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2008年9月

盛岡音楽普及会についてー推察の証明ー

 大正12年6月3日の岩手毎日新聞があります。
「洋楽鼓舞に力むる
  盛岡音楽普及会
        △○ 生 」
 上記のの見出しで以下の記事が続きます。

「盛岡音楽普及会は大正6年洋楽の普及発達を目的として呱々の声をあげた。現在の会長は中村本県社会教育主事で幹部には原(彬)、梅村(保)、下総(覚三、後晥一)、新藤(武)らの諸氏があたって会員は四十余名に達している会が今日まで開催した音楽会は随分多いのだが、余所より招待したものとしてピアノ購求の基金募集楽会を後援することに決定している。一方会員の技量を錬磨する為昨年までは毎週日曜日に城南(小学)校に集まって練習しておったが会場の都合で現在はこれを中止しておるものの幹部の同人はしばしば集合して合唱や合奏の練習に怠りない。此の2、3年来音楽熱の勃興は、実にめざましいもので中央の大都会は云うに及ばず地方も随分盛んになってきた。ほんとうに音楽でなければ夜も日もあけない時代となってきた。見よ演劇舞踏は益々音楽と結合して芸術的効果をあげ体育さえも音楽化しつつあるではないか。かかる時代に際して盛岡音楽会は益々奮闘して地方楽界の開拓に活動を続けることであろう」
 
盛岡音楽普及会の創立は大正6年で間違いないと思います。太田カルテットの結成年代が4年であるにもかかわらず6年と伝えられてしまったのは、このブログで前にも申しました通り、太田カルテットのメンバーもこの会に入っており中心的な役割を担っておりましたので、普及会と太田カルテットを混同し記憶された結果だと考えられます。
  
 当時の熱い音楽的機運が伝えられています。この記事が載った大正12年は太田カルテット主催の中央から音楽家、音楽団体の招聘しての音楽会、また彼らの太田村滞在に伴う音楽の研鑽、さらに付け加えるなら幡街(八幡町)界隈での桁外れの豪遊なども含めて、音楽は大正時代のピークでした。接待に関しては世の顰蹙を買ったのも確かです。ただ質の高い演奏活動、当時としては夢のような数々の音楽会が企画され、音楽高揚、啓蒙に多大な貢献をしました。新藤先生が最晩年に、この人々の豪奢気ままな暮らしぶりは忘れられない、と鮮やかに回顧しておられます。
 記事を書いた「△○生」という方ですが、わたしはふっと梅村ではないかと思いました。やはり「△○生」のペンネームで、当時の太田の稲荷場発行の農民啓蒙紙「稲荷場互助会報」にも記事が見られるからです。梅村は、自らが表に出ることを嫌った人物だったからですが。ただ梅村の筆致には手紙文でしか接したことがないので確信は持てません。
 梅村保は姓名判断もやっていました。自らは後に保ではなく和己と改名しました。剣道には和己を使っていたようです。下総覚三(後の東京芸術大学音楽部長)が
晥一と改名したのも、梅村保の進言であったと、故梅村功二先生から聞いたことがあります。

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太田カルテット、赤沢独奏会関連ーその2-

 このほど岩手県公会堂に関する著作物も刊行され話題となっています。
この公会堂は昭和2年6月に完成しました。よくこけら落としに太田カルテットが演奏し、宮沢賢治が祝電を寄せたといわれます。それはある著作物にそう書かれているからです。しかしわたしの調べたところでは、太田カルテットは出演していません。また赤沢長五郎の独奏会が昭和2年と認識されている根拠が分からなかったのですが、
この9月に、大信田時子さんが、吉田九五郎先生の「岩手の音楽教育」を持って来てくださったところで、その理由が分かったのでした。赤沢の独奏会は昭和4年です。

 太田カルテットの主宰者梅村保は戸田一心流の剣道の達人でもありましたが、大正14年に剣道師範となったことを節目に音楽界を引退します。これは原彬との決別、双方の弟子たちの諍いに終止符を打つことでもありました。このころの音楽界は、原と梅村が指導的立場にありました。原は経済的な負担を梅村、佐々木、館沢、上原に負わせていた向きもあり、ついにその関係に破綻を来してもいたのです。何れ梅村は引退。カルテットは解散しました。武士に二言はなく、一旦口にしたことは二度と撤回することはない梅村です。ですから昭和2年に太田カルテットが演奏するはずはないのです。
 公会堂落成のとき、18日~20日まで落成行事が組まれました。18日は政界経済界からの招待客による式典、設計工事関係者の表彰など。19、20日は講演会です。この三日間の夕方6時半から記念館による活動写真があり、その休憩時間に円子正が集めた海軍軍楽隊による生演奏がありました。新聞でこれを読んだとき、陸軍の間違いではないかと思い、当時の音楽事情をすこし当たりましたら、やはり海軍軍楽隊だろうとわかったのですが、このことに関して今は割愛します。
 このあと、公会堂では25日~27日まで大きな行事が組まれます。公会堂のこけら落としと位置づけることのできる大きな音楽会は25日6時からの「郷土出身者音楽大演奏会」でした。大正15年フランスから帰国し近衛秀麿らと華々しい帰朝演奏を果たした照井栄三、瀬川良隆、榊原直、竹岡鶴代、赤沢長五郎が出演しています。
 著書「岩手の音楽教育」には「(昭和)2年6月、赤沢長五郎バイオリン独奏会、ハイドンカルテットの後援、このとき宮沢賢治は『今宵は楽聖とともにあり』と祝電したという」と書かれています。しかし岩手日報、岩手毎日、東京日日新聞岩手版、この3紙の昭和2年の6月分を詳細に確かめたところ、そのような記事はありません。後の赤沢の独奏会のときには、新聞は、数回に亘って大々的に取り上げていますから、載らなかったのではなく演奏会は無かったと考えます。
 赤沢長五郎がハイドンカルテットの賛助で独奏会を開いたのは、昭和4年6月22日です。このプログラムは保存されてあります。「岩手の音楽教育」の記事で、赤沢バイオリン独奏会の内容はこの通りでした。ただ年代が違っています。賢治がこの音楽内容に祝電を打ったとすれば、それは昭和2年ではなく昭和4年の赤沢長五郎の独奏会に祝電を打ったのです。

 赤沢の独奏会、賢治の祝電に関するいますこしの考察は次回に致します。

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太田カルテット、赤沢独奏会関連ーその1-

 太田カルテット、赤沢の独奏会について、幾つかの著書に書かれてある年代に、事実との相違があるので、数回に分けて掲載いたします。大正、昭和初期のことでもあり、存在の事実を証言くださった内容自体、大変貴重であり、その有り難さを踏まえたうえで、拙いながら疑問に従って調べた結果を述べさせて頂きます。

 結成が大正4年である根拠は
大正10年7月10日の岩手日報にこうあるからです。
「太田ストリングクワルテットは、太田四重奏団とも称すべきものにして、大正4年の創立に係り団員すべて岩手郡太田村の出身者にして研究所を太田村梅村氏宅に置けり・・・ファストヴァイオリン佐々木休次郎、セコンドヴァイオリン館沢繁次郎、ビオラ赤沢長五郎、セロ梅村保・・・」
 にも関わらず、なぜ6年と認識されているか。それは新藤武先生の「岩手の音楽回顧」にそう書かれてあり、それを後の音楽関係を書かれた方々がそのまま引用したことにあります。
 太田カルテットはアマチュアの弦楽四重奏団ですが、これとほぼ2年の違いで結成された盛岡音楽普及会があります。これは新藤武先生他音楽の教師らが中心となって創られましたが、のちには太田カルテットのメンバーも入会しています。
 ある著書では、盛岡音楽普及会の創立は「大正7年5月と推察できる」と書かれています。しかしわたしは盛岡音楽普及会の創立は大正6年と推察したのでした。根拠は、太田カルテットが4年にでき、梅村の指導の下に2年の研鑽を得て、6年頃には他に影響を与えうる存在に成長していたこと。これを音楽関係者等は見知っていたでしょう。もう一つは大正6年4月創刊の熊谷辰治郎編纂の「教育の曙光」が、当時の師範教育並びに卑屈な教員の気質を鋭く攻撃し反響を呼んでいました。新藤武先生は大正6年4月に盛岡高等女学校に赴任しました。太田にはよく足を運んでいましたし、また「教育の曙光」の啓蒙も受けられ、その年のうちに盛岡音楽普及会を結成したと考えます。同普及会は、現存のプログラムによれば、翌年の大正7年6月29日に第一回演奏会を開いています。普及会の結成が7年5月とした場合には、音楽会の準備期間は一ヶ月ないし二ヶ月弱。準備にはもっと多くの時間を要したはずと考えます。少なくとも半年、と考えると、やはり結成は6年であったと思うのです。この普及会結成の6年が太田カルテットの結成年代であったと記憶違いされていたと推察します。実際こう推察したあとに、岩手毎日を見ておりましたところ、盛岡普及会の創立は6年という記事に出会いました。後にこのブログに書きます。 鈴木彦次先生も「まぶたの人」の中で、「太田カルテットが結成されたのは大正7,8年頃」と仰っているので、太田カルテットは思い出すのにもそれほど遠い昔のこと、なわけです。鈴木彦次郎先生もまた新藤先生と同じく太田には度々足を運ばれた方でした。
 以上の理由から、太田カルテット創立は岩手日報紙上にある通り、大正4年と考えます。       

 尚、「教育の曙光」の執筆陣は、稲毛租風、田子一民、小田島孤舟、大条虎介、熊谷辰治郎、工藤義一郎、高橋立身、藤原嘉藤治、他の青年教師でした。「教育の曙光」は佐藤泰平著「セロを弾く賢治と嘉藤治」からです。

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当ブログの今朝のトップニュースはー大井選手ロンドンを目指すー

  24日NYダウ、3日続落。
 25日東京株、下落で始まる。
 24日麻生内閣発足。

 経済危機の最中、どうも新内閣が発足したらしい。政治が何かを変えてくれると期待している人がいるかどうか・・・。政治のことは何もわからないわたしだ。当然政治に期待のしようがない。愚の輩が書いた場合には罰金が科せられるという決まりもないので数行落書きしたにすぎない。
 
 株がどうあれ、内閣がどうあれ、今日の関心事はこれ。今日というより昨夕のテレビニュース。昨日のうちに書けなかったのは、ただに猛烈な睡魔に打ち負かされたため。
 岩手のパラリンピック銅メダリスト大井選手が、またまたロンドンをめざすという。ということは奥さまの須恵子さんのゴーサインが出たもよう。是非形のある金メダルをゲットしてほしい。頑張れるのは若者だけじゃない!とまた証明してほしい。カツを入れてほしい。
 政治に期待するよりも期待のし甲斐がある。テレビ画面のご夫妻にはホットな気分を貰った。新内閣を見たときよりは、ずっと気分が明るくなった。

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北上山系開発入植者償還金

 葛巻町塚森で償還金を完済した酪農家が1戸ある。酪農収益からではない。酪農の傍ら建設業を興し、主に冬場の除雪の収益を充てた。
 償還金を支払うためにあらゆる試行錯誤を重ねた酪農家がある。花の栽培、白菜の生産、大根の栽培を試みた。乳牛を肉牛に切り替えた。収入を得るため妻が働きに出た。やっと2億数千万返還。しかし今尚数千万を抱える。
 償還金は支払うに足る妥当性に欠けるとし、払う必要がないとする考えの方がいるらしい。30年を経たいまがどうなっているかは、北上山系を覆う霧の中です。
 以上は昨日ある酪農家から聞いたところです。全戸であとどれだけの償還金が残っているか確かなところは県、農協が知るのみ?

 友だちの野菜畑では、いま虫の被害が深刻なようだ。

以上、椅子に座って電話で問い合わせただけのふとどきな、草の根レベルというにもほど遠い、調査というには申し訳ないほどお粗末な聞き語りでした。

 
 

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魂の水脈

 どうしてこれほどまでにベートーヴェンの7番に引き込まれるのかを考えていた。それは、抽象的な言い方になるけれども、魂の底に流れる水脈から汲み上げられているからではないのか。チャイコフスキーも美しいと思う。けれども、時としてどこか作り物という感じがするのだ。
 たしか岩城宏之の著書にベートーヴェンは指示記号にはあまりうるさくないと書かれてあった。完成した演奏は、指揮者の感性というフィルターをくぐって供される。指示がゆるければ指揮者の解釈を発揮しやすいとも言えるだろう。クーベリックの7番はかなり悠長に聞こえる。間延びのし過ぎともどかしくさえある。一方、デビット・ジンマンのようにじっくりと聞かせまいとするかの駆け足演奏がある。どちらも間違ってはいないのかもしれない。ただ魂の水脈、これにあたっていない演奏はベートーヴェンではないと思う。

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水曜デッサン会 展覧会のお知らせ

    水
   
第7回  絵画小品展
    
2008年10月1日(水)~15日(水)
     
 画廊 喫茶 ママ
         
盛岡市本町通り 1ー8-10
         
℡622-5576

出品 
大信田時子    小田島進朗
    佐々木範子    佐々木玲子
    瀬川睦子      大光隆
    志賀志津子    飯田節子
    堀米英子      松阪ゆり子
    湯浅俊行      吉田律子
    横田嘉明

            

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スタニスラフ・スクロヴァチェフスキーベートーヴェン交響曲第7番ー

 7番を聴いた。「またなの?」「はい、またです」

 スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮、ザールブリッケン放送交響楽団。
 第一楽章はちょと甘美に傾き過ぎる部分があった。勿論これは評論家でも演奏家でもないわたしの耳が感じたところだ。ところが第二楽章の神経のゆき届いた演奏にはむせぶような心境となった。音の隅々までがぴったりと感性に染みわたる。第三楽章は、あの岩手のパラリンピックのメダリスト大井さんが漁師だったことで、海が頭にあったからだと思うが、ほんとうに海だと思った。海の持つ要素がすべてある。凪、嵐、高波、きららかさ、波間に上下する午後の光。吠えたけり逆巻く波。また舞台の的確な照明が切り替わるような鮮やかさ新鮮さに満ちている。第4楽章は、かなりテンポが速いのだが、その音の一つ一つが説得力を持っている。速いのだが、一音一音をしっかりと心にまで届ける。速さの意味を納得させる。素晴らしい力に満ちた演奏だ。

 遠隔地に住む姉から電話があった。「この頃ずっと電話がないからどうしてるかと思って」。実は7番を聴くようになってから、わたしはあまりグチグチ言わなくなった。ちょっと心許なくなったり、寂しく感じられることもある。そんなとき、この7番を聴き、聴き終えると、ぶつぶつとした感情が消えている。
 7番で色々な指揮者と会話をしているような気分もある。分もわきまえず、指揮者に文句を言いつつ聴く7番でさえそうだ。

 亡き毛藤美代先生、あの長岡直子を育てたピアノ教師だが、先生が、「ピアノの傍にベートーヴェンが立ったことがある」と仰ったことがある。わたしがメモするノートを覗き込まれて、「う~ん、あなたには何かがありそうね」とおっしゃった。その意味は、学校の成績とはべつにね、だったと思う。成績を重視される方だった。それはともかく、毛藤先生に現れてくれたベートーヴェンが、わたしにも現れてはくれまいかと願うこのごろである。

 パラリンピックは終わった。全力を出し切った戦いだった。ベートーヴェンは聴力を失い絶望し遺書まで書いたが、思い直し、自分のなかにあるものをすべて出し切ってしまうまでは死ねない、と言った。そして次々に名曲を創った。ベートーヴェンが聴覚障害者となってから創った作品が、今のわたしを勇気づけている。思えば何という奇跡だろうか。 

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お帰りなさい!ー大井選手帰郷ー

  またまた台所で皿洗いの最中だった。
「大井選手・・・洋野町・・・帰りました」
テレビの音声につい洗いかけの箸を持ったままテレビの前に急行。大井選手と銅メダルをテレビ画面越しに間近に見ました。
「わたしにとって銅は金メダルと同じ」
パラリンピックを見た後なので、その意味がわかりました。
 これで奥さまの須恵子さんの胸にも、アテネの銀、北京の銅、そして“金メダル”が。
 投げられた1キロの円盤着地の音が、また自宅近くの公園で鳴る日も。

かつて大井選手が股にかけた海。浜にもまた祝福の波が繰りかえし押し寄せているはず。

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恐れるな

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る

         
聖書イザヤ書41章10節

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酪農ー「(株)中洞牧場」が社名変更し「しあわせ乳業(株)にー

 葛巻の友だちの牧場の成りゆきばかりを見てきましたが、、いま検索してみて、いやーほんとうに驚きました。2008年8月30日付けで、「株式会社中洞牧場」が「しあわせ乳業株式会社」と社名変更してました。代表取締役佐藤力。中洞さんは顧問となっているようです。

 会社の沿革
1983年北上山系開発下の岩泉に入植
1984年個人事業として牧場創業
1990年周年昼夜の自然放牧酪農の確立
1992年輸入飼料を排除
    エコロジー牛乳販売開始
1997年牛乳加工処理プラント建設
    自社製造開始
2000年法人化
    (有)中洞牧場設立
2001年アイスクリームなどの商品化
2008年中洞氏の牧場撤退
2007年社長交代 社長佐藤力  顧問中洞正

 上記の赤文字が農水省の指導に従わない方法の選択でした。当初牛の放し飼いで「おまえのとこの牛はばたばた死んでいくじゃないか」と批判されたこともあったのです。しかしいま牛が強くなり雪を被って牧場に静かに休んでいる写真を見たり、現在、四季むかしの牛乳、アイスクリーム、飲むヨーグルト、ハンバーグステーキその他の製造販売を全国的に展開し、中洞牧場を扱った番組までが数々の受賞を果たしているのを見ると、苦労が報われた例にすこしほっとするのです。
 平成2,3年頃、乳価下落、牛肉の自由化による赤字、借金の膨張に、北上山系開発の入植者たちの間では、「俺たちはもう農薬を飲むか首を吊るしかないのか」と囁かれたときがあった。入植者のなかで真っ先に反旗の口火を切ったのは沼沢洋一。その呼びかけに15戸が応じ、平成5年「入植の会」を旗揚げ。会長は中洞正。11月15日の県庁への陳情。中洞氏は怒りを隠しきれないまま言いました。「
去年やって今年増えたって騒いでいるわけじゃないんですよ。わかりますか?十何年、ご存じでしょう。このままじゃ絶対(借金を)返せない。あと2年やったらみんな経営放棄だとまで言ってるんです。ここまでもう逼迫してるんです。この実態は県が知らないわけはないんですよ。しかもね、国民の血税を何百億と使った事業がこんなふうな事になってるって事はですね、場当たり的政策といったら申し訳ないですけどね、そういうやり方ではもう抜本的な改革策には何もならない」。これはわたしが当時放映された番組をビデオに取り、そのまま文字に起こしたものです。この後で県は10年間の償還金の利子補給を決定しました。この利子補給は償還金に対してだけですから、その他の借金には適用されません。
 一面識もありませんが、あの中洞さんが自助努力などで困難を克服、ここまで道を開いたのだと思うと感無量です。
 さて農水省指導に逆らった中洞さんの現在は、その成功の期間が検索ページ10ページにも及んで出てきます。しかし農水省指導に従った人たちはどうなったか。今尚、中洞さんが平成5年に県庁で叫んだ言葉のままの状態がほとんどでしょう。あのときの中洞さんの叫びがそのままいまの酪農家の人たちの叫びなのではないでしょうか。

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酪農ー糞尿処理法ー

  9月13日のブログに酪農を書きました。負債という側面からでしたので、つい飼料の自給をしてみたところで労力が増し加わるだけと言ってしまいました。酪農の労働の重さを考え、借金削減に大きく繋がらない労働は苛酷だと思われたからです。
 しかしきょう岩手日報紙に載っていたハーベスターによるデントコーンの刈り入れの写真(この農場は会社組織。わたしもこの農場には飼料、牧草、機械に関して聴きにいったことがあります)を見て、自給の努力をよけてしまうのは筋ではないなと思いました。

 それはそれとして。99年には環境保全の一環として「家畜排泄物管理適正化法」ができ、04年に本格施行となり、違反者には最大50万円の罰金が科せられます。処理施設建設には標茶の場合は、北海道などから75㌫の補助があるが、それでも対応する資金に行き詰まり離農した例があります。

 12日のテレビで1200頭の酪農家と聞いたままこのブログに書いてから、随分頭数が多い、聞き間違いもあり得るなと、いまになって標茶を検索してみると、標茶全体で約4万頭(2004年現在)の乳牛と分かりました。1200頭保有の農家があっても不思議ではないので、聞き違いではないでしょう。それにしても4万頭分の糞尿が計量でどれぐらいになるのか。80頭経営の農家の場合の堆肥舎の建設費は補助も含めて700万だったといいます。それでも3ヶ月で施設から溢れ、冬場の処理に困っている状況。わたしが葛巻町で見た処理法は、コンクリート製の地下のプールに溜め込み、屎尿散布車で汲み取っては、草地に散布するという方法でした。ただこの方法は、糞尿に入っている種が草地で発芽生長し、草地を破壊する欠点もあるそうです。ネットで糞尿処理用機械も見てみましたが、価格はいったいどれぐらいなのか。仮に導入したとして、いったい何台あれば標茶の4万頭分処理できるのか、果たして処理しきれるのかどうかは分かりません。

 きょうは、検索で出てきたasahi.comから掻い摘んで、糞尿処理の側面から書いてみました。

 とにかく大規模酪農は金がかかる。借金が雪だるま式に堆積する、糞尿処理一つ取っても酪農家に重い石がまた一つ積み重なるのです。

ところで、岩手で農水省の指導を拒否し、牛の放し飼いなどを貫き生き残りを図った中洞さんの牧場の経営状態がいまどうなっているか、たしか加工も始め成功したと思っていましたが。

 日中33℃あった室内がいまは25℃に。肌寒い風が吹き込んでいます。昼の暑さがすこしきつかったので、この風を心地よく迎え入れています。いまミニバイクの発信音がしました。どこかへ走り去ってゆきました。 

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17日パラリンピック閉幕ー形のないメダルー

 パラリンピックも終わってしまった。当初入場券は全チケットの3分の1しか売れなかったらしい。そこで中国政府は35万人の応援団を動員。何とも粋な計らいだった。
 日本勢のメダル獲得数(金5,銀14,銅8)がアテネに届かず、ちょっと寂しくおもった。これは支援の立ち後れともいわれた。しかし17日の加治佐博昭(34)選手の視覚障害者マラソン2時間56分31秒の21位の内容には心打たれた。伴走者は永井順明。痛みの中をついに完走。全盲を間近にしての完走だった。近々第2子誕生予定。「全盲になるまえに子どもの顔を見たい」、と。「みんなに走らせてもらっている」。彼はこう語った。私が、世の中に、自分のこどもに、こんな姿、こんな1頁を残せるかと問うてみる。無い。すこしばかりの書き散らしの文章も、このように血の滲むところからは出ていない。いつもどこか胡散臭くまがい物という感じだ。
 全盲を目前にしてのゴールイン、これが金でなくて何だろう。パラリンピックには、メダルにならない金、銀、銅が幾つかある。

 彼は「走らせてもらっている」という。障害者の方たちはもうその割合を掴んでおられる。だから謙虚にもなれる。ところが健常者もほんとうは生かされている存在なのだ。それを自覚する場に直面する機会が足りない為に往々にして傲慢だ。この世をこの傲慢な人種が支配するために、なかなか問題の解決が遅れる場合が多い、そんな気がしてなりません。

 以上、主にヤフーニュースのパラリンピック登場の選手たちから学んだことの一部を書かせて頂きました。

 次のロンドン、今朝のニュースでは1兆8千億の予算。それでも中国の3分の1だとか。できるだけ質素に開催する方向へ、とはならないのでしょうか。

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ア・ラ・カ・ル・ト ー音楽雑感ー

 デビッド・ジンマン&チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団のベートーヴェン交響曲第7番を聴いた。第二楽章の音が重厚、パワフルに打ち込まれてくる。音の打ち込みには説得力がある。しかし全体的に弾き急ぎの感。いますこし音の味わいをと思うところで、伸ばしを軽く切り捨てすぎる。
 モーツァルトの40、41があまりに悠長で聴く気が失せた盤がある。どちらかと言えば速いテンポ、リズムを好む傾向を自認しているが、その自分ですら速すぎると感じる。もしベートーヴェンが傍にいたら、はて何というでしょうか。
 夕べはラフマニノフ2番だったが、きょうまた7番。これはもう一生7番を聴くことだけで終わってしまうかもしれない。7番を聴きながら息を引き取っていることもあり得る。それはそれで最期はやっぱり賛美歌がいいな。

 14日のコンサート。「英雄と生涯」第3楽章。ヴァイオリンのソロは聴きどころ。ところが鳴りだして間もなく、喉がかゆくなり、これは危ないと咳を必死に堪えながら、手探りでバックの中の飴をさがす。やっとつまみ出してこんどは飴の包装を切るチャンスをヴァイオリンの旋律に探る。大音量になるはずもなく仕方がないこのあたりかとギザギザの箔をそろりそろりと切ってやっと口の中に放り込んだとき、会場のどこかで誰かが立派な咳をしたのでした。出ようとする咳をなだめすかすので精一杯。凡人のわたしです。やはり「英雄の生涯」には縁が薄かったようです。

 昨日、金剛山歌劇団を観ました。朝鮮をすこしでも理解できればと。露出のまったくない柔らかい配色のステージ衣装が好ましくたおやかで懐かしくもありました。始まってすぐに、あ、これは楽しい愉快な気分で気分を明るくさせて貰ってかえろうと、肩の力を抜き手拍子にも加わりました。舞踏「大河」、民族舞踊「太鼓の舞」、菩薩を表現した「ポリサルタ」は瞑想と官能の舞踊。興味深く観ました。オケピ付き。それにしても朝鮮女性の美しさにはうっとりでした。 

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小山実稚恵&大野和士&東京都交響楽団

 ’08年9月14日(日)盛岡市民文化ホールの末席で、久しぶりの音楽鑑賞でした。小山さんの著書も読みましたので、やはり音も聴かねばと駆け付けたわけです。
 開演前に大野さんのプチトークがありました。大野さんと小山さんは東京芸大で同級だとか。楽器をやってる人は、もう18、9歳で楽器をすべてマスター。しかし指揮科の学生はこれからで、演奏の場を作ることが大切なそうです。
 ラフマニノフはロシア革命を逃れアメリカに渡ったものの、暮らし向きが合わなかったようです。心を病みまったく作曲できない状態で帰国。ダリ博士の心理療法に癒されたのちにファーっと霊感が湧き、代表作ピアノ協奏曲第二番ハ短調を作曲したらしい。
 ラフマニノフの手は大きかったようです。ふつうは指がド~レまでしか開かない。しかし彼はド~ソまで簡単に開いたらしい。長身だった彼。けれども心臓はノミの心臓だったと。
 2番の最初はモスクワのクレムリンの鐘の音で、この鐘は多くの作曲家の心に刻まれており、ムスログスキーの曲にも出てくるらしい。
 大きな手の大きな体のラフマニノフが作曲した2番を何とも言えない深く青いドレスのたおやかと見える小山さんが弾いたのです。

 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調第一楽章の鐘の音のような和音、小山さん大丈夫かな、こんなインパクトのあるすごい部分を、美しい衣装を纏った女性の細腕?が弾く自体、パラドックスとも思われた耳に、すこししてしっかとクレムリンを震わすかの響きが届きました。アルペッジョにも底力と響き支え、つづくオーケストラの圧倒的な音量にかき消えたかと思われたときもありましたが、いったん詩的な感性的な旋律となれば、ぽろりぽろりと虹色の雨滴や小粒の真珠を心に落としてくれる小山さんです。それにしてもオーケストラの迫力に立ち向かうかのダイナミックな弾きにはすっかり感心しました。

 大野さんは初めて聴きましたが、いいなと思いました。「英雄の生涯」は難易度が高いとか。9人のホルン奏者は圧巻でした。それにしてもオケって、個人の名まで出されることはなく、全員が同じく指揮者のしごきに耐えて晴れの舞台を踏んでいるはずが、ちょっと寂しい感じも。よい音楽会でした。

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パラリンピックー円盤投げ 大井利江 銅

 岩手出身の選手が銅! 26㍍20。障害の軽いF54クラスと戦っての銅です。自己ベスト記録26メートル60には届かなかったようですが、それでも三傑に食い込みました。パラリンピックの面白さは、その日そのときどういうどんでん返しがあるとも限らない、勝利の女神のさい配が予測できない部分があることです。
 洋野町出身の大井利江!! 60歳という年齢がニクイ! 「退職じゃ、歳」ということで庭いじりやこたつに潜る、読書ぐらいしかないおじちゃんたちに良い刺激材料となったはず。
 「大井選手はもともと北太平洋ミッドウェー沖でマグロ漁をしていた。釣り上げていた20キロの荷物の直撃を受け首の骨を折り下半身麻痺に」。ここまではヤフーニュースからですが、次からは違います。このマグロ漁、一時期は一回の航海で1000万ほどの収入になったという。ところがいまは外国勢に追われ、300~500万ほどに。延縄漁、つまり漁師がマグロを一本づつ釣り上げるわけだ。そこで強い体力と精神力が要る。そんなわけで、実際には完全に仕事を成し遂げられる人はほとんど居ないのだそうだ。大井選手の体力、精神力はこのマグロ漁で培われ、すでに内在していたのではないか。世界を股にかけて仕事をしていた人が、世界に羽ばたかないではいられない。ロンドンも目指したいという。
 大井選手の土壌である洋野町とは?
岩手県九戸郡にある。
名所としては、岡谷稲荷神社。彼は詣でただろうか。大野の久慈平岳、なだらかな緑が日に輝いています。種市海岸の窓岩。海の呼吸、心拍をつたえるかの波の上下を朱の夕陽が見事に染めて前景となり、波に削られた荒々しい岩の連なりを黒く浮き立たせています。大野ダムは、エメラルド色の水を静かに湛えておりました。中野白滝は数条に分かれた清冽な水が迸り飛沫となって下っておりました。瀧澤滝は、これはもう中野白滝と競争でがんす。どれも大井選手の記憶にある光景かと。
 もっとも大井選手の練習場は、自宅近くの公園です。週4日、午前8時半から10時までに50回は投げます。それをまた50回拾っては大井選手に手渡すのが妻の須恵子さん。66歳です。足に障害があります。4年後の出場なるかは、須恵子さんのゴーサイン待ちなようです。それにしてもすごいひとたちです。
 大井選手のふるさと、岩手県洋野町に一度ぜひともおでってくなんせ。
 

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酪農の未来は?

 いつものことだが、台所で後片付けをしていたところ、「北海道標茶・・・酪農家・・・」というテレビからの音声に、これは見なければと慌ててテレビの前に座った。
 「物価高騰 地域はどうのりきるか」
酪農に関して、現在の物価高という側面から切りとっていたが、酪農赤字の根は深い。この番組からは見えてこなくて当たり前なのだが。
 番組では、標茶で牛1200頭飼っている酪農家が、上半期で1400万円の赤字を出したということだった。餌である輸入トウモロコシの高騰で、この費用が32㌫増えて、コストの半分を占めているという。トラクターの燃料は45㌫増。これに対し乳価をキロあたり5円上げても、カバーしきれず、上半期で1400万の赤字とこういうわけでした。
 この対応としてエサを自前で調達する、人件費を削減する、この農家では5人体制を4人に減らすなどを考えているようです。
 酪農は早朝からの重労働であり、人手を減らすことがもたらす過重労働となれば生活そのものが破壊されかねません。ここはテレビではやらないところです。またいまになって飼料を自給生産に切り替えたぐらいでは、労働量を重くするだけで、さしたるというよりは、全く解決に繋がらないのです。
 何故か。
 この大規模酪農は、初めに何十億、ところによっては確かめずに言うのも何ですが100億突破もあるのでは、ともかく巨額の土地開発費、施設費、大型機械導入費を投下して新発したもので、よしこの事業が国のプロジェクト下にあり、国が8割負担したとしても、最低でも億に近い、または億単位の借金から出発しているのが大方です。この借金には当然利子がつきます。北上山系のある酪農家では、軌道に乗る前に機械が故障し修理費の支払いが厳しいために、機械の使用を断念しました。300 万の修理費が必要であり、よしそれを支払ったとしても、また故障する可能性があったからです。2200万の施設機械が粗大ゴミならず巨大ゴミと化した例があります。また機械の故障、破損に伴う修理費も大きなものですし、機械一つを買い換え或いは新規に整えるにも7、800万かかってしまうケースがあるなど、全国的に言えば、枚挙にいとまがないかもしれません。さっき酪農機械の値段を検索しましたが、調べ方が悪いのか、見つけることができませんでした。干し草を積みロールにしラッピングするベーラー、飼料製造機、飼料給餌機、糞尿処理のバーンクリーナー、バルククーラーミルカー等々これらすべてに事あるごとに燃料費ばかりではなく修理費、維持費が要るのです。加えて生産調整などのダブルパンチ。
 何れ借金は嵩む一方で減ることはないのです。いまだに当初1億借金して30年稼ぎに稼ぎまだ1億近い借金が残っている例もあるはず。やればやるほど赤字を産むだけ。これが一般の酪農の実体です。中には高い飼料の代わりにビールの絞りかすなどを上手く使って成功した例もありますが、ほんの一握りの酪農家です。
 こういう実体は農水省は百も承知で、おそらくは何年度には酪農家の何割が潰れるなどと冷静にはじきだしている事でしょう。焼け石に水の手当、岩手でいえば、公団から農協への借金の借り換え、或いは、酪農家が決起し県庁に陳情したとき、北上山系開発入植者には10年間、償還金の利子補給を実施するなどの手当がありましたが、平成7年からのこの施策も17年で打ち切り。さんざん酪農家が急迫してから酪農家での農産物加工が許可となりました。これは牛肉オレンジなどの輸入が自由化されてからの事です。肉牛の出荷は酪農家の現金収入となっているのです。肉牛の輸入で国内の価格が下落します。

 乳牛を中心とする酪農家には、これから一生重労働しつづけても払いきれない借金が残っています。多くの酪農家の問題の根は大規模化のその始まりにあり、燃料、資材、飼料の高騰は、その急迫に拍車をかける要因となっている、そんなふうに思います。虚無感をぬぐえません。

 いま酪農を書くとしたら、いったい何が書けるのか、一旦打ち込み作業をしてみたものの分からなくなり、力が抜けました。一握りの成功者を讃え酪農も悪くはないとアッピールしたらよいのか、それともいまを闘っている酪農家の最期の輝きを目一杯書いたらよいのか分からなくなったのです。
 農業を守ろうという気が無い国の農業です。体よく放置されているわけです。ただ企業からの買い付けなどがある限りは膨らんでゆく借財をどこまでも背負ったままで経営は続けられるのかもしれません。

 この創設当初に、土地開発、酪農機械によっていったいどこが一番巨額の利益を上げたかをさぐれば、またさらに問題が明確になるはずです。公団、ゼネコンとなるのですが、力不足のため、これ以上は分け入ってはいません。それを突き止めたとしても、いまの困難を突き崩すに足る爆発的な推進力になるとは思われません。


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おじいちゃんのちょっとした話ー柴内魁三の失明ー

 柴内魁三といえば、明治44年岩手盲唖学校を設立した人だ。日露戦争のとき黒溝台で両眼失明と「いわて365人 人物ごよみ」にある。わたしはてっきり銃の弾が両眼を直撃したと思っていた。ところがおじいちゃんが聞いてきたのはこうだった。
「いやや、きょう柴内魁三の息子の嫁だず人が
(ディサービスに)来たったんだよ。息子とは盛中(盛岡中学校)で一緒だったが。いっつも眼見えなぐなった魁三さんさ歩ぐとき肩を貸してだもんだった。あの人ぁ眼見えなぐなったのぁ、小銃の弾が、しゅーっと眼の真ん前を飛び抜けでいったんだど(言いながらおじいちゃんは、眼の1㌢上をしゅーっと右から左に人差し指を通過させた)。それがら見えなぐなったんだど」
 撃ち抜かれたとか擦ったのではなかったのだ。もっとも撃ち抜かれたら生還できなかったろう。
 わたしは弾が当たったという自分の思いこみを訂正した。

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荒野が果樹園となる

しかしついには
 上から霊が私たちに注がれ、
 荒野が果樹園となり、
 果樹園が森と見なされるようになる

         聖書イザヤ書32章15節

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続 太田カルテットの結成年代について

 8月25日のブログに太田カルテットの結成年代について書きましたが、創立が大正4年であるにも関わらず、なぜ6年と思われているかについて、今ひとつ推測しました。
 大正4年に結成を見たアマチュアの弦楽四重奏団太田カルテットの活動に恐らくは多くの刺激を受けた音楽教師たちが、教師らを中心とする音楽団体盛岡音楽普及会を大正6年に結成しました。プログラムによれば、翌7年には、盛岡音楽普及会第一回演奏会が持たれています。この直後に、太田カルテットのメンバーは、太田カルテットの活動は活動としながら、盛岡音楽普及会にも入会しています。以降どちらの活動もこなしてゆきます。そこで、太田カルテットと盛岡音楽普及会を、後々に証言された方は、記憶の中で混同され、太田カルテットの創立年代をも普及会の創立年代と取り違えられたとも考えられます。

尚、太田カルテットの資料に関しては、9割までが赤沢資料からであり、これは、ほぼ20年前に地理に不案内な私に主人が同行し借り受け、自宅に持ち帰り、ダンボール一個分の資料を、何日もかけてコピーしたものを今に至るまで使わせて頂いています。あとは事実関係を把握するために、県立図書館がまだ城跡のところにあった時代に、自らが図書館に出かけてマイクロを取ったものです。その他についてはご質問に応じます。


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天国にある「いのちの木」

 今朝方、「いのちの木」のことを考えていました。しているうちに、単なるつくりばなしではないという気がしたのです。
 ポテトとトマトから作ったポマトを一例として、接ぎ木、交配、細胞融合によって様々な雑種が作られました。今後これに優る画期的な方法が開発されないとも限りません。
 食糧危機に備えて、毎月12種類の実がなる木を作ったならどれほどに助かるか。緻密な学問、研究の難しさを知らないというのは全く都合のよいもの。どんなに突飛なことでも言ってしまえる。壊れちゃったんじゃないの、トロい(トロイの遺跡のことかな?)、いい加減だ(良いかげんってことはちょうどいい?)、と言われても、「いのちの木」はほんとうにあるとしか思えません。おばかちゃんです。おばかちゃんだからこんなことを考えます。
 いのちの木はある。すでにある。だからいのちの木はできる。こういう“理屈です。取りあえずは、3種類の実のなる融合品種が待たれます。

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パラリンピックー競泳 鈴木孝幸 金!ー

 カーテンを開け放った窓の向こうは雨。朝から降っている。明け方4時半ごろには怒っていた雨足も午近いいまは控えめに。午後には晴れるのかな。黄色い傘をさした人がコンビニ方向に消えた。
 雨でもうすこしやりたい剪定作業は中止。晴耕雨読ならず、晴耕雨テレ、晴耕雨パソと珍妙な熟語を並べてそんなひぐらしとなっている。

 パラリンピックでもなかなかにパワフルな中国勢。スポーツの話に軍事の持ち込みで興ざめかもしれないが、先日某新聞で中国の兵力が載っていたが、戦闘機保有数2400。露2200、日本260。日韓には米の駐留数もあるが、とにかく圧倒的。性能の程度はともかく脅威だ。

 だけどいまはそんなことよりも、これ!
 パラリンピック6日目の11日 鈴木孝幸、競泳男子平泳ぎ50メートル49秒6。金メダルゲット!
 あれ、予選では世界新の48秒49のはずだけど・・・この0、17の差は? 予選ではスタートから後半も力泳できたという。何しろ世界新を出したその日の午後の決勝。決勝の前に眠ろうとしても眠れなかったらしい。
 日本人が日本人を励まさないでどうする? 障害者が障害者を励まさないでどうする? 岩手人が岩手人を・・・・とこうなってくるのですが。多くの障害者、健常者の人たちを励ました鈴木孝幸。テレビ局には感謝・エール・感動の投稿が相次いでいました。もっとも鈴木自身は「自分のためにやっている、他人にどう思われようとの目的は無い」と淡々としている。自分のためにやった事が、他の多くの人を励ます結果となっている。

 ネットに「パラリンピックなんかやめてしまえ」と書き込みを見ました。そのときは、果たしてパラリンピックがあった方がいいのかやめた方がいいのか分かりませんでした。けれどもこの結果から、パラリンピックは在り続けるでしょう。

 バルセロナ競泳のメダリスト岩崎恭子さんが言ってました。
「障害者スポーツの支援は日本では遅れている。練習する施設・環境を整え、互いの姿をよく見せあい理解しあうべき」と。

  ーここで県民共済の普及員のかたが玄関先に見え中断し昼食を終えて戻ってみると13時半になっていました。主婦のブログはたとえ何を書いていようと中途からセールスだ、電話だ、舅が呼んでいる等々、パソの前から引き戻そうとする力に満ち満ちているわけですー

 14時のいま、雨はあがりました。
いまから墓参りに行ってきます。

 追伸:それにしても鈴木孝幸、小学校のときから負けず嫌いだったそう。 勝利のときにも現実をしっかと見据え見抜いているかの哲学的な風貌も印象的でした。

 
 

 


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赤沢長五郎独奏会は何年?

 岩手の大正昭和のヴァイオリンニスト赤沢長五郎がハイドン・カルテットの賛助で独奏会を開いたのは、拙書にも書いてございますが、昭和2年ではなく昭和4年です。これを証するに足る第一の資料として、プログラムがあります。このブログにも書きましたが、当時の帝国劇場に来日した世界的なヴァイオリンニストのプログラムと遜色ない立派なものです。
 きょうは、プログラムの存在を申し上げるだけにしておきます。このことについてはまた後日に書きます。

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庭木の剪定

 きょうは清々しい秋晴れ。午前、午後と庭木の剪定をしました。半日仕事にするつもりだったのですが、次々に気になりだし、とうとう午後までも。高い木は危険なので庭師さんにお願いしますが、丈の低いものは自分で切ります。「シザーハンズ」のような芸術的造形美というわけにはいきませんが、好きな形にできるのでけっこう楽しいのです。

 皐は扁平な球を保ち飛び出し伸びた枝だけを。葡萄のつるは他の木に絡まっている部分を。アオキは繁りすぎた枝をバッサバッサと落とし光がよく通るように。木蓮は両隣のヒバを侵犯しないように枝を縦長の空間に納めました。スモークツリーはつい勢い余って一箇所切り口から木が裂けてしまいました。紅葉は樹上に雲の固まりが幾つか浮かんでいるような雰囲気に。繁りすぎたアジサイは枯れた花をバチバチ落とし髪を梳くように枯枝を除き緑を保った葉だけを残して。薔薇は講習会にいかなければと願いつつ行けないまま、とにかく路上に突き出た分を。ボケは先に数葉だけ残し切りに切ったり。園井恵子の好きだという山吹は今年は根元から刈り取ってしまいました。大丈夫また出てきます。そのほかにも次つぎ切りつづけて午後の4時。褐色に日焼けし汗して働くのは実に爽快でした。

 歪化富士のリンゴが12個なっています。8㌢ぐらいの大きさです。まだ青いです。無袋なので黒い星のえくぼ付きです。実が2個くっついてなっているのもあります。わざと間引きしなかったのですが(木の上でナシを間引きしていた農家のおばさんが実は30センチ間隔で一個付くようにしないとと言っていました)、いまは同じ大きさ。しだいに幾分差がついてくるかもしれません。これから来る台風に果たして何個が頑張って枝に残ってくれるでしょうか。大きく赤くまるまるとしたジューシーなリンゴが幾つ完成するかが楽しみです。

 因みに神がエデンの園の中央に生えさせた木は? 聖書には、「いのちの木」と「善悪の知識の木」と書かれています。「リンゴの木」とは書かれていません。「善悪の知識の木」から取って食べると必ず死ぬと言われたのに、イブはヘビにそそのかされて食べ、アダムにも食べさせたのでした。

 天国にはどんな木があるの? それは、「いのちの木」。これがまた毎月12種類の実がなるらしい。すごい木があるのですね。

 

 


 

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パラリンピック開幕!

 このタイトルを、6日にバッチリ書きたかったのですが、何しろ息子の帰省で、この部屋に一本きりのLANケーブルを譲らざるを得ない事情もあり、いまどきに。

 今回なぜパラリンピックを観たくなったか。
 ベートーヴェンも障害者でした。ドヴォルザークも心を病んだ時期がありました。どちらも障害の最中にこそ代表的な作品を創っているという摩訶不思議な事実があります。作曲とスポーツは違うと言われるかも知れませんが、何かが必ずありそうと。

 6日9時からのパラリンピック開会式やらアトラクションを観て、ああこれぐらいが納得できるなと。近年オリンピックのアトラクションはどこの国もやり過ぎ。これでもかこれでもかと見える。だからこそ見ごたえがあるという方も居られるでしょうが、若干食傷ぎみです。
 入場する選手団の活き活きとした姿、笑顔に接しながら、もしや出場できるのはある程度経済的にも恵まれた方たちなのではないかという気が。そんなわけで今晩またネット上をそちこちうろついているうちに、こんな本音の投稿に出会いました。
 「スポーツは好きだしやりたい。だけどウン十万もする車椅子を買うのは無理。パラリンピックの使い捨てタイヤは一本一万円強。月4回の練習で4×3本=12万円強。競技用車椅子は種目にもよるが約30~50万円位。・・・無理!」
 やっぱりそうか・・・複雑な思いに。中にはスポーツに全部を注ぎ込んでいる方もあるだろうし、そんなに経費をかけなくともできる方と様々だとは思う。
「すべての命に価値・尊厳と夢がある」と掲げられています。投稿した方と同じ思いの方は沢山いるはず。

 斯くして147の国、地域で勝ち抜いてきた選手は約4000人。果たして福祉国家であることが、富裕であることがどれだけメダルに反映されるのか。報道だけからそれを見極めることができるのか。

 大方は恵まれた環境にあると見え、勝ち抜き登場した選手に、障害の方だから大変だろうという見方はいまは希薄です。自分がまだよくわかっていないパラリンピック。この闘いと戦いには必ず何かがあるはず!だから観たい、そんなところです。

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ア・ラ・カ・ル・トー雑感ー

 もう9月4日に。速い! 人に有無をいわせない時という絶対者、このあまりに完璧な走りには、さすがのボルトも敵わないかも。
 それにしても素晴らしかった。北京では100㍍9秒69。200㍍19秒30。世界新はどこまで縮まる? 「君の瞳は一万ボルト」、ボルトのパワーは何万ボルト? 天からの高馬力エンジン搭載だ。2日スイスのローザンヌでは100㍍9秒83、200㍍19秒63だったようだ。マラソンっていいな。絵画や文芸と違って序列に曖昧さ不明分さがない。いつでもはっきり、すっきりだ。
 ボルト、記録は北京に及ばないけれど「まっ、いいや」と、レマン湖でも見て気晴らししたのかな、それともジャマイカにすぐ帰っちゃったかな。

 9月1日は1923(大正12)年関東大震災のあった日だ。折りしも台風の強風で昼時の炎は東京市の大方を燃やし、隅田川には収容しきれない死体が浮かんだ。
 四川は30日にまたマグニチュ-ド6、1。死者32人、負傷467人。80万人以上被災か。それでもオリンピックは華々しかった。世界新も出て。なんというコントラストだ。
 島国も、震度4だ3だと揺れつづけてる。揺れなくともいつも揺さぶられている気分だ。この町内でも近々
防災体験研修がある。震度7の揺れを体験できるとか。地震がたてつづき被害映像多数見たいまは、マジ怖い!

 

911といえば誰でもがあのツインタワー崩落を。米国同時多発テロ。あの後の空爆が果たして正しかったかどうか。中村哲医師のアフガンでの活動記録は・・・旱魃の大地をさまよう人々。武器も食糧もなく、水もない。その上空を米軍機がすべってゆく。爆撃のたびに貧しい人々のもてるほんの僅かなものが破壊され、無抵抗の命が消える。逃げまどうちっちゃなアリを大男の巨大な足が一気に踏みつぶす、そんな図式だ。
 アフガンに水を、用水路を食糧を医療を供給し続けた中村哲医師ら、このほど亡くなられた伊藤和也さんの働きが、大国アメリカよりも大きく強く明るく輝いて見えるのはなぜ?

 

 

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