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2008年11月

雑感

 ここのところサン=サーンス交響曲第3番第2楽章ばかり聴いている。歌謡曲、シャンソン、演歌、民族音楽も好きだが、調達する手間の要らないもので間に合わせている。ひところはヴェートーヴェンの7番だった。7番は繰り返しが多いだけに、どう変化をつけるかが難しく、また指揮者も奏者もとにかく忙しく休む暇がない曲だという。サン=サーンスの3番は、大樹のあいだをゆっくりと散策しその中から広がるパノラマを楽しんでいるような気分になれる。楽器がけっこう壮大なスケールで鳴り響くところでも、静寂は突き崩されない。感動しないという意味ではなく静寂を織りなす裏に聴きながら同時に表には音の量感をめいっぱい享受できる、そんな感じだ。

 「パイプオルガンジョイントコンサート」のチラシがまだコルクボードにある。11月8日だったが行かないでしまった。美しいパイプオルガンの写真入りだ。きょうの一日を締めくくろうとするときになると何故か眼をあげてゆっくりと机のまわりを見回している自分がある。ミレーの「晩鐘」の写真の額。子どもの頃に姉たちといた部屋にも掛かっていた。観るたびに敬虔な想いになったものだ。右の壁には叔母の描いた水彩画。ザルにカレイが3枚のっている。花と魚が得意だ。

 ボードの15枚の写真。一周忌を迎えようとしている母の顔。小岩井のキツネの顔が彫られた椅子に腰掛けている。

 いつもはこんな時間でも近くのコンビニの車の発信音がしたり救急車の音がしているのだが、今晩は静かだ。ハードディスクの機械音がしているばかり。止めればしんとするだろう。きょうも一日が終わった。

  

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「すみません」

霙(みぞれ)ふる午後の四時。
もう街灯が点っている。

 いまこのときにも、
 外で働いている人がいる。
 この寒空の下で。
 一月なみの冷えこみだ。
 狭い道が掘り返されていた。
 黄色いヘルメットを被って
 すっかり日に焼けた赤銅色の顔が
 「すみません」と通行指示を出す。
 すまないのはこっちです。
 そのあたりの家のなかでは
 大した働きもせず
 無駄なほどに灯油を燃やし
 過剰なほどに電気をつかって
 ぬくぬくと菓子を食べたり
 居眠りしたりしているのです。
 こんなに冷え込むときに
 こんな霙まじりの日に
 道を直し
 道を通してくれるのは
 そちらじゃありませんか
 こちらこそ
 「すみません」

ヘッドライトが近づき
テールランプが尾を曳き遠ざかる。

 
 
 
 

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あの感動再びー大井利江、須恵子夫妻ー

  空は薄灰色。青空の向こうへ突き抜けられそうで突き抜けられない。松や杉のてっぺんのしなやかな枝が、小雨まじりの冷たい風を交わそうと細やかに揺れている。その後ろには何があろうと直立不動の電信柱。18本の長い電線を二階家に5階建てのアパートにしっかりと延ばして雨滴にも固く口を結んで突っ立っている。

 じっとしていれば気の滅入るようなこんな日は、窓際のやっと咲いたばかりのシクラメンも不機嫌ぎみ。ストーブがぽっぽっぽっぽっとちっちゃな丸い音をたてながら燃えていても、どこからかすきま風が。
 流れるサンサーンスの第3番のオルガンは、それでもかなりの効果をあげて、部屋のゆるんだ空気に荘厳さを満たしてくれる。
 ただ今ひとつ何かが、心を潤す何かが足りない。そこではたとひらめいたのが大井利江選手と須恵子さん。いまどうしてる?もうこんなに寒くなって。練習してるだろうか。たしか8時半から投げるはず。10時まで50回だ。洋野町の風はあったかいか冷たいか、海のそばならこんな日はあったかい筈がない。須恵子さんだいじょうぶかな。大江さん、禁酒守ってるかな。酒解禁はロンドンだ。ロンドンではウィスキーだ。検索してみよっと。

 ネット上をそちこち忙しく、筋トレにもならない散歩で、記事を読み歩くうちに、アテネ、北京の感動記事をまた一通り復習するうちに、またまた感動してしまった。脚に障害のある須恵子さんが何事にも一生懸命なのをみてこうしちゃおられぬと挑戦しつづける大井さん。投げる円盤を拾い手渡す須恵子さん。その懸命さ、チャレンジに心が揺さぶられる。あの感動は一時的なものではなかった。アテネが終わろうと北京が終わろうと、この金融危機に始まる株価暴落、不景気で相次ぐ人員削減、年金への影響など、じわじわと迫るマイナスな足音の迫るいまに、元気と感動をくれる。
 
 雨足は強くなったが心も強くなった。さてもう一仕事だ!

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フジ子の奇蹟

 土曜日に友人宅で観せてもらった、そして借りてきてまたさっき観たフジ子のビデオからあれこれと引き出されている。昨夜書いたものを今朝6時頃手直しして出そうとしたら、規定の1メガバイトを超えていた。誤操作で半分失ってしまいまた書き直しているのだ。

 著書によれば、フジ子にはいくつかの奇蹟があった。
一つは、40マルクのセーターを買おうと口座から40マルクおろす。ところが貧しい少年に20マルクを与えてしまう。店に戻ってみると同じセーターが不思議にも20マルクに値下げされていたという。貧しさに一週間砂糖水だけのこともあった。辛酸をしっているフジ子が与えた20マルクは富めるものが気まぐれや慈善で与えた20マルクとはまったく意味が違う値高きものなのだ。
 また一つは、お気に入りのステンドグラスを持っていた。壁に掛けようにも右にしか穴があいていない。仕方なく窓際に立てかけておいた。夜に凄い物音がして、翌朝階下に出てみると、鉢植えなどが壊れた中にステンドグラスが落ちていた。どこか壊れたはずと拾い上げてみると無傷だった。しかも左に小さな穴があいていた。穴の周りにはひび割れもなかった。フジ子はこのとき神の存在を確信する。
 どうやら神様は、数億円の宝くじを当ててみせることでご自分が存在することを教えたりはしないようだ。ガンで亡くなった愛する者を生き返らせることでご自分の力をひけらかすようなことはしないようだ。むしろごくありふれた日常の中でほんの小さな米粒ほどの小さな奇蹟をおこして、「わたしはここにいるよ、わたしは確かにいるのだよ」と示されるようだ。
 上野奏楽堂での再起ののちの幸運については、フジ子がそう祈ったかどうかは分からない。さっき観た限りでは、ステージに出る直前に十字を切り5本の指と指をしっかりと組んで祈っているようではあった。

 土曜日、T子さん宅でちょうどこのビデオを観終えたころに、自宅の主人から電話が入った。童話会に例の文芸誌の編集長立川さんがゲラを持って来てくださっているという。急遽帰宅。会場へと急行。
 きょう出版社に立ち寄って前回のゲラを直して貰ってきたという。迅速さにびっくり。けれど電話を貰ったお陰で、まだ残っていた会の3人の活き活きとした話のなかにしばし居ることができ楽しかった。

 夕方は急いで夕食の準備を整えてから、「ガイア クァトロ」の公演に出かけた。県公会堂。金子飛鳥のクラッシックとはまた違ったヴァイオリンの自在な弾きっぷり。自然の静けさ、軋み、叫び、祈りが伝わってきた。ヤヒロ・トモヒロの体の内奧から奔流のように刻まれ叩き出されてくる大陸的な大陸の乾いた風土を感じさせるリズムに本源的なものを感じた一ときだった。

 11月22日(土)は図らずも久方ぶりに贅沢な楽しい一日となった。感謝したい。
 
 

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神の奇蹟ーフジ子のラ・カンパネラー

  書き留めておかなければ楽しかったことまでが指の間からこぼれ落ちて、記憶までもが消え去ってしまいそうだ。

 土曜日午前中に原稿書きが出来なかったので、原稿も持たずに童話会には行けないなとあきらめていた。午後から近くの友だちT子さんを訪ねた。借りてからもうほとんど私物化していた本を返すためだ。チャイムを鳴らすとドアの向こうで明るい声が応えている。玄関が開いた。「ちょうどいま呼ぼうかとおもってたところだった」という。そのままお邪魔してしまった。

 フジ子ヘミングのビデオをかけてくれた。1999年ごろの映像だ。9匹の猫と気負わず自由に一人暮らしをするフジ子。誰にでもある日常の姿。そして夜には仄明かりのなかでピアノに向かうフジ子。左指に火の点いたタバコをはさみながら鍵盤に指を動かしている。画面に映る大ピアニストが身近に感じられた。一旦は止めたタバコだったらしい。猫が死んだときにまた吸い始めたという。わたしはタバコはやらない。けれども多少灰が鍵盤に落ちてもさほど気にもしないフジ子に、どこか自分に似ているなと感じた。
 ただフジ子には自分とは決定的な違いがある。比べるのもおかしいのだが。フジ子は血の滲むような努力の積み重ねをしてきている。自分はそれをしていない。タバコの灰一つで自分との共通項目とするのはとんでもない話とも思う。
 もう一代きりでこのピアノを使うものはいないという思いもあるだろう。

 フジ子は、人生これからどうしようかと思っていた矢先に輝かしいスターダムに乗る。               つづく

 

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宮内省雅楽所の伶人、短期間で洋楽習得

  岩手の大正時代の弦楽四重奏団太田カルテットが招聘した音楽家にハイドン・カルテットもあった。彼らは梅村保の音楽堂でリハーサルをした。メンバーは年代によって入れ替わっている。第一ヴァイオリン芝祐孟、第二ヴァイオリン多忠直(大正12年現在)、ヴィオラ杉山長谷夫、セロ多基永。昭和4年の第二ヴァイオリンは窪兼雅(このときは岩手音楽協会主催)。多忠亮が第二ヴァイオリンのときもあった。
 杉山
長谷夫以外はみな宮内省式部職楽部の出身ないし在籍であった。

 宮内省楽部といえば笙、ひちりき、和琴、太鼓、鉦鼓による雅楽のはずが、どのようにして洋楽をも学んだのか。彼らの一世代前の宮内省雅楽所の伶人らがいち早く海軍軍楽隊にいたフェントンから洋楽の初歩を学び、継いで明治13年音楽取調掛に招聘されたルーサー・ホワイティング・メイソンに学んでいた。メイソンの教授に預かった伶人は上真行(うえさねみち)、奧好義(おくよしいさ)、辻則承(つじのりつぐ)、芝祐夏(しばすけなつ)、多久隋(おおのひさより)であった。みな楽器のプロであったので短期間にピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルート、クラリネットなどを習得してしまったという。これをさらに同輩、後進に伝えている。
 ハイドン・カルテットの芝祐孟、多忠直の厳父はともに宮内省楽部の学部長であった。

 メイソン(1818~1896)は熱心なクリスチャンだった。ボストンのニューイングランド音楽院出身。
 
 

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ことば  John:chapter1

 初めにことばがあった。
 ことばは神とともにあった。
 ことばは神であった。
 この方は、初めに神とともにおられた。
 すべてのものは、この方によって造られた。
 造られたもので、
 この方によらずにできたものは一つもない。
 この方にいのちがあった。
 このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。
 闇はこれに打ち勝たなかった。
          John:chapter1



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雑感ー言葉・言葉のない言葉ー

 ほんとうは今日は別な題で書こうとおもっていた。一旦は、言葉、という題を書きこみ、自分ももしかすれば人を傷つける言葉を無意識のうちに使っていたかもしれないと書いたりもしたのだが、今ひとつ書き進めない。そこで改題し「雑感」としたら、拘束感が無くなりあたかも何でもどうにでも書いてよいという許可書を手にした気分になるから不思議だ。

 息子が中学生だったころ、息子が何を考えているのか分からず戸惑ったり不安になったりしたこともあった。ただどんなときでも、あなたを尊重しているしあなたが大事なんだよ、という言葉を使うように心がけてきた。そして二十歳過ぎたいま、寡黙だった息子の口から自分が使った言葉が発せられるようになった。廊下でぶつかりそうになると、「失礼」。スーパーの前で車を止めてもらい買い物のために降りると、「急がなくていいよ、ゆっくりでいいから」。自分が口にしてきた言葉がいま自分に帰ってきている。

 
 数行でいいから毎日でも書きたいなと思う。言葉を連ねる作業ができたときは質はともかく満足感がある。逆に一行も書かなかった日は理由は何であれ物足りなさが残る。
 よく誤字脱字をやらかす。就寝してから、あっまずい!と気づいたりする。あした訂正しとこ。その言い訳はこうだ。「プロじゃないんだから」「プロの入り口にもないことはみんな分かってるさ」。甘えだ。
 これでいいわけがない。何とかしなくちゃ。


 強いものには何を言ってもいいだろう、という思いこみがあった。強いものは受容力もある、自分が強いぶんだけ相手にも寛大になれるだろう。しかしこれは大きな錯覚というよりは大きな誤認だと気づいた。一つの言葉にたいする反応は個性の違いを考えに入れてもやはりそう大きな違いはないようだ。似たようなことだが、人は理屈で動くと長いあいだ思いこんでいた。最近になってむしろ感情で動くことがままあることに気づいた。かくいう自分もそうだがそんなときは何とか転換させようと努力している。ただこの転換がうまく行かなかった場合がこじれている。何れにしろきっかけは不用意な言葉からだ。


 言葉はむずかしい。何をいったらいいか分からなくなって、言葉が見つからないばかりに益々関係が悪化することもある。
 逆に言いすぎて、くどい、うるさい、ということになる場合も。適切で適度な言葉を使うことは難しい。
 そんな中でいま過ごしていられるのは赦しがあるからだ。困った人だな、だけどまあ大目にみてあげよう、よくそんな配慮を感じる。家の中でも、近所でも、友だちの中でも、所属する団体の中でも。ありがたい事である。


 また言葉の用い方に必要以上の神経を使うことがある。
「音楽に触れる」と書いてから、あっ、まずい、触れる、は別な言葉に置き換えた方がいいな、こんな具合だ。近頃になって、本来はよい意味で用いられる言葉が、全く違う意味に使われることがあると気づいたからだ。いい言葉がいつの間にか卑猥な意味を帯びていたりする。知らないで使うと、とんでもないことになりかねない。


 若い人たちの省略ことばに関しては、真面目な方は国語の破壊だというかもしれない。ひいき目に観れば、短くて使いやすく便利だという一側面もある。「明けましておめでとう」は「あけおめ」というらしい。情緒はないが短縮された電文か暗号のようでもある。この先どこまで変貌を遂げるのか予測もつかない言葉言葉言葉・・・・

 その点楽器はいい。言葉を使わなくとも語ることができる。用を足そうとするには不向きだが、誤解を生むことはまずない。ヒトラーの好きなワグナーをかけるのは云々といわれることは稀にあるとしても、音楽が誤解に繋がることはない。楽器は奏して語る雄弁な生きものだ。

 

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ヨーロッパ絵画展ー岩手県立美術館ー10/18~12/23

 何日かまえに、ヨーロッパ絵画展を観た。長坂コレクションとあった。長野県在住のコレクター長坂剛氏が30年にわたって蒐集したものらしい。自動車会社社長だ。
 錚々たるバロック絵画宗教画。おおらかで芳醇で色彩明暗ともに当時求められ受け入れられやすい聖書というフィルターをくぐらせた人間存在、生命の謳歌と見える。精巧さ見事さに圧倒されつつもあまりに短時間で数多くに接したためか、これら作品群を後にするときには少々疲れ食傷ぎみとなった。
 絵画鑑賞という観点からはすこしずれているのかもしれないが、一連にこんなのじゃない、という違和感を否めない。「こんなんじゃない、聖書とはこんなんじゃない」。そのとき浮かんだのは舟越保武の1989(平成元)年制作のブロンズ像「ゴルゴダ」だった。舟越の作品は他にも多くあるはずだが、なぜか「ゴルゴダ」が浮かんだ。人間世界の無情、悲哀、罪、業・・・人間の持つありとあらゆる負、暗闇を知った見てしまった、そしていまに至るもそれらすべてを知りつつしずかな眼差しを落としている。瞑目しているかにも見える。これこそ聖書の真理を語っている作品だと思われた。
 検索してみると舟越は1912年岩手県二戸郡一戸町小鳥谷に生まれている。わたしも小鳥谷生まれだ。自分が生まれた小鳥谷を、わたしは「小鳥谷からは何も出はしない」と思ってきたが、舟越がそうであったことに感慨を覚える。妙に嬉しい。
 絵画展に戻るが、バロックの世俗画ではアントニオ・ストムの「アーチのある港」に惹かれた。現実と空想からなる古典的な風景画だ。これで食傷気味だった芸術の胃袋がほっと一息ついた。
 近代絵画の肖像画ではセルゲイ・セミョーノヴィッチ・エゴルノフ「ピアノの側にいる女性」、ピョートル・クリロフ「赤い椅子に座る女性の肖像」のまえでは足が止まった。近頃は音楽でもロシア贔屓になっている。スラヴの血の強さ、的確さ、重さといった表れが精神に落ち着きをもたらしてくれるのだ。
 近代絵画の風景画の中ではノルウェーの作家ルートヴィッヒ・ムンテの「収穫」。ミレー系列だ。暮れゆく田園を背景に仕事を終えた農村の人々の姿が描かれている。心がしずかになってゆく。
 近代絵画の風俗画では「画廊のルートヴィヒ2世」が印象に残った。
 岩手を根城とするわたしにとっては、有り難い企画展だった。これだけ絵画を観ようとすればやはりそれなりの時間と出費を要する。わざわざ遠隔地に出向きもせずに、作品に対しては甚だ失礼ではあるけれども、有り難く機会を享受させていただいた。最後部分をもうすこしよく観ておきたかったが・・・
 閉幕までにまた機会を持ちたい。

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『冬』の楽章

 窓いっぱいに紅を誇っていたもみじが、きょう一ぺんに落ちて路に散り敷かれた。登校途中の子どもたちが枯葉の厚みの心地よさをたしかめるように、その上を行きつ戻りつしている。静かな木立に満ちるなごりの日差しをそっと受けとめていた『秋』、木の枝にこわごわとぶら下がっていた『秋』の楽章は、ときの訪れに気づいて潔く風に吹かれ去った。
 窓を振るわせる『冬』の音。ちらつく雪の中にぱちぷちとはじけ跳ぶあられ。家の中に移された鉢植えたちがそっと肩を寄せあい、冷えてゆく窓にせまりくる白い点描をつくねんと見上げている。花びらのあくびの赤いシクラメン。唐突につんつんとものいうアロエの葉。ながい楕円の葉枕にひとりまどろむ月下美人。あるかないかの一まいの硝子向こうは『冬』の楽章。てぃりてぃりとひゅるひゅると鳴る幻のヴァイオリン。

                                                

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球根の中には『賛美歌21』575

 球根の中には

球根の中には花が秘められ
さなぎの中からいのち羽ばたく
寒い冬の中、春は目覚める
その日、その時を、ただ神が知る

沈黙はやがて歌に変えられ
深い闇の中、夜明け近づく
過ぎ去った時が未来を開く
その日、その時を、ただ神が知る

いのちのおわりは、いのちのはじめ
恐れは信仰に、死は復活に
ついに変えられ永遠の朝
その日、その時を、ただ神が知る

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賛美歌「いかなるめぐみぞ」

「アメージング・グレイス」をいつもインマヌエル賛美歌257「いかなるめぐみぞ」の歌詞でうたっている。

いかなる恵ぞ
かかる身をも
たえなる救いに
いれたもうとは

不思議な曲だ。喜びのときでも、悲しみのときでも、うまくいっているときも、思うようにいかないときも、笑っていようと怒っていようと、この曲が流れてくると敬虔なおもいになる。おだやかな優しさがしみこんでくる。癒されるのだ。作詞者のジョン・ニュートンが奴隷貿易に手を染め、船が難破したときに助かり、後に前非を悔いて牧師になった話は有名だが、作曲者は不詳だ。多くの人々に愛されている。知らないひとはほとんどいないだろう。まさしく天が地上に与えたなぐさめの曲の一つなのだろう。

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球根掘り

 きのう一日球根掘りをした。予定はなかったのだが、近くの友人からホタルブクロの苗をたくさんいただき外回りに植えこんでいるうちに、天気もよいし、いまのうちにやってしまおうということに。

 ユリ、チューリップ、グラジオラスとどこの庭にも見られる花々。しかし春には明るく咲いてくれる。ありきたりのようだが心を和ませ楽しませてくれる。去年は植え替えをしなかった。掘り出してみると、一つの球根が三つに増えていたり。窮屈そうにくっついているのを、しずかに引き離すたびに手あしをのばして深呼吸する。いつのまにか球根のしたにはびこった笹の根も30センチ深さに掘って除いた。
 フジ子さんの母親がフジ子さんが土いじりをすると「百姓になるつもりか!」と怒ったという。「百姓で大いにけっこう!」。思わず悪態をついた。草の陰から大きなかたつむりが転がりでた。生きている。また草地にもどしておいた。
 見上げると青空の下にリンゴの木。まだ青いから食べられないだろうとばかり思っていた12個の実は鳥に深く抉られていた。落ちていた一つを拾いあげると傷口から甘い香りがする。フジとあったので手に入れたのだが、どこにもフジらしきところがない。この自然にまかせたリンゴの黒い星やいびつさ、大きさからして、出荷されるリンゴにどれほどの手間暇がかかっているかがわかる。来年はマニアル通りに手をかけてみよう。ブルーベリーのように木が2、3本あれば交配はうまくいくのかもしれないが、これ以上は増やせない。

 たおれかかったエニシダを倒れないように工夫をし、マダガスカルジャスミンを鉢にあげた。小さな花畑をスコップで掘り返し、太い根や枯葉を除いた。

 花々の美しさ、輝きの一とき。フジ子さんは長い長い孤独と貧しさがあった。一週間を砂糖水だけで暮らしたときも。しかし胸躍るときは来た。カラヤンにピアノを弾いてみなさいと言われる。しかし彼女は弾かないでしまう。バーンスタインとの出会い。好ましくない人格の音楽家もあるという。しかしバーンスタインは人間的にも素晴らしかったという。あとがない彼女はこのときは彼の前で弾く。そして認められる。だがすぐに聴力を失う。ピアノ教師を続ける中で再起を果たす。輝きのときにいっぱいに輝き、そして輝きつづけている。

 来年また咲くであろうたくさんの球根。チューリップの花と花のあいだに、むせるようなユリのかぐわしさに、色とりどりのグラジオラスの中に、あのラ・カンパネラがシャープの鐘の音を鳴り響かせそうな気がする。

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遠方より友きたる

 葛巻町に住む友だちと会った。お昼は某レストランのバイキング。
「五十になれば人生が見える」そう言った彼女だった。
オフロードに野菜満載。「ダイコンと白菜あげる」といわれ一本一個だとおもっていたところ、一冬間に合いそうなほどの量にはびっくり仰天してしまった。
 葛巻。北上山系開発による大規模酪農がはじまるまでは、著書にも出なかった町だ。それが大酪農家ができ、ついで葡萄の生産のない土地でのワインの開発。山葡萄に着目。せんだってもりおか童話会の会合が盛岡市の東日本ホテルでもたれたが、会員の方がワインを注文したところ、葛巻ワインを置いていた。嬉しかった。いまは山葡萄を使ってのブランデーにも挑戦しているはずだ。ワイン造りが一冊の本となって図書館の書架に並んだ。ミルク、ワイン、風車。人を呼び込む何も持たなかった町、温泉も特産物もなかった町に特産物が生まれた。書き加える、書き足す事項ができたのだ。
 彼女はその町の一翼を担ってきたと思う。多々書きたいことはあるが、地域産業の初発は険しい。それと向き合ってきた苦労が無駄であってはならないのだ。それはやはり記録されなければならない、そう思う。
 

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物語「大正10年2月16日の帝国劇場」

「えーと、我われの席は・・・」
 粋に紳士服を着込んだ館沢が劇場の階段を一段一段降りながらステージから12列目の中央席をめざす。つづく赤沢、佐々木すこし離れて梅村が徐に階段を降りる。やっと指定席に並ぶ4人。
「この曲目、2番目、これは何と読むのかな?」
 佐々木がプログラムの「西班牙」を指す。
「スペインですよ。スペイン交響曲。作曲者のラーローは、グラナドス、タルレガ、ファリャ、サラサーテに並ぶスペインの代表的な作曲家です」
 梅村が答えて、ハンカチで鼻水を拭った。
頷く佐々木。
「今回いちばん聴きたいのはサラサーテだ。いつかはチゴイナーワイゼンを独奏したい」
 赤沢がざわめく会場の入りを計るようにぐるりと見回しながらいう。
「さあて、何年かかるやら」
 館沢が茶化した。
「何年かかったってやりますよ。ここまでやって諦められるもんですか」
「ぼくはヴィヴァルディのバイオリン司伴楽が楽しみだ。あの弦の明るさ、さんさんとふる光はやっぱり日本のお日さまじゃないですよ」と館沢。
「この司伴楽は『四季』のことでしょう」と佐々木。                「解説では、アレグロ、アダジオ、アレグロとなってるから、これは『秋』の楽章だろうね」梅村が言い足して懐中時計を見る「そろそろです」。        「あれっ、あのご婦人はもしかして幸田延女史では?」館沢がかなり離れたところにいるドレスの婦人に視線をあて赤沢におしえる。                                         「しーっ」佐々木が制した。               

スタンウェイピアノが待つステージにカツカツカツと靴音がして、ストラディバリを抱えたエルマンが登場。従うはピアノ伴奏のアーサー・レッサー。割れるような拍手とともにレッサーが椅子に腰掛け幾分ピアノに引き寄せる。顎にヴァイオリンを挟み込み、弓を構えるエルマン。息をのんで待つ人々に鳴りだしたアレグロのは    

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ミッシャ・エルマンー洋洋楽堂ー

 大正10年ミッシャ・エルマンが来日している。太田カルテットの4人も、当時は東京まで12時間もかかる列車に乗り、枕木の音をドコンドコンと聞きながら東北本線に揺れたのだ。

プログラムによれば2月16日~30日毎夜8時開演。帝国劇場。
バイオリン独奏:ミッシャ・エルマン氏
ピアノ伴奏:アーサー・レッサー氏
特等金十五圓
一等金十二圓
二等金 八圓
三等金 四圓
四等金 二圓

このとき太田カルテットは梅村保34歳、佐々木休次郎27歳、館沢繁次郎23歳、赤沢長五郎24歳。帝劇のシートに4人並んでエルマン・トーン(一説にはこの言葉は、野村あらえびすから出ているとも)に耳を傾ける姿が彷彿とするのです。多忠亮、榊原直、平井保三も一緒だったかもしれない。彼らが待ちにまった曲目は

2月16日の曲目
一、バイオリン司伴樂 ヴィヴァルディ作曲
二、西班牙交響樂   ラーロー作曲
      ー休憩ー
三、ファウスト幻想曲  ウィニアウスキー作曲
四、(イ)アベ・マリア  シューベルト作曲
              ウィルヘルミ編曲
   (ロ)コントルダンス ベートーベン作曲
               エルマン編曲
   (ハ)変ほ調のノクターン(夜樂)
               ショパン作曲
   (ニ)チゴイナーワイゼン  
               サラサーテ作曲
 プログラムの解説者:大田黒元雄、妹尾幸陽

チケットの高さには驚きですが、この時代は高級料亭で四,五人が思い切り飲食しても十圓でおつりがきたそう。
幸田延が私邸の一角に建てた洋洋楽堂にエルマンらを招いている。スタンウェイが設置されていた。この音楽堂にエルマンの独特の甘い音色がいっぱいに響き満ちたのだ。
  1904年ベルリンデビュー
  1905年ロンドンデビュー
  1908年アメリカデビュー。カーネギーホール
 この華々しい経歴のヴァイオリンニストの演奏を私邸で聴くなぞもってのほかと言いたいところだが、羨望はひとまず措いて、この幸運に浴したメンバーはというと
 帝劇の山本専務夫妻、箏曲家今井慶松、作曲家山本直忠、安藤幸、鈴木バイオリン社長、息子、鈴木兄弟ら。
 これぞ贅沢の極めつけ!!延さんの高くなりっぱなしの鼻を誰も砕くことができなかったのも頷けるのです。
(青字部分は萩谷由喜子「幸田姉妹」を参考に書きました)

 エルマンの演奏は、太田カルテットにも大きな影響を与えました。おそらくは、技術的なことに加え、音楽性というものに目覚めたのではないかと。また彼らは生演奏を直に聴く重要性をはっきりと認識したでしょう。このあと次々に音楽事業を企画しています。

 う~ん、それにしても洋洋楽堂、ストラッドの響きが聞こえるような気が。しかししかし、音楽堂は盛岡にもありました。梅村保の音楽堂が。壁に瞑目するベートーヴェンのデスマスクがすべてを知っています。太田カルテットに或いは盛岡音楽普及会に招聘された多くの音楽家たちが訪れ、楽の音を響かせた音楽堂。もしやこれは洋洋楽堂にならったものであったか、梅村独自の発想であったか、それも壁からすべてを見下ろしてきたあのベートーヴェンに聞くよりほかはないようです。

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雑感

  きょうはすばらしい秋晴れだった。
 午前中は車を車検に出すために、友人が勤める車会社に行き、代車で買い物に。岩手山がすっきりとしている。紅葉がとてもきれいだ。なぞと書きながら、ああこれは小学生並の日記だと自分のなかの何かが見解を出している。そしてまた自分の中のだれかが苦笑いする。
 
 いまたしかにここにあるもの、いま見えるものは、スピーカーBOSE。今日も音楽を聴かないでしまった。物足りなさが残る。いまスイッチオンしたらまた深夜になってしまう。原則として早寝早起きとしたい。ブログの投稿ページが開かれ文字が7行打ち込まれた画面。蛍光灯スタンド。左に大正10年のエルマンのプログラム。右にはエルマンのメモ。ほんとうはエルマンを書くつもりだったが成り行きで大正天皇即位大典になってしまった。シンフォニーが入ったディスク。しかしとうとう時代はこうなってしまった。パソコンを通じて配信される曲を聴くこともできる。これはあまり利用したことはない。
 それと「青の会展」の案内葉書。11月9日(日)~12日(水)テレビ岩手ロビー。ということは明日までだ。
 そして右手を伸ばせばとどくものは、新約聖書(英和対照)。
 

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大正4年太田カルテット結成・大正天皇即位大典

 岩手で太田カルテットが結成された大正4年は音楽界ではどんな年だったのか。
 萩谷由喜子著「幸田姉妹」によれば、
「大正4年には大正天皇の即位大典がおこなわれた。このとき延は、鍋島直大侯爵の作歌による混声四部合唱付交響曲『大礼奉祝曲』(カンタータと見なす説もある)を作曲して、山田耕筰作曲の『大礼行進曲』とともに、宮内庁に献上した」
また
「大正4年に下田歌子の詞を歌詞として作曲された伴奏つき歌曲『藤のゆかり』だが・・・楽譜は当時、共益商社(後にヤマハが吸収)から同年5月に初版が発行され、その後大正10年には5刷を数えている」

 太田カルテットの主宰者梅村保は国粋主義者だったと故村井正一氏(梅村保の弟子。セロイスト)は語っている。また音楽家であってみれば、このような動きは的確にキャッチしていたのではないか。もしや太田カルテット結成は大正天皇即位大典記念?何れヨーロッパに学んだ日本人初の女性音楽家の動きは楽界の指標だったろう。5刷となった『藤のゆかり』は女学校の音楽の授業でも盛んに歌われたという。 

 幸田延:文豪幸田露伴の妹
      作曲家・ピアノ奏者・ヴァイオリン奏者
      東京音楽学校教授
      
 

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フジ子ヘミングを感動させた一冊

  岩手を住処としさまざまに活躍している作家を遠くに見、またたまにブログなどをうろついてみるとやはり自分との落差は歴然、瞬時意気消沈する。ところがこんな言葉が浮かんだ。

「汝ら心を騒がすな我を信じ父を信ぜよ」。聖書の一箇節だ。

 そのとき心の中からすっとおもりが除かれた。除かれたというよりも心の中にあったものが間髪おかずたちどころに消えた、そういう感じである。そしてフジ子・ヘミング著「魂のピアニスト」の「無名な女の子」の章が思い出された。
 フジ子が「わたしもまた、自分のピアノを自分の音楽を続けよう。たった一人の人間でもいい。心に届くピアノを弾くのだ」と強く思ったその一冊とは・・・
 無名の女の子の書いた日記だ。ドイツの小さな田舎町に住んでいた。第一次大戦下、フランスで戦い足を失うなど多くの負傷した兵隊を助けたり運んだりする仕事をしていた。食糧もない時代一生懸命生きて人を助けた。深く感動したという。ところがこの本が一文も値打ちがないかに捨て値で売られていたという。フジ子は有名な本なら多く出版されているので、なくしてもまたすぐに買える。だがこの本はもう二度と手に入らないだろう、大切にしよう。そう思ったという。

 何を如何にこ器用に書くかではないようだ。たとえ無名でも書いたことに価値がある場合がある。たとえたった一人の手にしか取られなかったとしてもその本が使命を全うすることがありうる。無名な私が書いたものもそうだと言っているのではない。私にはそんな力はない。ただ励ましとなった。もしかすれば何を書くかではなく、どう生きるかなのかもしれない。
 書き手にもさまざまに使命があるだろう。腹を抱えて笑えるものを書く、あるいは渋面つくりやっと理解できるような哲学系、或いは私などは理解するにも遠い科学関連。資料となりうる歴史もの、はたまた硬い気分をほぐしてくれる娯楽系と数限りない。どれも誰かが必要としている。ただ自分には何が書けるかなと考えると、それほど多岐にわたるとは思えない。

 近くの友人は絵も描き、文も書き、畑もやり、人の世話もし、その他その他なのだが嫌がらず心をこめてていねいにこなしている。理屈ばかりこねるわりに足もとがいまいち地につかない自分とはかなり違っている。肝心なのはそこなのかもしれない。

 
 
 

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お三度の拘束感


 あるスーパーマーケットの前に置かれたベンチに座っていた方が、隣に座った知り合いでもないわたしに大声で言った。
「ああ、やんたぐなった!」
「どうしたんですか?」
「なんに、食事どきになれば、うちのが出てきて台所さ座ってこっちを睨んでるのす」
 食事の時間になると、ご主人が出てきてテーブルに着き、はやく飯を出せといわんばかりに睨むのだという。このご婦人は80歳代。加齢とともに食事づくりが億劫になることもあるだろう、この方の気持ちもわからないではなかった。

「プロの作家ではない」などという段階にもない自らであるが、やはり舅の用事、主人の用事、息子の用事と毎日ではないにしろ何らかがある。立派な家事をしてはいないので文句はいえないが、お三度の拘束感はけっこうある。昨夜はカレーライスにしたが、舅はカレーは食べない。やはり魚を焼きそれなりに味噌汁、加えて何か一品が必要である。息子は中華系が好きだ。わたしはといえば特に自分のために作って食べたいというものはない。もし一人暮らしだったら毎日カップラーメンを食べているタイプだ。ただ近頃息子の口から「いいから」という言葉がでるようになった。「それでいいから」「なんでもいいから」「気にしなくていいから」。それでずいぶんと楽になった。
 主婦としての私の側はこうだが、しかし主人や舅は恐らく口に出さないまでも随分とわたしに我慢しているに違いない。とくに舅はそうだろう。それを思えばプラマイゼロかもしれない。
 
 

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オバマ氏の勝利宣言

 11月はやたらに♭(フラット)が街のビルやばらばらと葉の落ちる街路樹にくっついてるなと思っていたところ、今朝になってカーテンをばっと開けたなら、何とこんどはすっかり紅葉した樹木が、もう姦しいくらいに♯(シャープ)をまぶして嬉しそうに立っているではありませんか。

  米大統領戦、ついにオバマ氏の勝利宣言。「黒人から大統領を」の悲願達成のめでたいこのときに、神はなぜオバマ氏に金融危機、アフガン問題と極めつけの難題を抱き合わせにプレゼントなさるのかがわからない。
 

 5日にロンドンでキックボードに乗ったサンタクロースが現れたかと思えば6日には東京のグランドプリンス赤坂に高さ100メートルの巨大な光のクリスマスツリーが登場。一ヶ月も早い。クリスマスの先取りが年々はやくなる。来年のびっくりクリスマスツール登場は、もしや10月?

 

  

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近衛秀麿ーベートーヴェン「田園」ー

 ここにあるCDライブラリー目録を見ているうちに近衛秀麿が目に留まった。岩手との関係では岩手出身のバリトン歌手照井栄三がフランスから帰ったときに指揮を振るい照井の帰朝公演を飾ってくれている。

近衛秀麿&読売交響楽団 ベートーヴェン「田園」

 第一、第二楽章を聞いた率直な感想は、実に慎ましく日本人的な奥ゆかしさを感じたことだ。第三楽章はあっ、いいところに来た!と思った矢先にトランペットが鳴り響くところで音が途切れてしまった。二回かけ直したが同じ状態なのであきらめ第四楽章に。大河の迸りを客観視するかに振りゆき、まさに音が溢れ出るかというところで冷徹な眼が明るく静かな旋律を慎重に奏ではじめる。ここでまた音が途切れてしまった。迷わず第五楽章へ。出だしは若干平板かなとも思う。録音状態の関係かもしれない。しかしその部分を抜けるとじっくりとした味わいのある響きとなる。

 近衛秀麿(1898~1973)。明治に生まれ大正、昭和の初めに活躍した人と思っていたが昭和48年まで生きていたわけだ。
 ウィキペディアによれば、NHKの放送終了時に流される「君が代」、オリンピックの表彰の国家に使われる「君が代」は、近衛秀麿の編曲らしい。正式なところでは近衛版というわけだ。ベートーヴェンの「第九」も編曲したようだが京大オーケストラ練習所の火災で焼失。なんという事だろう。意外だったのは「大洪水の前」を作曲しているがこれが何と作詞が有島武郎なのだ。洪水前といえば、聖書では正しいものが地に居なくなり神は怒られ洪水で地を滅ぼすことにするのだが、神の前に正しく歩んでいたノアとその家族だけは、ノアの箱舟に保護され救われたという。地が不正と暴虐に満ちたそのときが「大洪水の前」なのだ。有島がこの詩を創ったそのときの心情も興味深い。
 近衛が立ち上げたオケは人に恵まれず、彼のあまりの人の良さが裏目裏目に出たようだ。人手に渡ってしまう。欧州で立ち上げたオケの中からは後年高名な教授、音楽家が出たようだが、ナチとの関連から災いを恐れ近衛のオケで育ったことをあまり公表しなかったらしい。一連の不運を千年貴族の悲喜劇というものもあるようだ。こうしてこの「田園」が遺されてあるのはせめてもの救いだ。
 近衛秀麿の実弟近衛直麿は雅楽研究者だという。

 山田耕筰全盛の大正15年6月、近衛と山田とで立ち上げた日本交響楽協会(N響の前身)から近衛は楽員約40人とともに脱退した事件があった。してみると近衛はウィキペディアから受けるような弱腰ばかりではないのだ。
 
 このような背景を想いみながらもう一度近衛秀麿がのこしてくれた「田園」を聴いてみよう。
 
 

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太田カルテットー写真狂騒曲ー

 文芸誌「天気図」掲載予定の原稿に載せたい写真を昨日送った。赤沢長五郎ヴァイオリン独奏会のハイドン・カルテットと榊原トリオ、それに太田カルテット4人の写真の3枚だ。写真の確認作業には結構かかった。

 榊原トリオは榊原直の特徴が際だっているのであとは平井保三と多忠亮を確かめればよい。顔はすでに見知っている、これで大丈夫と思っても万が一ということがある。多忠亮は映っている数葉の写真のどれもが違って見える。真正面から撮ったものと横顔とでは見分けがつかなかったりもする。多忠亮を確認するとき、たしか昭和4年12月に亡くなっているが「葬儀次第」に写真が載っていたはずと取り出してみる。比べると目元がまさしく多忠亮だ。間違いない。これで榊原トリオは難なく終了。

 ハイドン・カルテットは難航した。杉山長谷夫と多基永の区別がなかなかつきにくい。写真上ではよく似ているのだ。楽器を持っている写真を見て、セロを持っている若干背の低い方が多基永と判断。ところがある方に文書で風貌について問い合わせた答えがあったはずと引っ張り出して見ると、「杉山長谷夫は背丈が高く弱々しい感じ」とあった。となるとまったく違ってくる。そういえばハイドン・カルテットのブロマイドがあったなと取り出してみると、やはり杉山は弱々しい感じではなく眼鏡をかけた基永より幾分背が高い方と確認できた。最後の難関は窪兼雅とピアノの山崎普立の見分だった。間違いなくひょろっとして背の高い方が山崎だから小太りののっぺり顔(失礼)は窪とは思っても、果たして本当に窪であるかどうか、万が一違っていたら大変なことになる。そこで窪兼雅が来盛した音楽会のプログラムを引っ張り出して見る。大正12年の「罹災救恤音楽大演奏会」に榊原直、竹岡鶴代とともに来盛している。こんどは図書館に駆け付けた。当日の岩手日報と岩手毎日のマイクロを回す。「出てくれよ~」と念じながら当日に近づいたところで回転をスローにする。すると・・・出た! 確かに確かに窪兼雅だ、間違いない!! 念のため岩手毎日を同じように見ると写真はなかったが、もうすこし調べなければと思っていた窪兼雅の経歴が出てきた。宮内省式部職楽部オーケストラの第一ヴァイオリンだとは思っていたが、何と彼はその主席奏者だったのだ。もう嬉しいのなんの。こんな人が太田村に来てたんだ。大喜びで気前よく20円入れ、早速印刷したのでした。

 太田カルテットの4人のなかでは、たまに佐々木休次郎が迷う。だとしても横顔であれ正面であれすこし注意深く見ると直ぐに分かる。さすがに後ろ姿の見分けまでの自信はない。梅村、赤沢なら見分けられるかな?

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11月1日よこんにちは!!

 いやし系の人形が可愛らしい子どもの声で「きょうおたんじょうびのひと?」ときき、すかさずじぶんで「はーい」と返事するところをみると・・・どうもきょうがこの人形の作られた日らしい。おめでとう!
 11月1日よ、こんにちは!! この月は、そろそろ平地にも雪が降るかな、風も冷たい、紅葉もこれで終わりかと、真っ白な雪が降るまではほんとうに心にすきま風が吹き込んでくる。かといって敬遠すればいよいよ淋しく侘びしくなるだろう。ならばむしろ大歓迎しよう。積極的に両腕を広げて迎え入れようじゃないか。11月よようこそ!さあそこにある椅子にかけてくれ。君という手持ちぶさたな月と、日ごとじっくりと語り合おうじゃないか。


 ショパンとリストを弾くために生まれてきたともいわれるフジ子さんの「奇跡のカンパネラ」を想っていたところ、テレビで小山実稚恵さんが「ラ・カンパネラ」を弾いていたのにはびっくり。再放送だ。聴き入ってしまった。テレビなら時間に区切りをつけてくれる。すばらしきヴィルトオーソ。打鍵さえもがそのあまりに速いテンポに紛れ溶けこんでしまっている。きょうはなんていい日なんだ。11月の1日、きょうの無上のしあわせはこのピアノ。もうこれでよい、そう思った一ときだった。

 

立川編集長から「原稿とどきました」メール着信。書き終えてみると新たにさまざまに思うところがある。
 梅村保について故梅村功二先生から「立派な親父だった。親父を書かないうちは死ねない」ときいたとき、すごい人だったんだなと思うと同時に、身内の賞める言葉ばかりではどうも・・・とも思った。しかし盛岡高等農林ドイツ語教授の令息玉置鷹彦先生が「梅村先生の尽力によって盛岡の音楽は隆盛を迎えた」と証言するとおり、それは資料からも確かにいえる。太田カルテットばかりではなく盛岡音楽普及会も、やはり梅村あってこそ理想的に機能し得たと見える。当初考えていたよりも大きな存在であるという結果が出た。梅村保関連を途中で諦めずにやって良かったと思う。

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