梅村功二先生
1月30日は梅村功二先生の命日だ。平成12年に亡くなられた。はや9年。いまにいたっても、御尊父梅村保氏と太田カルテットを書く機会のあるのも、一つの奇縁と思う。
梅村功二先生は戦後満州から帰られ、岩手県の三陸海岸に面する宮古市(現在人口5万7千人)磯鶏に居宅を構えられた。保氏が音楽家であることを知る人々が功二先生に是が非でもヴァイオリンを教えて欲しいと願いでたのが梅村ヴァイオリン教室の始まりだった。
わたしが幼い子どもたちを引き連れて教室に伺ったのは昭和63年ごろ。功二先生71歳のとき。近所で女の子3人にヴァイオリンを習わせているお母さんの紹介だった。
区界から東に流れ下り、宮古市の藤原で宮古湾に注ぐ閉伊川。その閉伊川に架かる小山田橋を渡り、日本で二番目に高い煙突が空に抜きんでるラサ工業の煙突を車窓に見上げ、途中この地域産業を支える肥料、石膏プラスター生産のむんと鼻を衝く臭いの充満する一区画をくぐり抜け、満々と水を湛え太平洋の潮に潜りこみゆく河口付近に眩い午後の日を望みながら、毎週教室に通うこととなった。
功二先生がレッスンの余談に繰り返し話されたのは、板谷栄城先生といまは亡くなられたが桐朋音楽大学の久保田良作先生。そして梅村保氏のことだった。どのお母さん方にもこのことを何度も語られていたらしい。わたしがあるお母さんにこのことを話題にしたとき、「本気で聞いてるの?」と半ば揶揄するかに言われたことがある。しかしわたしは本気で聞いたのだった。年寄りの繰り言と思われることを真面目に聞くと宝に出会うことがあるが、まさしく後年そうなった。
「立派な親父だった。親父を書くまでは死ねない」そう仰った。保氏の戸田一心流と居合術、そして音楽と梅村保氏主宰「太田カルテット」を何とか残さなければならないとのお気持ちが伝わってきた。それまで人の役に立とうという気持ちを持ったことのないわたしが、なぜか、「何かお手伝いできますか?」と言ってしまっていた。すると先生が奧から風呂敷包み二つを持って来られ貸してくださったのだった。先生は「目の前が明るくなった」と仰った。包みを持って帰ると、主人は「これはあなたのすることじゃないよ。はやく返してきたほうがいい」と言った。しかし功二先生の一言を浮かべるともう止めたとは言えなかった。
読んでいるうちに少しずつわかりはじめ、功二先生の言っていた内容が解ってきたのだった。ただ身内の言うことばかりではよく分からないというと、先生が古い書簡から、保先生の関係者を何人かピックアップして教えてくださったのだが、その中に村井正一氏、香川県の玉置鷹彦氏があり、また風呂敷包みの中にあるコピーから赤沢和夫氏、佐藤泰平氏、板谷栄紀氏という存在を知り功二先生から紹介していただき問い合わせを始め、当時の新聞に親しみ、資料集めに取りかかったのである。
途中詩歌に没頭、あるいは童話、小説創作、親の介護などに専念したために遅れたが、平成19年太田カルテットを小説化した「光炎に響く」(新風舎刊)を出版。またこのほど文芸誌「天気図」vol7に論文「新説・太田カルテット」を掲載、遅まきながら梅村功二先生の念願達成に一役担わせて頂いた。
平成12年の葬儀の日、藤原の橋から県土を南北に走る白い山々を遠くに眺めながら、あの山のたたずまいはこのあるがままでいい、あの山もこれでよい、そう思っていたとき、「よく来た」という先生の声が聞こえた気がした。
功二先生はあの日、弟子たちの繊細な美しくもすこし悲しげなパッフェルベルのカノンの追悼弦楽合奏を聴きに現れ、冗談を飛ばしながらにこにこと演奏する弟子たちのそばを歩いておられるのを思った。
梅村ヴァイオリン教室から成る今日の宮古ジュニアオーケストラの隆盛を保、功二両先生がどれほどに喜ばれているかは敢て言うまでもないだろう。
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