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2008年10月

去っていく10月

  雨がふっている。いま遠くに救急車が去った。毎夜のことだ。いつも誰かが助けを求めている。こんな秋の夜にも。
 21時に原稿を書き終え添付メールで送る。一枚目がまずいとおもいつつ送信。期限のあるものはやりやすい。

 ここ一週間音楽を聴いていない。一旦かけると際限がなくなる。時間が取られてしまうので控えた。それにしても音楽家たちはいくら時間があっても足りないのではないか。とくに指導する立場の方は。
 
 いま猛烈な眠気が大きなおおいをわたしに被せようと四つ角を持ち上げている。10月とのお別れです。目を醒ましたときには、11月の新しい一日が待っているはず。

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展覧会のお知らせ ー七宝焼ー

       天沼三津子
   
七宝ジュエリー展 XXI
       SIPPO&SILVER

         2008
    
11月3日(月・祝)~8日(土)
  11:00  AM~6:00 PM(最終日5:00PMまで)
       ギャラリーラヴィ

         

       

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日々新た

我が恵汝に足れり」 聖書

 わたしの恵はあなた方に十分である。この言葉が心にかよい温かな心もちになった。

 仕事に出かける息子を6時半に玄関に見送る。小雨だ。生気をこもらせた松の木、紅葉、ひばが朝明けの鈍い薄明かりに肩の力をぬき、ひっそりとならんでいる。カラスの声が遠くにきこえる。仲間同士で朝のあいさつを交わし、無事を喜び、すこしばかりこれからの行動の打ち合わせをしているようだ。

 5時半にはまだ外も暗かったが、7時近いいまバイクが遠ざかる音、通勤の車両がせわしく行き交う音がしている。

 平穏のうちにうごきだした今日という新たな一日に感謝する。

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主婦感覚

 「今晩8時から詩の朗読会があります。野の花の詩なんですけど」とお電話を頂いたとき、あっ行きたい!と思った。しかし次には待てよ、となる。20時から始まるとなると帰りは22時。しかも会場は巣子となれば、ちょっと無理だなあ。家人が同行する場合には堂々といくらでも遅く帰ってもよいと思う。主婦がひとりででかけるとなると家族に気がねしてしまう。強行突破はせいぜい年一回の近場の音楽会行き程度。程度といってもベルリンフィル五重奏はもうわたしにとっては一生を支配するほどの確かな弦の音。突破のし甲斐のある音楽会だった。こんどはフジ子ヘミング。これだって強行突破のし甲斐はあるだろう。だが待てよ、とやはりこうなる。家族の中で私一人がこんな贅沢をしてよいものだろうか。「ちょっと贅沢じゃない」と自らが質素倹約を旨とする主人。「断固反対」とは言わない。しかし若干の余地が残されているとしても、う~ん、ここは遠慮しておこう、とこういう結論に。正確には自分で自分にブレーキをかけている。実家の母は質素だった。60歳も過ぎてからやっと自分の着たい服を思いのままに買っていた。できるだけ無駄を省き慎ましく暮らしていた。それを見て育ったせいか、或いは、今現在を分相応にと思うせいか、事ごとにポッピングブレーキを効かせている。効かせすぎて安物買いを後で後悔することもある。これを総じて主婦感覚というかどうかは分からないが、私は一応そう括っている。
 そんなわけで、昨夜は「拝啓 フジ子ヘミングさま」と心の中でつぶやいていた。だいたい返事のこない手紙を書くのが好きだ。そう、いつも空想の中の人物に書いている。決して直接顔を合わせることのない空想の中の人々に。ヴェートーベンに書いたときも返事は来なかった。恐らくこんども来ないだろう。そういう命運にある。

 拝啓 フジ子ヘミングさま、あなたがこの2008年10月にベルリンフィルと共演されていたことをネットで知り驚いております。あの弦の音とともにピアノを演奏する幸福はどれほどのものだったでしょうか。今度盛岡にいらっしゃるときはモスクワ・フィルとですね。プログラムも拝見いたしました。
 あなたが、レナード・バーンスタインの支持と援助を受けてブルーノ・マデルナの専属となったとき、どんなに輝かしく誇らしい気持ちだったかが分かります。あなたは華々しい成功者でした。それだけに風邪がもとで耳が聞こえなくなった時の絶望、苦悩、葛藤はどれほどのものであったか。いまは左耳が40パーセントは回復されていらっしゃるとか。
 わたしが貴方様を偉大なピアニストだと思うのは、マデルナやバーンスタインを感動させたことよりも、逆境から立ち上がり1998年4月上野奏楽堂で奇跡の再起を果たしたことです。絶望からも立ち上がれるという望みを人々に与えたことです。翌年発売のCD「奇跡のカンパネラ」は54万枚を売り上げたそうですね。凄いことです。
 盛岡でのコンサートには残念ながらはせ参じることはできません。というのは迂闊にもベルリン・フィルに走ってしまったため、音楽予算が底を突いたのです。ほんとうに残念です。翌年以降いらっしゃると聞きつけたときには優先的に駆け付けます。今回は我慢です。
 モスクワ・フィルとの演奏も11月中に東京、青森、岩手、山形、静岡、福島と6箇所も。どうかお疲れが出ませんように。特に風邪を召されませんように願っております。来盛当日は自宅にてフジ子さまの弾く姿を浮かべながら、フジ子さまのCDに耳を傾けたく思います。
 それでは一連のステージの成功を心から祈りつつ失礼いたします。       早々

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小山実稚恵さん第61回岩手日報文化賞

 「結局、最後は自分を出すしかないんですよね。力以上に取り繕うことは可能でもそんな演奏はたかが知れている。飾るのは無意味。恥部をさらけ出しても、自分らしくあったほうがいいと考えるようになりました」
 小山さん、インタビューにはこう話されたようです。
ステージで、またテレビで拝見したときも演技はできるだけしたくない方という印象でした。

「力以上に取り繕うことが可能」だとは意外でした。リストが人の喝采がなにになるかとついに心に届く本質をめざし「ラ・カンパネラ」の第3稿を起こしたことが浮かびます。自分そのもの自分の魂の納得をめざす演奏が楽しみです。「恥部」とは、多分ご自分がまだ目指すところの高さにまで到達されていない奏法上の技術とか音、音楽理解のことかと。わたしレベルには測りがたいことです。到達されたかに見える小山さんには小山さんの目指す高嶺がおありなのでしょう。飾らないお人柄、ご自分の本音から湧き出てくるところの音に耳を澄ませてゆきます。

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プチ俳句ー秋ー

コスモスに 風のたわむれ シンフォニー   ぶんな

秋陽落つ 威風堂々と 樅の木    ぶんな

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漆塗りのヴァイオリン

Future struct of violin pageの「ストラディバリウス」 によれば「ヴァイオリンの音はニスよりも弦から胴に振動を伝えるメカニズムにある」という。ただニスにかんして「もしもニスが有効だとしたらニスよりも漆の方が効果があるかもしれない」とあるので、弦楽器に漆をという着目はお一方ならずあったようです。

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恐れるな

自分の欠点、不甲斐なさ、反省すべきことどもを思いめぐらしていたときに、こんな言葉が浮かんだ。
 
 「
恐れるな。わたしはあなととともにいる。
 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
 わたしはあなたを強め、あなたを助け、
 わたしの義の右の手であなたを守る。

      
聖書イザヤ書 41章10節

 感情的な失敗が多いために、そしられることもままある。だがわたしは遊ぶということはしない。その点では強い。しかし自分の弱さをもっとも感じるときは、人が自分をそしっているなと知ったとき、それならばこっちにも言うことがあるぞ、と挑戦的な感情を持ってしまうことだ。しかし挑戦は挑戦しか呼ばず、争いは争いしか招かない。憎しみは憎しみを増幅しそれは一生となる。聖書の言葉が浮かぶのはそんなときだ。なぜかそんなときだ。そしてこの言葉が、土壇場にあるときの自分の抑止力となっている。心の亀裂、ひび割れの多くは恐れから生じるといまにして思う。

 義の右の手とはどんな手だろう。力強い手、これまではそんな理解だった。自分の右の手は皺だらけ、陽に焼けて真っ黒け。所謂お手入れなどはしたこともない。機能といえば、取れたボタンをつける。ほころびを縫う。パソコンを打つ。箸をもつ。包丁を握る。草をむしる。いずれ大したことはない。だが神の右の手、神の義の右の手とは・・・想うに過去を今を未来を支配し、海溝から最高峰までもとどき、大宇宙の微塵の星も、ミクロの世界の生き物までをも殺すこともでき生かすこともできる、そういう「右の手」なのだとわたしは信じる。

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ベルリン・フィル五重奏 続報

 あの5人の弦の音がいまだ鮮やかに残っている。18日の岩手日報夕刊にわたしが聞き取れなかった曲名が載っていた。アンコールの2曲目はボッテジーニ「ベッリーニの歌劇『夢遊病の女』による幻想曲」と分かった。同団のヴィオラ奏者ヴォルフガング・ターリツのアレンジ。勿論演奏はナビル・シェハタ。同団はチェロのタチヤーナ・ヴァシリエヴァの呼びかけで何とベルリン・フィル首席奏者らが集まって結成。2007年ベルギーが皮切りだったようです。
 以上は新聞からの拝借です。
なんだまた写しなの? はい、また写しです。あのときシェハタさんはステージで曲名を「ボッテジーニ」と一こと言っただけでした。曲名を詳しく書いていたのは、これはどなたかはわかりませんが、ステージが終わってからきちんと取材なさったのでしょう。もしかしてサインとか・・・ここまでは言い過ぎでした。

 それにしてもほんとうに!!

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チューバとピアノのコンサートin盛岡

  先週の土曜の3時45分からホテルルイーズ14階ラ・フォンテーヌで楽しく美味しいコンサートがありました。えっ?音に味があるの? はい、コーヒーとケーキ付きでした。
 仕掛け人は岩手出身のチューバの谷藤綾香さんと多田深恵子さん。教室を持っている仲間たちでフレンドリーなコンサートやっちゃいましょう、ということで、準備に一年をかけ、ステージonとなりました。
 会場は同級生交歓の場かと見違うほどの高校時代の懐かしいあの顔この顔が。
「あら、いまどちらに?」
「お孫さんなの?」
「変わらないわね~」
「もしかしてあの窓ぎわのひと○○さんじゃない」
 そちこちで「お久しぶり」の挨拶がとび交ううちに、観客席とフロアー続きのステージには美しいロングドレスの奏者たちが登場。
マイクの多田さんの挨拶があり、「楽屋はありません」。準備の段階からすべて公開コンサート。かくして楽の音は、窓に見える美しい遠くの山々の景色をもアングルに取り込んでスタンバイ。


J.ドット:ミッキー・マウス・マーチ(6手連弾) 金子めぐみ、多田深恵子、平野義子  編曲金子めぐみ

ブラームス編曲:ハンガリー舞曲(連弾)第1、3,5番

F.クライスラー:愛の喜び(連弾) 愛の悲しみ 多田深恵子、平野義子

F.リスト 愛の夢  多田深恵子

ケッツァー:チューバのためのコンチェルティーノ 第一楽章 谷藤綾香、ピアノ平野義子

草川信作曲・伊藤康英編曲:ゆうやけこやけ 谷藤綾香、ピアノ:平野義子

ショッパン:バラード第2番 青木裕子

チャイコフスキー:胡桃割り人形より(連弾) 山崎深恵子、平野綾子

中田喜直:きゅっきゅっきゅっ、めだかの学校、汽車は走るよ(連弾)

多田深恵子、金子めぐみ


さいごは「ドレミの歌」「がけの上のポニョ」の歌で前に出てくれた子どもたちと会場とが一体となり、拍手の嵐で盛会のうちに終了しました。
ピアノはこれからの人生をもう一山乗りきらねばならない同世代への力強い応援歌でした。初めて聴いたチューバコンチェルト。重く太い響きが、コーヒーとケーキに溶けたお腹をほどよく緊張させてくれました。女性があんな大きな楽器を演奏できるんですね。びっくりです。

楽しいコンサートをありがとう!!

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コスモスの明るさ

  あすはもりおか童話会の集まりがある。書かなければと一日いたのだが、なにか気乗りがせずに過ぎてしまった。小説書きは日々苦手になっている。上昇気流を待とう。
 いま救急車の音がしていた。この町内にも高齢の方が多いのでやはり気になる。どうやらこの辺りを通過して遠くへ走り去ったようだ。
 

14日のベルリン・フィル五重奏団は天からの贈り物だった。当日券だったが、左となりに身障者の女性の方が座った。このとき「こんないい席が空いてたのはやっぱり神様のお陰だな」と思った。この方とは話も合った。近頃はよく身障者の方の活躍などを書いていたのでほんとうに不思議だった。 

キンモクセイの香りがしている。多摩霊園の見事なキンモクセイの木々が思い出される。伯母の埋葬の日に噎せるほどに香りを放っていたキンモクセイ。
礼服姿の多くの方々に混じって普段着の方々の姿があった。この方々こそが深く真実な祈りを捧げてくださった。その後ろ姿が忘れられない。
 

コスモスがたくさん咲いている。屋根の高さにも届かんばかりの勢いだ。借家住まいだったころ、やはり庭いっぱいにコスモスが咲いた。その間を子どもたちが愉快そうにくぐり歩いていた。家の屋根は赤。その上には青い空が広がっていた。屋根を塗るときに誤って雨樋にこぼした赤い塗料が模様のようだった。その雨樋のまえにもコスモスが咲いていた。コスモスは秋がどんなに寂しいかを知っている。だからこんなにどんどん増えて、こんなにこぞって明るく咲くのだ。

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牛肉の行方は

 酪農をああかこうかとすこしばかり書いてきた関係で、またすこし。

 文藝春秋11月号「中国の胃袋が和牛を食い尽くす」歯上太郎 から
ベトナムへの牛肉輸出は昨年で約80㌧(米国への輸出は約127㌧だそう)。和牛らしい。これが中国むけに密輸されているという。その他にも苫小牧税関(中国アモイ向けのズワイガニのツメと見せかけ約3㌧)、関西国際空港、中部国際空港でも摘発されている。キログラム当たり日本での卸売価格が8千円、中国内卸売価格1万6千円、小売りで2万円となる。

 昨年4月香港では日本の牛肉輸入を解禁。宮崎牛が人気を集めているという。もし中国が解禁となったらどうなるか。
 香港の大手輸入会社ジョン・クォン社長はこう言っている「香港なら一ヶ月に7~8㌧の消費で済みますが、中国では500㌧でも足りません。そうなると日本の和牛価格が跳ね上がり、日本人は食べられなくなりますね」。
 

 冷凍ギョーザ騒ぎが収まったかに見えていたところが今度は中国製インゲンにジクロルボス混入。日本は日本で汚染米騒動。
 大手商社の中国担当者は言っている「高い日本産米が中国で飛ぶように売れるのは中国人自身が中国産品を信用していないからだ」。
 金さえあれば日本産品を買いたいという人が、富裕層を中心に増えているという。「安全性こそ自国品の魅力」と荻野さんは言っている。


 以上は、文藝春秋11月号中にある内容です。

 

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スタンディングオーベーションーベルリン・フィルハーモニー弦楽五重奏団ーその2

10月14日(火)マリオス18:30ベルリン・フィル弦楽五重奏団プログラム

モーツァルト:ディベルティメント へ長調K138
ドヴォルザーク:弦楽五重奏曲第三番
           変ホ長調op97~第二楽章
チャコフスキー:アンダンテ・カンタービレ
グリーク:ホルベアの時代より
レスピーギ:リュートのための古い舞曲と
           アリア第三楽章
バーバー:弦楽のためのアダージョ
ピアソラ:ブエノスアイレスの冬
ピアソラ:ブエノスアイレスの春


トーマス・ティム(ヴァイオリン)
ロマーノ・トマシーニ(ヴァイオリン)
ヴォルフガング・ターリス(ヴィオラ)
タチヤーナ・ヴァシリエヴァ(チェロ)
ナビル・シェハタ(コントラバス)

アンコールは3曲だった。2曲目も曲目を聞き逃すまいとしたのだが残念ながら聞き取れなかった。ナビル・シェハタ(いま名前の確認ともうすこし何か知りたいと検索したところ混み合っていて繋がりませんでした)のコントラバス独奏に弦楽四重奏が伴奏する形でしたが、わたしはこれこそベルリン・フィルだと思いました。コントラバスであろうがチューバであろうがティンパニーだろうが誰一人として端役ではない。ただの伴奏役ではない。いつ何時自分にソロの役割が回ってきたとしても、その楽器の持つ可能性を十分に引きだし、音楽性を随所に満載させて完璧に弾きこなすことができる。どの団員もがこういった実力を備えている。誰か一人が何らかの事情で休むとしてもほかに代わることのできる彼らに匹敵する奏者はおいそれとはいない。ベルリン・フィルの団員の実力とはそういうものなのだ。このようなコントラバスの演奏をわたしは初めて観、聴いたけれどもほんとうに目の覚める想いだった。手が千切れてもいい、本音からの拍手喝采を心ゆくまで送った久しぶりの演奏会だった。
            

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スタンディング・オーベーションーベルリン・フィルハーモニー弦楽五重奏団ーその1

 きのうでした。午後から二階の障子張りを敢行した。ついでにサッシをはずし窓枠を拭きながらもベルリン五重奏がちらつく。行かないつもりだった。ところが「当日券は17時半から販売」の広告がやけに脳裡を過ぎる。無意識のうちにというか計画的にというか、夕食の準備開始を一時間繰り上げている自分。それでも五時まで迷っていた。けれども食事が出来上がり、いつもより丁寧に配膳して宣言する。「音楽会に行ってきます」。

 スクーターを駆り駐車場に滑り込ませ切り替わりそうな青信号を全速で突っ切ってホールへの階段を駆け上がる。「当日券こちら」。座席表の空きを見ると、何と1階5列19番が空いている。僥倖だ!前売りでもこの席を選んだだろう。チケットを握りホールに入ろうとすると、2、3人のスタッフが立ちはだかり「まだ開場していません」。弾かれて券をよくよく見ると「開場18:00」。慌てすぎました。

 着席して手渡されたチラシを捲ったが肝心のプログラムがない。う~ん、今回は出されなかったんだろうか。左隣の方に聴いたがやはり無いという。岩手の太田カルテットを調べたりしながらも、弦楽四重奏はおそらく彼らが演奏したであろうと思われる曲しか聴いていない。つまりほとんど知らないのである。これは困ったと思ううちに五重奏団がつかつかとステージに。一曲目モーツァルトのディベルトメントでほっと。次は分からず、三曲目チャイコフスキーのアンダンテ・カンタービレ。四曲目分からず・・・と前半はまずこんな具合。しかししかし曲名が分かろうと分かるまいと、弦が響き進むほどに輝ける音の確かさ。マッスという語彙は美術によく使われるけれども、完璧な音の厚みがマッス(月並みな表現になるけれどもまさしく宝石のような集合体)となって黙するようにさざめくように迸るように多彩なそれでいて完全な調和融合をなし五重奏団を包む空気に輝きを放ちつづけている。自らが紫外線となり岩石の中を行きめぐり原石の輝きを休みなく照らしあるいているような思いにすらなる。ほんとうに素晴らしかった。

 10分の休憩のとき右隣の方が外に出られたので、そのまた隣の女性に「曲名を教えてください」というと、プログラムを貸してくださった。チケットを買ったときに貰ったという。急いで書き写したのでした。

                           つづく

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小山実稚恵 指先のマジックーラ・カンパネラー

 今朝から酪農関連で、農協は農民を羽交締めにしているのではないかという疑問。8億人の飢餓の最中、家畜に穀物を与える疑問。山地酪農だけで生乳の需要が満たせるのか(山地の生産性は半分)などの疑問を持ち検索していたがーもっとも輸入自由化の存在には意気込みも萎えそうなのだがそこをこらえてーここからは場当たり的行動と。さて家事が始まり家の中を右往左往しているうちに、またまた見る予定ではなかったTV画面が居間を通過したばかりに目に入ってしまった。「ラ・カンパネラ? なんだ知ってる」と通り過ぎようとしたときに映し出されたのが小山実稚恵さん。それでブログは斯様なことに。この数行でもう吉本ばりのお笑いとなってしまったのだが。

 「ラ・カンパネラ」。リストはパガニーニの旋律をもとに3回稿を起こしているらしい。1832年21歳で第一稿。これはヴィルトゥオーソ(超絶技巧)のオンパレード。1839年には世界初のピアノリサイタルを開き、パフォーマンスに失神するものも出たらしい。しかしリストは「わたしはなぜここに居るのか、ここで何をしているのか、人々の喝采が何になるのか」を想い同年第二稿に着手。そして第三稿は弾く者の心に響くなら聴衆の心にも響くだろうと書かれた。♯5つの第三稿を小山さんはこう表現した「ぐっとこう胸にささるような角度、鋭さ、切れの感覚」。斯くして「演奏する人の心のひだにまで分け入った緻密な音作り」に成功したリスト。
 超絶技巧の第一稿から極めつけの第三稿までの小山さんの鍵盤をかける指先は超絶マジックとわたしには思われました。研ぎ澄まされた鐘の音がリストの楽譜から小山さんの心を経由してわたしの心に届けられました。 


 

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ア・ラ・カ・ル・トー雑感ー高橋竹山・藤原翼

 米金融危機に発する数字の続落。経済の容赦ない非情さをもろに目の当たりに。怖い。見ない方がいいな。だけど波が何処まで押し寄せ何を崩しているのか、つい確かめている。気分がぱさついてしまった。こうなれば犬の「ベートーヴェン」で笑い、TV「笑点」で笑いころげたい。 

ストーブを焚くかどうか迷う。津軽の冷たい波もまた浜を叩き断崖に砕け散っているはず。
 藤原翼、近くのサンセールまつりにきていた。来年5月全国大会にもっていく津軽じょんがら節。よく弾きこまれていた。奏法は知らないが、ピアノ、ピアニシモといった部分を緻密にイメージを創り上げることに成功すれば、全国3位に食い込み、日本一も夢ではないという気が。

 若ければ可能性の幅も大。翼よ日本一に!と思うのは、19歳か、けいこは弘前に週一で習いに、真面目そう、うん、まだまだ腕はあがりそう・・・とここまで考えた次には我が身の現実に目がゆき・・・なるほどこの歳じゃ・・・少しは(文章が)書けても、しかしねえ、先がねえ・・・となる、などと余計な、けれどその通り! な事を考えてしまった。う~ん、終わっちゃたかな? もう文学賞も取れっこない。そこそこに、このブログを楽しみとして・・・かな。

 津軽三味線を聴きたいと思うのは、やはり耳奧にある高橋竹山の響き。思えば竹山も幼いころに失明している。竹山の中に広がっていた風景とは幼い記憶が増幅されたものであったのか・・・折に触れあの音が耳奧に甦る。三味線という楽器に対する先入観を覆したのは竹山だった。 


 

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カラバッジョー「ダヴィデとゴリアテ」ー

 火曜日にTVで、イタリアのバロック絵画、ミケランジェロ・メリージ・カラヴァッジョ(1573~1610)を観た。番組の最初の部分だけだったが、このときはそれで十分だった。新聞などでも特集されたことがある。
 「徹底した写実性・・・劇的な明暗対比や感情表現。自らの眼で見る現実だけを唯一の手本とした」という。
 1606年35歳のとき喧嘩がもとで一人の男と決闘になり相手を刺し殺す。殺人犯として追われローマから逃亡。マルタ共和国に逃れ、そこで1608年「洗礼者聖ヨハネの斬首」を描き、認められ教皇から罷免される。しかし数ヶ月後には些細なことで決闘し投獄される。脱走を試みるも数日後には逮捕される。「洗礼者聖ヨハネの斬首」の前で斬首刑を宣告されている。享年38歳。

 カラヴァッジョの一連の作品のある一側面にはデカダンを感じる。彼の暴力性、残虐性といった強烈な一面が、「暗」の底を成している。ただこの番組の中で、1599年ごろに制作された「ダビデとゴリアテ」が映し出されたとき、色々な作品を観ても滅多には涙しないが、涙が止まらなかった。

 「ダビデとゴリアテ」は、ダビデが、イスラエルの敵ゴリアテの額に、小石を命中させて倒したという聖書の故事が題材となっている。ダビデがゴリアテの首を斬ろうとしているのだが、ゴリアテの顔はカラヴァッジョをモデルとして描かれている。これは神の裁きの前に首を差しだしているカラヴァッジョの姿なのだろう。使徒行伝にあるパウロの「わたしは罪人の頭です」という言葉が浮かぶ。それはとりもなおさずわたし自身の言葉でもある。自分のなかに確たる正義はない、といつかこのブログにも書いたが、まさしくその通りである。自分に多少なりとも義があるとしたら、キリストの血によってあがなわれた義だけである。キリストによる義、神による義しか持ち得ない自らをカラヴァッジョも自覚していたに違いない。ついに追われる身となるがその先で「洗礼者ヨハネの斬首」をもって罷免されるも一年もたたぬうちに再び罪を犯し投獄される。「ダビデとゴリアテ」はカラヴァッジョが図らずも自らの末路を予言した絵であったと思われてならない。

 どうしようもない自らを画業に投じ、制作するときにのみ、つかの間の充足、喜び、安息を手にしていたのではなかろうか。カラヴァッジョが神に赦されたかどうか。私は人生のある地点でまことの悔い改めがあるなら、神には赦されると考えている。それは「洗礼者ヨハネの斬首」においてではなく「ダビデとゴリアテ」の制作のときであったように思う。ただこれは見識もないわたしが言うことであって、カラヴァッジョが神に赦されたかどうかは、やはり神に訊いてみるより他ない。

 本物の絵を観ずして書く非常識で手前勝手な感想を綴ってみました。

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音楽効果

 今週に入ってできるだけ音楽を聴かないようにしていた。というのは一旦聴いてしまうと際限がなくなる。もう一回、もう一回・・・と何曲かをそれぞれに数回ずつ聴いてしまうために、気づいたときにはたいへんな時間を浪費してしまっている。何かをしながら聴くということができない。何かをしながら聴いても聴いたという実感が得られない。ただ音楽を聴いただけで暮しが成り立つわけではない。そこで控えたのでした。ところが、しだいに狭い空間にとじこめられているかの閉塞感が強まり、鬱屈した気分が固まってくるようなので、きょうは聴くことにしました。それで実感したのは、音楽は、聴くものを眺望の開ける風通しのよい高原に立たせてくれ、海溝の底をも覗かせ、吸い込まれるようなそこはかとなく青い天のドームにも引き上げ、ときには無数の星がまたたく大宇宙をも周遊させてくれる。音楽はわたしにとってはそういうものです。

今朝はモーツァルトのピアノコンチェルト20番(ゼルキン&ロンドン交響楽団)とベートーヴェンのあの7番(スクロヴァチェフスキー&ザールブリュッケン)です。この音に預からせてくださった神に感謝しつつ。

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大井利江選手 岩手県社会福祉表彰に輝く!

 パラリンピック五輪。円盤投げ。アテネで銀メダル、北京で銅メダル獲得の

大井利江選手が岩手県社会福祉表彰に輝く!!

 ずっと応援していたので嬉しいです。また若者に、高齢者に、強い者に弱い者に、障害者に、健常者に元気をください!!

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こんにちはモディリアニー岩手県立美術館ー

 先週は盛岡市にある「水曜デッサン会」の展覧会を観てきた。ここ三年間ばかり毎年ご案内をいただいている。またこの会の会員の幾人かの方々は、個展も何度か開いている。
 ところが大画家アメデオ・モディリアニ(1884~1920)の生前の個展はたった一回きりだった。1917(大正6)年12月。画商レオポルド・ズボロフスキーが女性画商ベルト・ヴェイユの画廊を借りての開催。出品は32点。そのうち7、8点が裸婦。ズボロフスキーが人寄せを目論んでのことだった。会場には人だかり。店の向いに警察署があった。裸婦があまりに官能的で猥褻とされ初日のうちに撤去を命じられた。このスキャンダルが功を奏し、モディリアニの名が世に刻まれたという。
 この盛岡展でわたしの印象に残ったのは、所謂一級の作品群からはほんのすこし外れているかもしれないが、「ユダヤの女」だった。人種差別の根深さへのこだわりが根にあったからかもしれない。解説には「最初のパトロン、ポール・アレクサンドルが数百フランで購入。顔の部分の大胆な色がフォーブの影響」とある。モディリアニもユダヤ人だ。「ユダヤ女」の表情には恨めしさ、怒り、卑屈さも見えた。作者の本音の投影、わたしにはそう感じられた。奇怪な魅力に満ちている。
 1919年14歳でモディリアニのモデルだったポーレット・ジョルダンは「モディリアニは絵が300フランで売れただけでも大喜びだった」と言っている。いま「ポーレット・ジョルダンの肖像」は2億で取り引きされているらしい。画商の強かさに驚く。ズボロフスキーなどは専属契約を結びすべて絵を引き取る代わりに画材などを提供するだけだった。ただ才能を見出した功績はある。これに輪を掛けているのがコレクター。公的な価値に対する非情さ非道さ横暴な独占欲には驚く。フランスを代表するコレクター、ジャック・ゲランはスーチン50点、肝心のモディリアニが何点だったか聞き落としたか説明がなかったかなのだが、(つい途中で余計なことを考えてしまう悪癖のため、視聴覚すべき肝心なところを聞き落とし穴をあけてしまう。あとでしまった!と思うのだが直らない)点数をたぶん聞き落としてしまった。ゲランは、スーチンも自宅に置いてあるのは一点だけであとはスイスの銀行に預けてあるという。生前画家として認められず、しかも貧困のなかであのグランド・ショミエール街のアパートの一室などで描き続け、最後は肺結核。酒、薬に溺れ1920年35歳で逝ったモディリアニが、いったいこれをどう思うだろうか。スイスの銀行といえば丁重に保護し奉っているようで聞こえはいいが、実質損傷を来さない暗い墓穴に封じ込めておくのと何ら変わりはない。自ら「わたしは『青ひげ』だ」、酷い奴なんだと重々しげに得々と語る。作品を封印するコレクターはモディリアニの天敵でしかない。貸し出しているかどうか、どの程度貸し出しているのか、どれを貸し出しどれを貸し出さないのか、詳しい話はなかった。
 モディリアニ独特の「瞳のない青い眼」。ジャック・ゲランは「うつろなまなざし」といい、うつろな瞬間があってこそ偉大な作品が生まれるという。またこの眼は優しさ曖昧さだという人がある。性格描写の重要性を強調しているという見方もあった。眼にこめられたモデリィアニのそれは観念なのだとの見方とさまざまだ。どう言ったらいいか・・・そうあの青い眼は、諦観、見果てぬ夢、純粋さ、ひたむきさ、やさしさ、虚無、達観が青い湖の面に互いに逆らうことなく争うことなく浮かんでいる、わたしにはそんなふうに見えた。

 小林秀雄は彫刻の立体の効果を否定。むしろそれからは解放されているとする。七宝的な絢爛と美しさ、一筆ごとのタッチにある光の消化と吸収、僅かなマッスに成し遂げられた驚くべき光の諧調、色彩の原素性近代的な洗練さが色彩の上に働いているなどと評している。

 盛岡展には最高傑作「ズボロフスキーの肖像」がきていない。残念だった。

 

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ホラーよりも怖いはなし二つ

  このブログも言うなれば寄席、漫才のようなもの、といったら芸人さんたちから「我々はこんな低レベルじゃない」とお叱りが飛びそう。ただきょうはそんな気分も吹っ飛ぶ怖い話。

 1月から10月3日まで東証上場廃止が65社。年間では2002年の78社を上回り過去最多になるらしい。(時事通信)霜が降りるかの冷えに益々冷えが。

 汚染輸入米のアセタミブリドの濃度は残留基準値のない農産物に一律に設定されている0.01ppmの3倍。ところが日本茶に適用されている残留基準値は50ppm。輸入米毒性物質の基準値の5000倍。(AERA9月22日号)嘘のようなホントの怖いおはなし。ならばコーヒー、紅茶、ココアが安全かどうか、それもわからない。

 だけど神さまに目を上げたときには、温かい人たちの顔が次つぎに見えてくる。「からたちの花」の歌詞じゃないけれど「みんなみんなやさしかったよ」そう信じられる。世の中まだまだ捨てたもんじゃないかな。

 

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絵画展を観る

  今朝からふっていた雨があがった。まだなかば雲におおわれている空は明るい。玄関先の観葉植物の葉に、大きな真珠のつぶほどの雨滴が半球をとどめている。たとえ雑文であっても、書くこと書けることが音楽を聴くことに次いで精神衛生によい。

 昨日の午後は喫茶ママだった。喫茶ママは1932(昭和7)年と書いて、ついほんとかな、と思ってしまった。随分昔だ。「盛岡タイムス」に書いてあるので間違いないだろう。ドアを開けるとビバルディ「四季」が流れていた。第1楽章「春」。新宿風月堂でも解説付きのレコードコンサートが開かれていたのを思いだした。昭和27年ごろからだった。新宿風月堂は1945(昭和20)年創業、1973(昭和48)年閉店。風月堂は風紀上の問題などもあり閉店したが、喫茶ママはいまに至るも三代目ママの下で健在。多くの個展を迎え観客を迎えている。芸術上のよき温床となっている。2代目のママが「舟越保武展」を終えた2005年12月に亡くなられた後、床やカウンターが改装されたが、入り口のドアや椅子、テーブルは明治、大正の雰囲気をのこす。
 訪れたのはママの顔を見、水曜デッサン会の方々の作品を観、コーヒーを飲みながら案内葉書を下さった方とお喋りを楽しむためだ。
 かつての詩人クラブの合評会などでは、すぐれた作品ほど厳しい評にさらされたものだ。それを思うと作品を簡単に賞めるのはむしろその価値を落としてしまうのではと恐れるのだが、この会のメンバーはみなうまい。「上手い」と「巧い」がどちらも過不足なく収まっている。案内くださった方のは「ゆく夏」。男性的なタッチだが人物に温かさと柔らかさを感じる。訊くとモデルさんがそのような雰囲気の方だそう。
 子どもの絵、花の絵、景色、建物、裸婦など13点の力作に囲まれてコーヒーを飲みながら、もっぱら彼女の話に耳を傾ける。子育てのこと、畑仕事のこと、旅のこと。
 ほっとするひとときに区切りをつけママに挨拶し、彼女に送られてまだ流れている「四季」を惜しみながらドアを後ろ手に閉める。入り口のクラシックな雰囲気に、ふと竹久夢二の絵が浮かんだ。

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漆塗りのエレキ完成ー岩山漆芸美術館ー

 この近所のいつもの方から岩山漆芸美術館の招待券「世界へ発信する 漆の神秘 企画展」を頂いた。そこで行く予定がなかったがせっかくなので行ってみました。28日最終日の閉館1時間前に滑り込みセーフでした。早く書きたかったのですが、太田カルテット関連が先だと思われ遅れました。

 おおっ!と観たのは螺鈿をふんだんに使った家具。皇居か大企業の社長宅か、あるいはオイルマネーにさらわれてゆくか、はたまたどこぞの美術館に安置されるのかと思うほどの豪華絢爛。どうか美術館永住となるようにと願いつつ細かな螺鈿細工に感嘆したことでした。それはさておき。

 音を聴かずして書く非常識再び。漆塗りのエレキ 「フェルナンデス」が完成していました。これは従来の塗装法として聞かなかった方法なので、興味深く観?ました。楽器は弾くものですが螺鈿が緻密に施され、美術品としても雅な美しさがありました。

 ここからは、「愚行連鎖」を参考にして書きますが。

 楽器は塗料と塗装法が音質の70㌫を決めるといわれています。
 ヴァイオリンでいうと表板、裏板、側面板のそれぞれの木質の細胞繊維に合わせた天然塗料の種類と配分比率をもって調合したニスを塗装します。これで古名器の音を再現したアンドレア・ヴァイオリンがあるようです。
 ストラディバリ、ガルネリの今日の楽器との違いは、一説には、やはり独特な天然塗料にあるとされています。どのような調合かは分かりません。
 ただ原始的でより木に近い性質を持った塗料を薄く塗るほど木本来の振動特性を失わず良い音が得られるようです。
 ギターでは、廉価版から中級品の楽器塗装にはポリウレタン、ラッカー、カシー塗装です。作業効率がよく耐用年数が長く多くのメーカーが採用しています。塗装法は吹きつけです。古くから使われているのはセラック塗装。これは原始的でより木に近いといえるかもしれません。セラックとはラックカイガラムシ(臙脂虫。半翅目カイガラムシ科)が豆科、桑科の樹木に寄生して樹液を吸って体外に分泌した樹脂状物質を精製した天然のポリエステル樹脂で成分は樹脂酸エステルです。

 以上がだいたい一般的な楽器塗装です。
今回見た、「聴いた」ではないので書きにくいのですが、漆塗りはそういった点で意外でした。しかし原始的でより木に近いという点では、ラックカイガラムシの分泌物にお世話になるよりもより木に近いどころか、漆の木の分泌液という点で、まさしく木の成分による塗装なのです。取材はしておりませんが、全先生の着眼もここにあったと推察します。
 しかも漆は電磁波を吸収するといいます。表現が適切かどうかは分かりませんが、エレキには「がなり」「高音の膨らみすぎ」「高音により音の散逸」「マシン的音の過度な増幅」があると思います。そういった部分が吸収されるなら、エレキの生命部分、特質的音が具現されるものと期待されます。いまは漆の99㌫が輸入。国内の1㌫は浄法寺の漆なそうです。このエレキもたぶん浄法寺の漆でしょう。
 エレキ Fer nandes の説明はこうでした。「フォルテピアノが弦の振動に増幅されてクリアな音が出る。微妙な音から強い音まで表現でき強弱がはっきり出る。漆で高音に透明感が出る。低音からさらに磨きのかかったきれいな音が出る。13年間漆の電磁波について研究。漆には強力な電磁波を吸収する能力があるためエレキの強い電磁波を吸収する」
 今回完成したのはベースギターです。クレモナと並び、世界の名器は岩手に!! 名器の塗料は浄法寺に!! となればよいのですが。 

 楽器はここまでで、こんどは時計。セイコーとの提携で「クレドールジュリ典雅」が完成。難関は、漆と金属をいかにして融合させるかだったようです。これも二年間の研究によって克服。ただ5250万円という値段。いったい誰の腕に。有り余る財力を誇示したい方にはどんどん買って欲しい。300万円代の時計も製作したようです。岩手が潤うのを期待します! セレモニーには達増
岩手県知事の顔も見えていました。

家具、エレキ、時計ともに館長の全龍福(チョン・ヨン・バク)先生の製作です。

 もう一つ、韓国では漆を薬膳として供するらしい。それだけではなく、牛に飼料として与えている。漆育ちの牛は旨みがあり倍値段で取引されるという。酪農家に朗報となるだろうか。

漆は殺菌力もあり中尊寺の首桶の蓮の種が腐らなかったのはそのためといいます。種は800年後に開花。奇跡の花がいまはそちこちに分けられるまでに!

漆の可能性はまだまだありそうです。 

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太田カルテット関連ー文芸講演会の年代は?-

 大正時代、太田カルテット主催で文芸講演会がありました。ある著作には、文芸講演会の年代は大正13年と書かれています。ところが例によって、マイクロで調べてみると、大正13年には出ておりませんでした。14年と12年を確かめると、12年に出ていることが分かりました。
 太田カルテット主催の文芸講演会は大正12年12月15日です。

 先にも何度か申しました通り、著作物に出ている太田カルテット関係の文化事業の年代があまりにも違っているために、それなりの時間を投入し調べ確かめた年代を拙書「光炎に響く」には書いておいたのですが、取り上げてくださったのは「盛岡タイムス」と「岩手日報社・郷土の本棚」でした。地方色の強い作品を東京からの出版を企てたのが選択違いだったかもしれません。ジュンク堂はこれを「郷土史」と位置づけてくださいました。出版社の倒産などもあり残念ながらこの著書は埋もれる命運にあるようです。肩書きもなくバックもありません。9割かたは研究者の方々の見よう見まねで独力で調べ、厳しい状況の中、纏めたものでした。不正な手段を講じたところもありません。しかし本の行方は霧の彼方。出版にはそういう側面はつきものでもあるといまは納得しています。また自らの力不足がありました。
 それはともかく、調べ明るみに出したと思われた項目が、いまだに、事実と違っているまま提示されているのを見て残念でならず、またか、またかと思われつつも、くどくどと書き連ねさせていただいた次第です。

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「からたちの花」ー山田耕筰/小田島孤舟ー

 「からたちの花」って北原白秋でしょう?どうして小田島孤舟の名が?
昭和4年7月6日、山田耕筰が黒柳守綱(あの「徹子の部屋」の、ユニセフ親善大使で、平和運動家の黒柳徹子さんのお父さんです)を連れて盛岡にやってきました。そのとき歌人であり書家であり教育者であった小田島孤舟(1884~1955年)が昭和4年7月7日の岩手日報に 「山田耕筰氏を迎ふ」と題して短歌を寄せています。

まれなる令人来るときくからに
われきかまほしくなりにける哉

うれしもよ子らにまじりてわれもまた
『からたちの花』きくをおもへば

いづくよりきこゆるとなくほがらかに
きこえ来にけり『からたちの花』

子らはみないろめきたちて耕筰の
来るをまてりばらの咲く日(か)に

『からたちの花』をきかむと子らはみな
いろめきたてりばらの咲く日に

耕筰をひとたびきかばあめつちの
はてなむ日にもわすれじとおもふ

むら肝の心の底ひにしみとほり
消ゆべくもなし耕筰のこゑ

すゑらし看板の文字くろぐろと
花咲き匂ふアカシヤのかげ


 どれほどに孤舟が、人々が「からたちの花」をあいし耕筰を待ち望んだかがうかがわれます。このような感想を一度でも詩に詠みこむことができたなら・・・。わたしがからたちを美しいと注意深く見るのも、すでに無意識のうちに「からたちの花」があるからでしょう。

北原白秋 作詞「からたちの花」

からたちの花が咲いたよ白い白い花が咲いたよ。

からたちのとげはいたいよ青い青い針のとげだよ。

からたちは畑の垣根よまろいまろい金のたまだよ。

からたちのそばで泣いたよみんなみんなやさしかったよ。

からたちの花が咲いたよ白い白い花が咲いたよ。

 からたちの原産地は長江上流域。8世紀に日本に。ミカン科。枝には稜角があり3センチもの鋭い棘が。これは葉の変形したものなそう。アゲハチョウの幼虫が好んで食べます。春に葉が出るまえに白い花が咲き、花のあとに3~4㌢の球形の緑色の実が。秋には熟し黄色に。酸味苦味が強く食べられませんが薬用にはなるようです。

 万葉集では「枳の棘原(うばら)刈りそけ倉建てむくそ遠くまれ櫛造る刀自(とじ)」と詠まれ、嫌われもの。「枕草子」でも「名恐ろしき」と書かれているらしい。昔は安全のため生垣として植えられたのが管理が大変でブロック塀などに変わり1960年ごろからは急速に減少。イメージが変わったのは「からたちの花」の歌によってです。拙宅近くの、あの盛岡音楽普及会が大正に練習場としていた盛岡市立城南小学校の校庭にあった3本も最近伐られてしまいました。子どもたちに危険だということでしょう。立派な美しいからたちでした。いまは岩手放送の生垣を知るだけです。

からたちの花が咲いたよ白い白い花が咲いたよ

からたちのそばで泣いたよみんなみんなやさしかったよ

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螺鈿の雲

 赤き実の撓わたわわにナナカマド  ぶんな

 甘き実に唸りとぶ蜂葡萄棚   ぶんな


早くも10月。きょう葡萄を二房採りました。これで終わりです。けれども蔓だけはまだ緑色に繁っています。塀の外回りにはバーベナ、コスモス、サルビア、マリーゴールド。春、夏と庭の手入れを怠っていましたが、こぼれ種から出たサルビアが、見切り値だったマリーゴールドがこんなに秋を明るくしてくれています。ドングリの実もまだ青いのに、青い空には秋の雲。夕陽を光背に螺鈿のように浮かんでいました。

 書いているうちに2日になってしまいました。

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太田カルテット、赤沢独奏会関連ーその3-

 ハイドン・カルテットが音楽会出演のために盛岡に来たのは、昭和4年までに3回あります。一回目は大正12年7月1日盛岡劇場。このときのチケットは1~3圓という高価なものでした。大正13年の盛岡劇場での歌右衛門、吉右衛門の歌舞伎とほぼ同じ値段でした。二回目は大正13年10月5日を盛岡高等農林学校講堂。そして3回目が昭和4年6月22日の赤沢長五郎独奏会に賛助出演のためでした。
 拙書「光炎に響く」の中に岩手師範教諭の鈴木定次が自由学園の佐藤瑞彦を訪れたとき、たまたまそこに置いてあった郷里岩手の新聞に赤沢の独奏会開催の広告を見て太田村を懐かしく思いだす場面がありますが、これも事実です。鈴木は、第一回目の赤沢の独奏会の時には自分も手伝ったことや赤沢が瀬川良隆と一緒に演奏したことを語っています。ハイドン・カルテットとではありません。赤沢がハイドン・カルテットとステージを踏んだのは昭和4年6月22日だけです。大正12年にハイドン・カルテットが榊原等と盛岡駅に降り立ったときの様子を、円子正は「岩手の輝き」に撮りました。華やかなものです。皇室付きであるこのカルテットの賛助で独奏会を開くことがどれほどに名誉な事であったかは推察できます。藤原嘉藤治が花巻高等女学校に赴任するまでは、藤原は赤沢のバイオリン練習の伴奏をしていました。ですから二人は気質はともかく音楽で繋がっていました。そこで赤沢は、藤原に音楽会の券を委託していました。賢治にも伝え、券が要るかどうか打診したと推察します。赤沢と賢治は面識があったと考えても不自然ではありません。賢治は恐らく赤沢の晴れの日に駆け付けてあげたい、ハイドン・カルテットも聴きたかったでしょう。しかし昭和4年といえば、体調がすぐれなかったと思われます。昭和3年12月賢治は宛先不明ですが手紙に「何分神経性の突発的な病状でございましたためこの8月までもこの冬は越せないものと覚悟」(宮沢賢治全集十五書簡)と書かれており、また4年の12月も下書きに「夏以来床中ながら」ともあります。音楽会にまでは行きかね、赤沢の晴れの日を祝して、祝電を打ったと推察します。赤沢は後年宮沢賢治のいとこ(賢治の父政次郎の姉ヤギの娘まさ)と結婚しています。


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