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声に映るもの

  ヘルベルト・フォン・カラヤンは楽器から美しい音を引き出す天才だといわれているが、声楽についてはどうだろう。
 レコード芸術1月号に「情熱の深化 デビュー50周年の地平」と題して、ホセ・カレーラス(テノール)のインタビューが載っていた。カレーラスもまたカラヤンから大きな影響を受けたという。カラヤンについてカレーラスは、「声、なかでもテノールの声について特別の愛着、こだわりを持っていた指揮者でした」「彼は歌手、そして声というものを心から愛していました。音楽の対する姿勢は極めて厳しいものがありましたが、それは締め付けるたぐいのものではなく、歌手の可能性をいったん評価したならば、その人の自由に歌わせてくれるというところがありました」といっている。歌手の内面性、個性、或いは尊厳の受容、肯定ということかと思う。

  楽器で情景、表情、感情まして思想を表すとなると極めて難しいこととなるだろう。成功するときしないときがありそうだ。オケなら、多様な性格の楽器を総動員させて、クリアするかもしれない。だが単独の楽器でとなると壁に突き当たりそう。しかし人の声なら。人の声こそ優れた楽器といわれる所以だ。いかに歌いこなすかはやはり技術もあるだろう。しかしその人の内面性を映し出すこともある。年末にはよく第九が演奏される。日本の第九の合唱と西欧のそれを聴いたときの決定的な違いは、日本の第九の合唱には神への畏敬、崇拝、謙遜さが足りないと思うのは私だけだろうか。やはりこれは、キリスト教土壌のない致し方のなさからだ。聖書の神はときとして「あなたはわたしの為に何をするのか? あなたはわたしの為に何を捨てるのか」と問う神なのだ。私のためにあれをしてください、これをしてくださいと願われる御利益的な神ではない。たとえば神というものを心底からどのように理解しているかが合唱に反映されてしまう。声はもっとも人間くさい楽器だということができそうだ。

 個人的にはソプラノが好きだ。グンドラ・ヤノヴィッツが耳にのこっている。第九の合唱になると、それまで閉じていたカラヤンの眼が開くのだが、ヤノヴィッツの声にカラヤンの眼にはうなずきと満足、敬虔な至福とが表れていた。カラヤンの商業的な一側面を厭う人々もあったが、彼は祈り深い人物でもあった。

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