盛岡音楽普及会についてー推察の証明ー
大正12年6月3日の岩手毎日新聞があります。
「洋楽鼓舞に力むる
盛岡音楽普及会
△○ 生 」
上記のの見出しで以下の記事が続きます。
「盛岡音楽普及会は大正6年洋楽の普及発達を目的として呱々の声をあげた。現在の会長は中村本県社会教育主事で幹部には原(彬)、梅村(保)、下総(覚三、後晥一)、新藤(武)らの諸氏があたって会員は四十余名に達している会が今日まで開催した音楽会は随分多いのだが、余所より招待したものとしてピアノ購求の基金募集楽会を後援することに決定している。一方会員の技量を錬磨する為昨年までは毎週日曜日に城南(小学)校に集まって練習しておったが会場の都合で現在はこれを中止しておるものの幹部の同人はしばしば集合して合唱や合奏の練習に怠りない。此の2、3年来音楽熱の勃興は、実にめざましいもので中央の大都会は云うに及ばず地方も随分盛んになってきた。ほんとうに音楽でなければ夜も日もあけない時代となってきた。見よ演劇舞踏は益々音楽と結合して芸術的効果をあげ体育さえも音楽化しつつあるではないか。かかる時代に際して盛岡音楽会は益々奮闘して地方楽界の開拓に活動を続けることであろう」
盛岡音楽普及会の創立は大正6年で間違いないと思います。太田カルテットの結成年代が4年であるにもかかわらず6年と伝えられてしまったのは、このブログで前にも申しました通り、太田カルテットのメンバーもこの会に入っており中心的な役割を担っておりましたので、普及会と太田カルテットを混同し記憶された結果だと考えられます。
当時の熱い音楽的機運が伝えられています。この記事が載った大正12年は太田カルテット主催の中央から音楽家、音楽団体の招聘しての音楽会、また彼らの太田村滞在に伴う音楽の研鑽、さらに付け加えるなら幡街(八幡町)界隈での桁外れの豪遊なども含めて、音楽は大正時代のピークでした。接待に関しては世の顰蹙を買ったのも確かです。ただ質の高い演奏活動、当時としては夢のような数々の音楽会が企画され、音楽高揚、啓蒙に多大な貢献をしました。新藤先生が最晩年に、この人々の豪奢気ままな暮らしぶりは忘れられない、と鮮やかに回顧しておられます。
記事を書いた「△○生」という方ですが、わたしはふっと梅村ではないかと思いました。やはり「△○生」のペンネームで、当時の太田の稲荷場発行の農民啓蒙紙「稲荷場互助会報」にも記事が見られるからです。梅村は、自らが表に出ることを嫌った人物だったからですが。ただ梅村の筆致には手紙文でしか接したことがないので確信は持てません。
梅村保は姓名判断もやっていました。自らは後に保ではなく和己と改名しました。剣道には和己を使っていたようです。下総覚三(後の東京芸術大学音楽部長)が晥一と改名したのも、梅村保の進言であったと、故梅村功二先生から聞いたことがあります。
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