。
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