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2008年8月

梅村保の弦鳴る

 長男本日帰省。
「あれ、このヴァイオリンは?」
棚に置いてあるのに気づいていう。
「梅村保が使ったものなの」
「ちょっと弾いてみようかな」
おそるおそる弦を調弦している。
息子たちが、二度とヴァイオリンを取り出すことはないと思っていた。
弾きだしたところで、弓の馬の毛がばらばらと切れだした。
「これ、張り替えたほうがいいね」
修理が必要だ。ちょっと弾いただけでおしまいになったが、これも息子と楽器の一つの縁には違いない。
 
息子が携帯してきたアイポットから流れるサンサーンスの交響曲第3番の第二楽章の後半部が終わり、今、マーラーの交響曲第3番第6楽章が鳴っている。

 きょうはクリンゲンバウムで、タイムドメインのスピーカーの試聴があると分かっていたが、買わない決心がつかないので行かなかった。ところが、ところが、長男がいうに「明日スピーカー届くからね」。ブラボー!でした。う~ん、こんなときに発するセリフだったかどうか・・・感謝!

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円子正について

 いつもこのブログを読んで下さっている大信田時子さんから、また教えていただいたことがあります。今回は円子正のことです。

 吉田義昭著  盛岡明治大正昭和「事始め百話」 から
円子正という氏名は旧姓で、儀俄正。一般から愛称として円子正と親しまれていました。岩手郡川口村出身。それと記念館の「記」について、新聞、その他の著書にもこの字が用いられていますが、正しくは「紀」です。紀念館の写真の看板には「紀」が用いられています。


 とのことでした。大信田時子さん、ほんとうに有難うございました。今後とも宜しくお願いいたします。 

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公会堂落成行事に太田カルテットは出演していたでしょうか?

 太田カルテットは大正14年に解散したとわたしは考えています。ですから昭和2年の岩手県公会堂落成のこけら落としは、太田カルテットではない、と。
 さらに詳しく調べたかったのですが、これまで棚上げにしてきました。しかしきょう、どうしても気になり、県立図書館に出向きました。9時から11時30分までの間です。図書館が城跡公園隣にあったときのマイクロ機械はお払い箱となったか、みな新しく使いやすくなっておりました。
 昭和2年の岩手日報を5月、6月とゆっくりと画面を流して、見出しを拾ってゆきました。見出しというのはやはり大切だなとつくづく。
 結論から言えば、太田カルテットは出演していないと考えるのが妥当です。
太田カルテットの活字は出てきませんでした。

 県公会堂の落成式は昭和2年6月18日。
県内外から800人の参加。18、19、20日の三日間行事が組まれました。18日は式典、19、20は講演でした。
 この三日間毎夜6時半から活動写真による映画大会がありました。
 昭和2年6月19日の岩手日報に、「記念館(活動写真館) 音楽部出演 今晩から公会堂に」の見出しで以下のような記事が載っていました。(18日筆記の記事を19日に掲載したと思われます)


 記念会では今回海軍軍楽隊出身の優秀なる楽士数名を招聘して充実したオーケストラを組織したのでその披露のため18日から三日間に亘る公会堂映画大会の休憩奏楽に出演することになったが演奏楽は同館主(円子正)作曲の「秋の夜の夢」で同氏がタクトをとるが和洋楽合奏となっている。演奏時間は多分午後8時半となるだろうと。

 
登場は円子正と海軍軍楽隊でした。
わたしはすっかり嬉しくなりました。というのは、たしかに太田カルテットは音楽の啓蒙におおきな役割を果たし当時としては輝かしい音楽会を主催したり文芸でも作家を招いての講演会をひらき、大々的な活躍をしました。ただ太田カルテットには、潤沢な資金を注ぎ込めたという側面もあります。しかし円子正は違います。楽器を買うことから楽団の生活費にいたるまで、どうやって経費を工面したらよいか、それこそ艱難辛苦に耐えて盛岡に音楽の灯をともし続けた人でした。梅村、赤沢の大恩人、盛岡音楽界の大恩人なのです。そういった意味でも円子正の登場は真に摂理に適っているとわたしには思われます。
 しかも円子先生、作曲もなさってたんですね。「秋の夜の夢」。どこかに楽譜は残ってないものでしょうか。そうとわかれば、太田カルテットが残した、積めば15センチにもなる手書きの楽譜から探し出してみたくなります。

 それから、公会堂のこけら落としに相応しいといえる演奏会はやはり、そのあとに続く6月25~27日の県公会堂の祝賀行事の中の
25日「郷土出身者音楽大演奏会」のほかには無いと思われます。18~20日、25~27日の行事の中で、きちんとした音楽会と位置づけられているのはこのステージだけです。出演は照井栄三、瀬川良隆、榊原直、竹岡鶴代、赤沢長五郎の5氏でした。

宮沢賢治の祝電については、賢治の側からのいますこしの考察が必要かと思います。



 

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安藤秀世の讃美

 サウスベイ・ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップで奉仕する安藤秀世牧師の賛美歌CDがある。市販しているかどうかは分からない。聴いていると、「ここに生きなさい、このわたしが歌う世界に居なさい」と、とつとつと語りかけてくる。やはり賛美歌は魂の歌だと思う。

  安藤秀世セカンドアルバム
    「主が共に行く」

YOU'LL  NEVER  WALK  ALONE

ロサンゼルスの南、トーレンスに位置する教会らしい。
いつか行ってみたい。

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上海ヒルズ

 上海に高さ492メートル、101階建ての森ビル「上海ヒルズ」が完成し、この28日に公開されたらしい。「上海環球金融中心」というもの凄い名前がついている。世界一の高さだ。これがニューヨークとかEUのどこかに建ったのなら、へー、そう、ぐらいだったんでしょうけれど。

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日本の良心、NGOの伊藤和也さん

 今回の伊藤和也さんの訃報に接し、ご両親の深い悲しみは如何ばかりかと察せられます。日本の良心、日本の善意の代表であった伊藤和也さんの存在の理不尽な死。悪業の果ての死ではなく、危険を承知で命をかけた正真正銘のボランティアの最中の災難でした。
 ここ5年、アフガンはとみに治安が悪化していたようです。しかし2007年11月、日本のNGOは、ISAF(国際治安支援部隊)への自衛隊派遣に反対する要望書を政府に出しています。「日本のNGOはまだ危害を受けてはいない。日本の支援が獲得したアフガンでの信頼、評価を踏まえ軍事支援ではなく復興支援を中心としたアプローチを今後も追求していく」「包括的和平のイニシアチブは日本だからこそ取れる」というものでした。
 26日の記者会見で、福元満治(60)NGO事務局長は言いました。「ここで挫折してはだめだ。非難の声は甘んじて受けますが、これでやめると日本人は駄目になる」。これもまた既にアフガンに骨を埋めている人の言葉と思われます。
 そして27日、遺体は伊藤和也さんと確認されました。いまのこの日本にこういう真剣な無私の方々がいらした事が驚きです。
 続く言葉が出てきません。言葉が虚しく感じられるのはこんなときです。

 

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アフガンからの悲報

「職員が伊藤さんと確認」時事通信27日19時31分。

なぜブログにこれを?
 ゴーヤを頂いたT子さんへのお礼メールの返信に、「この間お話した中村哲医師のペシャワール会のメンバー伊藤さんが大変なことになっていますね」とありました。
 聞けば、中村哲さんは平泉、岩手県民会館に講演にきているそうです。その時にT子さんが買ったDVDを近々1巻から8巻まで借りることになっていました。おそらくは伊藤さんもその中に映っている筈です。それがこの訃報。T子さんは言いました。「戦争、空爆、ゲリラという怖ろしいことが日常化している危険地帯で20年も活動を続けているのですから事故が無かったのが不思議です」
 伊藤さんは31歳。
ご冥福をお祈りいたします。
 
 

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心癒す景色

  ドヴォルザークの「新世界」第一楽章が終わるところです。
今日は29度の予報。
農家の方々がーいまあの「家路」が鳴っています。なんという心あたたまる穏やかな広がりを感じさせる旋律でしょう。憩いながら書いていますー低温で困っているらしい。
 ドヴォルザークがなぜ重い神経症を癒されたか、書こうと思いつつあれこれ他のことをしているうちに、図書館から借りたドヴォルザークの本が、いつ開かれるかいつ開かれるかと待ったにも拘わらず、それオリンピックだ7番だとうつつを抜かす輩にほとほと嫌気がさし、しびれをきらして、ぷんぷん言いながら図書館に帰ってしまったようなのです。そんなわけで、簡単に書くことしかできませんが。
 一言でいえば、アメリカ在住中に接したチェコの故郷に似た景色に癒された、とこういう訳です。
 心癒す景色。ーそう、今日のタイトルはこれにしようーこれは生きていく上で、心身をリフレッシュさせるのに不可欠だと感じています。わたしの居住区にはたしかに木も草も花もあります。けれども隆々とした野性、広大な広がりの樹林はありません。たまに息苦しくなります。私が育った滝沢は岩手山の麓、冬は吹きっさらしの雪が舞い、広々とした畑には野原には、美しい稜線が描かれ、緑の季節はカッコーの声で目覚め、秋は野山を歩き回り木の実を食べ歩きもしたのです。現在の居住区でも、幸い10キロも駆ければ郊外に出ることができます。50㏄バイクはそれほど燃料もかからないので、つい頼りがちです。どんと座っている岩手山、稜線すらりと姫神山、連なる北上山系、奥羽山脈を一望し、道のアップダウン、両脇に頭上のテラスと連なる樹木を潜りながら駆ける爽快さは、くすぶる頭脳や、葛藤に曇る意識を洗い、すっきりと爽やかにしてくれます。わたしの場合、それほどに高度な文化を享受してはいませんが、人がいかに文明の中に生かされるものであり、もはやその中にしか生きられなくなっているとしても、尚自然の一部であり、自然の中の一個体である事からは抜けられないということなのでしょう。
 確かに確かに自然は景色は風景は自分を生かし活力を与えてくれます。故郷に似た景色に癒されたドヴォルザーク。わたしにはとてもよく分かるのです。わたしも癒しを求めて郊外に出たことしばしばです。ただこの歳になっての度々の遠出は、もう老人性徘徊が始まったかと周りを心配させることにもなりかねませんので、こうして好天の今日も、「新世界」に壮大なスケールの自然を創造しながら、出かけたい自分に折り合いをつけ、机上で過ごしているわけです。
 いま第四楽章が終わりました。

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晴れ間

 今朝は久しぶりに青空が。ゴミを出して戻ると、テレビでベートーヴェンのピアノソナタ「月光」の解説をしていました。わたしが子どもの頃、ラジオから流れてきた最初の三つの音にはっとして引き入れられた曲です。1801年、30歳の作曲。彼は1802年にハイリゲンシュタットの遺書を書いていますから、その直前の作品です。演奏は仲道郁代さんでした。もしかして仲道さん、この番組収録の時あまり弾く気分じゃなかったのかな、とも思いました。しかしプロという方々はすごいなと思います。たとえ会場が空席だらけでも、或いは観客席の真ん前に自分の苦手な人物が座っていたとしても、風邪をひいていようと多少熱があろうと、お腹の調子が悪かろうと、一旦ステージとなれば、よくよくのことがない限りは弾き、歌い、演じ、振るのです。楽器や声や体の調子を整えて臨むのです。そんなわけで仲道さんの演奏にも感心しました。解説付、深遠な曲も楽しく聴きました。ソドミの三連符とかナポリの和音の微妙な音のマジックやらの解説に、曲をよりよく理解するにはやはりスコアが必要と思うも、いやいやこの程度の身ではここまでかなと。1800~1820年における作曲家たちの作曲の傾向からすると、非常に革新的、前衛的な作品なそうです。
 彼を自殺から引き留めたのは芸術でした。「自分の持てるものをすべて出し切ってしまうまでは、この世を去ることはできない」と。

 軒下に置いた椅子で、つやつやと光る月下美人の葉やアガバンサスの緑をながめ、青空をながめながらコーヒーを飲みました。秋間近の日差しと言うにはかっと照りつけ熱くぎらつく光。すぐに掃除にかかり午後は草取りでした。甘く熟した葡萄にスズメバチが羽音を唸らせながら旋回する下を潜りぬけて裏庭の小さなねぎ畑の草を除きました。ナメクジが二匹草の根元にうずくまっていました。

 近所の方から立派なゴーヤを頂きました。これぞゴーヤの中のゴーヤ、畑の芸術品。絵にでも描きたくなるようなでこぼこの紡錘形、美しい緑の光沢。食べるのがもったいないくらいです。有り難いことです。

 
 

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岩手の大正の太田カルテットの結成年代

 太田カルテットの結成年代を、わたしも最初は大正6年だと思っていました。それは、音楽教育の最晩年にそう証言した方がいたからです。しかし大正10年7月10日の岩手日報を見ますと、

「クワルテット創立以来六星霜」
佐々木氏のヴァイオリン
館沢氏のヴァイオリン
赤沢氏のビオラ
梅村氏のセロ
太田ストリングクワルテットは太田四重合奏団とも称すべきものにして大正四年の創立に係り団員総て岩手郡太田村出身関係者にして研究所を太田村梅村氏宅に置けり由来農村の新興は農民の知識的民謡研究会を創立し梅村氏宅に音楽研究室を○築し民謡の研究を開始せり・・・・


このように記事が書かれています。
ある方がなぜ6年と証言したかを考えてみました。
主なメンバーが教員たちで結成された盛岡音楽普及会の結成が大正6年なのです。この時と記憶違いされていた可能性があると思われます。
敢て申しますのは、今後太田カルテットの創立100周年のイベントを企画したい方がいらっしゃる場合、将来にわたって史実が二年ずつずれてしまうことになります。これはやはり重大なことなので、ここで再度申し上げたく思いました。確認の方法としては、県立図書館、上田公民館図書館に岩手日報のマイクロがございますので、いつでもご覧になることができます。

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弱さにこそ満ちる力

 今朝5時に目覚めて、昨日ブログに書いた大籠のキリシタンのことをつらつらと想いました。なぜ素朴な農民たちが信仰を持つことにより諄々と“刑場”に向かってゆく事ができたのか。そのとき、ぼーっとした頭に、聖書の言葉が幾つか浮かんだのです。その中の一つ、

「わたし(主なる神)の力は、弱さのうちに完全に現れる」第二コリント12:9

 ということは、強い者、強がっているもの、或いは自分が何者かであるという錯覚に自負を抱くもの、自分の力のみが力だと思うものには、神の力は現れない、現れにくい、現わしたくない、部分的にしか現わさない、とこういうことなのだろうと。それですこしは分かった気がしました。それでも頭はまだぼーっとしていましたが。

 パウロは
「わたしが弱いときにこそ、わたしは強い」第二コリント12:10
と言っています。これはパウロが実際に自分がいかに無力かを思い知らされる事態に幾度も遭遇し、そして自分の非力を認めたときに、実際に神から進み行く力を賦与され進み行くことができたという体験のみが言わしめた言葉ではないでしょうか。

 これで解き明かしたとは思いませんが、大籠のキリシタンが刑場に進み行くときに、人々の内に人々の力そのものとなって人々の五体を動かしていたのは、やはり天地宇宙をつかさどる壮大なエネルギー、即ち神の力だと考えて良いと思われました。これを信じるか信じないかが分かれ道であるのかもしれません。

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中国

  スポーツの祭典を政治経済がらみで濁すのもどうかとは思うが、今回の中国のパワー全開のメダル数をじっと見ているうちに、東アジアのトップはこの中国であると突きつけられたような気分になった。東アジア共同体構想に、ニュージーランドや豪州、インドを引っ張って連合し中国の権力ランクを押さえ込もうとしても、結局やがては中国主導に従わざるを得なくなるのではないか、そんな気がした。ただ、これも単なる空想で言っている。中国の実質的な力がどの程度であるのか分かってはいない。他の東アジアの国々に関してもそうだ。いま日米安保がどの程度の機能を果たしているのかもよくは知らない。
 ただ、中国とは凄い国だぞ、そんな印象を持った。

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北京五輪に幕

 24日で北京五輪も終わった。
スポーツの祭典に乗じ、国の威力、文化までをばっちりと全世界の脳裡に焼き付けた。
 星野監督は、「強いからメダルを取るのではなく、メダルを取って強くなる」と。

米     金36  銀38  銅36   計110
中国     51   21    28    100
ロシア    23   21    28     72
英      19   13    15     47

日本     9    6    10     25(11位)

 メダルの数はもう誰もが知っている、書いてもしかたがない、ということですが。やっぱり書いてしまいました。
 メダルのことよりも、今回自分を振り返って、あれっ、と思ったのは、こと中国、韓国との対戦となると、「負けるな、負けてなるか!」と心の底で思ったことでした。米、英、露が表彰台にあがってもそうかと何処かが納得している。それが同じアジア、とくに中国、韓国には負けられない、というこの意識はいったい何だろう。
 これがもし1対1の人間関係で、どちらかがこういった感情を持ったとしたら、もう上辺だけの義理の付き合いしか出来なくなるだろう。双方を理解し強調して歩むことが困難となる。これまでお会いした中国、韓国の方に嫌いな人はなかった。付き合うことに違和感を持ったこともない。ところがこともあろうに、この五輪で競技となったときに、どこかに負けたくないという感情がある。日本に勝って欲しいというよりも、この国には負けられないという良からぬ感情だ。これは何だろう。日本に留学してきている中国の青年たちは、やはり他の国ならともかく日本には負けるな、という意識でスポーツ観戦するという。根深いものを感じる。
 「東アジア経済共同体」或いは「東アジア共同体」への流れがどうなっているのか考えたことも無かったし自分が考える事項ではないと思っていた。身の丈に過ぎる物言いは滑稽でもある。
 ただ米の顔色を抜きに2020年に向けてのアジア経済の強調体制を取るべきとのお説がある中で、根本的な部分はそれに相応しくなっているだろうかという疑問を持った。

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立ち向かう勇気はどこから?

 ドイツ国立歌劇場の専任の件をめぐって、フルトヴェングラーがこれを拒否し、ゲーリンクを怒らせた。この時点で、フルトヴェングラーがゲーリングに逆らったのは、まだナチの怖さをよく分かっていなかったからだという。
 すこし話は飛躍するけれども、
 私は弱虫だ。私の中に確固たる正義はない、とわたしはこのブログに書いています。
 成田闘争に身を投じた息子を持つある母親は、「この正義感は血筋だ。夫もそうだった」と言ったのを思い出します。血筋、そういうこともあるかもしれない。思想を血肉となるまで徹底させた結果ということもあるだろう。指揮官としての使命感、或いは家族友人知人愛するものの為もあるかもしれない。様々にある中で、身の危険、脅威に諄々と立ち向かっていく姿としてもっとも不思議を覚えるのは、この岩手でいうなら大籠で殉教した309人のキリシタンたちです。素朴な農民であった人々がどうしてこれほど強靱な意志を貫くことができたのか。
 歯医者でちょっと神経に医療器具が当たっただけでも内心悲鳴をあげ、刺さった棘もとにかく気になって仕方がない。鎮痛剤を常備し、蚊がいそうなところに行くまえには虫除けを吹き付ける。これがほぼ自分の実体です。
 あの309人が、なぜ苦痛恐怖を眼のまえにしながら身を捨てることができたのか、不思議中の不思議です。
 
 

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しつこく7番

2007年の金聖響指揮のベートーヴェン交響曲7番。日本の某オーケストラ。
奥行きが若干浅いという感じが。
これは楽器編成が幾分脆弱であることも一因かと。
耳に自信があるわけではない。
きょうこれを聴いた気分にも左右されているかもしれない。
しかし元気を貰った。
 外は雨。机上気温21度。湿度58㌫。昨日も寒かった。
音楽は心持ちを世界を変えてくれる。
夕闇が落ちてゆく風景。松もずぶ濡れ。
しかし4楽章ともなれば、その輪郭にも光芒が。
管の響き。
闇をきざむ弦の響き。
総勢がこのあるがままを肯定し
確かなうなずきが地を圧し
ホルンが呼び交わし
おのおのを讃え
賛同を繰り返す
またも打楽器の促しに高らかに応える管。
確信は闇夜を真昼に変えて

立ち上がり
一歩踏みだす




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プチ川柳

 

逆さまの 脚線の華 泳ぎ切る    ぶんな 
                   (五輪シンクロ)

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またもや地震

 きょうは朝からよく晴れてくれた。ずっと放っておいた庭に出て見ると、草が咲き終えた花々を駆逐せんばかりの勢い。音楽三昧もこうなると罪悪のうちと思われてきた。さっそく目深に帽子を被り、手袋をつけて鎌を片手に草むしりとなった。午前3時間、午後2時間かけて、何とか一角をきれいにした。
 株分けをして貰ったアガバンサスは健在。枯死寸前だった月下美人はあわや命を取り留めて、清々しい芽や葉っぱを順調に伸ばしている。こうしてみるとけっこう強い植物だ。守り育ててまた頂いた先に株分け出来る可能性も。
 ベルケアが増えた。来年は期待できそう。葉っぱが鋭い棘に守られている。枯れてもなかなか型くずれしない。繁茂する草の中でジャスミンがいつの間にか伸び悩んでいた。鉢に移した方がいいのかもしれない。
 草の元気さには驚く。しっかりしたものだ。生え具合、はびこり具合、増え具合にあやかりたい。今朝はビッと葉先をのばし、庭で一番輝いていた。
spade

 7時59分、関東地方で地震。福島などで震度4。そちこちに軋みが。
 「こんなのないかな」と思っていると、もう発明され売り出されている昨今。激震でもエネルギーを吸収し、揺れにも柔軟な且つ堅固な建材はないかしらん。 地震保険への加入が増えているらしい。地震保険とは別に地震費用保険というものもあるらしい。
club

 

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焼失のストラッドは幻?

  8月22日のブログに帝国ホテル火災でストラディバリウスを焼失したと書きました。これを小咄としたのは、赤沢自筆によるヴァイオリン履歴に書かれてある数行があるだけで、その他の文献や資料があるわけではありません。お断りしておきます。
 「ギリシャ人ミレアレスが原敬の甥(原彬)がヴァイオリンをよくすると聴き、2挺のヴァイオリンを持ち込んだが、そのうちの1挺はストラディバリウスだったが、帝国ホテル火災で焼失、残りの1挺を原彬が買い込んだ」とあります。

 これがヴァイオリンを売るためにでっちあげた話だとしたら、さてどこで、誰がどの段階ででっちあげたかなと推理するのも面白いわけです。pen

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事故、ハイジャック・・・不安要素蔓延

 怪我で入院中の友達から電話があった。「航空機事故あったよね」。彼女もわたしの拙いブログを読んでくれている篤志家の一人だ。
 「見なかったけど」と、ほとんどパソのニュースで済ませているわたしが言う。後で開けてみると、20日だったらしい。153人死亡、19人怪我。エンジントラブルかとあった。
 記憶がかなりおぼろだが、柳田邦夫の著書には、濃霧の飛行場での航空機の正面衝突事故の例も載っていたと思った。いったいどうすれば正面衝突に? と思うが、ほんとうに起こりえないケースは無いということなのかもしれない。
 ソマリア沖では船の乗っ取りが横行しているらしい。21日には日本のタンカーだった。
 度々の地震。微震にはいま尚見舞われている。ここのところの雨の降り方といい何か尋常ではない感じが。今朝はそんな思いもあって宗教曲をかけたのだった。不安要素に満ち満ちている。そんな中で北京五輪が日々明るい情報や無念の涙で、視聴者の関心を向けさせている。明るい話題は作らなければ出て来ないものなのか。
 せめて明るい笑顔でいたいとは思うのだが。

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梅村保のヴァイオリン

 8月の14日、縁あってわたしのもとにやってきたヴァイオリンを弾いてみました。「きらきら星」です。その昔梅村功二先生に教えていただいた曲です。腕が悪いために音を出し切れないのが残念です。
 このヴァイオリンの製作者は? と f 字から中を覗いてみました。すると


      
MANUFACTURED BY
     
 MASAKITI.SUZUKI.
      
NAGOYA.NIPPON. NO.10

と銘がありました。

では、鈴木政吉とは?
(以下はホームページ「鈴木政吉物語」からの抜き書きです)

安政6(1859)年名古屋生まれ。父は尾張藩士。極貧のため内職にしていた琴、三味線作りを本業とする。明治20年初頭愛知県師範学校音楽教師恒川鐐之助に入門。同門の甘利鉄吉から見せられたヴァイオリンを模倣し初作を製作。明治24年工場生産。明治26年北米コロンブス世界博の賞牌。

明治30年代バイオリン頭部の自動削り機(渦取機)の考案、完成。その2年後甲削機(表板と裏板に丸みを持たせる加工)を発明。
近代式工場の完成。
パリ万国博銅賞。

大正3(1914)年欧州大戦のとき、ヴァイオリン市場を独占するドイツが生産を絶たれたため、注文が殺到。

大正6年従業員1000名、毎日500本のヴァイオリン、1000本以上の弓を生産。輸出のみで年間10万本のヴァイオリン、50万本の弓を生産。その他マンドリン、ギターなど多種弦楽器を生産。

大正10年から同末年にかけエルマン、クライスラー、ハイフェッツ、ジンバリスト、モギレフスキー等、世界一流のバイオリンニストが来日したとき、名古屋における彼らの演奏会を主催したのも鈴木政吉であり、彼らの名器を調整、修理したのもこの鈴木政吉である。

梅村保の所有だったこの一挺が、このような人物の手によって作られたものであるのも嬉しいのですが、明治30年頃に工作機械まで開発し、工場生産をなし、何と海外にまで輸出。また鈴木政吉が、あの錚々たるヴァイオリンニストたちの楽器の調整、修理をしていたとは、ほんとうに驚きでした。

 

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テ・デウム

 いま聴き終えたブルックナーの「テ・デウム」。当分カラヤンを聴くのは措くつもりだったが、テ・デウムはカラヤン指揮のものしかない。ウィーン・フィルだ。懊悩する神への問いかけは感じられず、神への全幅的信頼に満ちている。ブルックナーも書き直しの多い作曲家だったらしい。それを知ってから聴いたせいか、ここは書き直せそうだななどととんでもない事が頭を過ぎった。
 カラヤンはずっと眼を閉じて指揮していたが、落とした指揮棒を拾おうとして指揮台から落ち、そのときに軽い脳梗塞に。以後眼を開いて指揮したらしい。そんな病後も感じられるのだが、果たしてこの演奏がそののちであったかどうか、年代を調べるのはすこし億劫である。
 6時40分から、満ち満ちる神への信頼を分けて貰った朝となった。
 きょうの一日に平安と祝福を願いつつ歩み出すこととしたい。

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新しい一日を前に

  パソがCDを取り込んでいるあいだ、ブログ書きをすることに。

おはようございます。
きょうも新しい一日が加えられました。
目が覚めて
先ず
天地宇宙をつかさどる
壮大なエネルギーの総体にぬかずき
きょうの一日が
有意義であるようにと願いました
自分の感情や力が
いかに当てにならず
的外れになりがちかを知るいまは
偉大な支配に
この小さな生命体をゆだねることこそ
もっとも十分に生きられる方法です
どうかきょうの一日が
静かで
穏やかで
ささやかで
慎ましいものとなるように
雨が降ってはいますが
なにか明るいのです
すこしばかり開け放した窓から
ときおり吹き込んでくる風は
もう秋です

食事のしたくは6時前には済み、我が家のただ一人の20代の勤労者は食事を済ませ、6時40分に家を出ました。働く場を与えられています。これがどれほどに有り難いことかを思います。この新しい一日が祝されますように。






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ゲッペルスとゲーリング

 カラヤンが従わざるを得なかった、また頼みともしたドイツ国立歌劇場担当だったゲーリングとは?

ヘルマン・W・ゲーリング(1893~1946)
渾名 撃墜王
生誕 バイエルン州
所属 ドイツ帝国空軍
最終階級 国家元帥
クルップ、メッサーシュミットなどの大企業からの献金蒐集に手腕。
1930年ヒトラーの正式な相談役となる
左翼勢力弾圧のきっかけ作りに成功
強制収容所設立に指導的役割
ゲシュタポ創設
空軍司令官
巨大財閥の総帥
美術品蒐集に没頭
貴族趣味、華美、麻薬中毒、生活は退廃、享楽的
女関係は、夫人以外には無かった
終戦時モルヒネの中毒症状のまま米軍に逮捕される
ニュールンベルグ裁判により絞首刑確定
青酸カリカプセルで服毒自殺
遺灰はイザール川支流に撒かれる。


フルトヴェングラーが従わざるを得なかった、また頼みともしたベルリン・フィルの担当だったゲッベルスとは?

ヨゼフ・ゲッペルス(1897から1945)
ナチの国民啓蒙・宣伝省大臣
メンヒャングラードバッハの事務員の家庭に生まれる
両親は貧しい敬虔なクリスチャン
足が不自由なため兵役不的確
1921年ハイデルベルク大学で文学博士号
感情を煽る方法で言論を扇動、操作
退廃芸術展開催
芸術文化領域からユダヤ人追放
国家がメディア、芸術全体を支配
女優等との奔放な女性関係を持つ
大戦勃発とともに情報戦展開
スポルトバラストでの総力戦布告演説は有名
1944年総力戦全国指導者に任命
1945年
   ヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚立会人
      となる
   ヒトラーとエヴァブラウンの死を見届ける
 4/30  ヒトラー遺言により首相就任
 5/1  娘5人、息子1人に青酸カリを服毒させ
         殺す
    マグダ夫人とともに青酸カリ自殺
 

以上ウィキペディアからでした。      

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北京の風・帝国ホテル火災

 めっきり涼しくなりました。机上の温度は23度、湿度54㌫。夏は行っちゃいました。情けなくも30度で参っていた夏。降ってきそうな空もようでもあります。
 
 
北京五輪は日本金8、銀5、銅7。

中国はすごい! 
 
中国金35、銀13、銅13
 米   金19、銀21、銅25

日本だって同じぐらいすごい!!もう全力を尽くしているんだもの。

 この強い中国が海を隔てた直ぐそこにいて、がんがんと日本に差し向け輸出を伸ばしているかと思うとちょっとどころかすっごく・・・五輪とは関係ないかな。みんな国の威信をかけて頑張ってる。
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 帝国ホテルで17日午後8時半頃本館で出火。530人避難したらしい。
帝国ホテルは1890(明治23)年落成。1919年(大正8年)失火、全焼。

 岩手の赤沢長五郎に伝わっている小咄としては、ギリシア人ミレアレスが日本に二挺のヴァイオリンを持ち込んだが、このうちの一挺がストラディバリウスであった。ところがこの帝国ホテル火災で消失。残った一挺を、原彬が買い取り、さらに赤沢に売却したという。赤沢は晩年、これを吉田隆安さんに売却した。
 1923年(大正12)年フランク・ロイドライト設計の帝国ホテルが完成。折しも落成の披露宴を準備中だった9月1日、関東大震災が直撃。死者行方不明負傷者20万人以上、避難190万人、住宅全壊12、8万、半壊12、6万、焼失44、7万。こんな中で帝国ホテルはほとんど無傷だった。ロイドライトは大喜びしたらしい。
1945年大空襲で焼夷弾を浴び、床の4割に被害。ロイドライトの新館は1967年閉鎖。1970年(昭和45)日本万国博覧会に合わせて新オープンとなった。今回の火災はそれ以降初の災難となった。
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フルトヴェングラーとカラヤン、反目の端緒は?

 フルトヴェングラーがカラヤンを忌み嫌うようになった理由は何かな? 
ベルント・W・ヴェスリンク著「フルトヴェングラー 足跡ー不滅の巨匠」から要約すれば。
 ゲーリングがフルトヴェングラーを国立歌劇場にという人事をめぐって、フルトヴェングラーはゲーリングの言うなりにはならなかった。ゲーリングは激昂し、この憎らしい指揮者に競争相手を立てて窮地に陥れようと画策。そこで白羽の矢が立ったのが、立て続けに二度もナチに入党し国家主義路線まっしぐらに歩むまだ30歳にもならぬ若者であるカラヤンだった。フルトヴェングラーがロンドンで《指輪》のリハーサル中に、カラヤンがベルリンの舞台に登場。大成功をおさめる。ロンドンから帰ったフルトヴェングラーは、ドイッチェ・アルゲマイネ・ツァイトウング紙のカラヤン絶賛記事をも知ることとなる。「・・・若き音楽監督ヘルベルト・フォン・カラヤンはフィルハーモニーの聴衆の心をまたたくまに虜にした・・・当夜の指揮はまさに爆弾のような衝撃であった。聴衆はこの若い指揮者に激励の喝采を送り、彼の地位について、もはや動かすことのできない熱狂的な要求を抱くに至った」。
 カラヤンはゲーリングの計らいでベルリン国立歌劇場に招聘される。
 カラヤン歌劇に長蛇の列という大勝利をおさめ、負けじとフルトヴェングラーもベルリン・フィルとケルンで熱狂的歓迎を受けていたとき、
 一方では、〈水晶の夜〉の犠牲者たちが、市内の収容所からオラニエンブルクに向けて輸送され、虐待され拷問され恐怖と死の叫び声をあげていたという。カラヤンの出世のスタートはこんな時代だったのだ。複雑な気持ちになる。
 カラヤンはヒトラー50歳の誕生日直後に国家指揮者(国立歌劇場監督)に任命された。これらすべては、フルトヴェングラーを非常に動揺させた。カラヤンの名は、彼にとって悪夢となった。ゲーリングが仕組みエドヴィン・ファン・デア・ニュルに書かせたカラヤン絶賛の批評も彼を激怒させた。ナチのテコ入れによる新聞論評が次々にカラヤンの地位を固めていった。
 ゲッペルスはフルトヴェングラー率いるベルリン・フィルを担当していた。国立歌劇場を担当するゲーリングとは一種のライバル関係にあった。当初はカラヤンが劇的に優勢に見えたが、フルトヴェングラーもゲッペルスを通じ巻き返しに躍起となったらしい。

 後に非ナチ化手続きではカラヤンの国立歌劇場就任は、カラヤンの音楽的才能が第一の理由とされた。
 だがナチによって出世したカラヤンは結局ナチの犠牲となり敵対するグループや機関に翻弄されたとある。ときが来るまで辛抱強く待ち続けるあいだ、フルトヴェングラーの優位を我慢しなければならなかったという。
 すべてベルント・W・ヴェスリンクからの要約です。これで、カラヤン対フルトヴェングラーの謎の断片が解けました。著作物からの書き写しばっかしじゃ仕様がないなあ~、とは思いましたが、ちょっと考えさせられましたので・・・。


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フルトヴェングラーの7番

 図書館の書架に3冊フルトヴェングラーが並んでいました。
手持ちの音盤しか知らないくせに、そう、知らないくせになのですが、カラヤンとフルトヴェングラーの比較をベートーヴェンの交響曲7番でしてみたわけでした。夕べ辺りから気になってきたのです。両者の最も得意とする曲を聴いてみてこそではないかと。しかし、ピーター・ピリー「レコードのフルトヴェングラー」によると、それほど的外れでもない事が分かりました。「7番は、はるかに彼(フルトヴェングラー)らしい仕事である」とあったからです。

 カラヤンの名演7番と、フルトヴェングラーの7番の対決はひとまず措くとして。

 やはり専門家の耳は素晴らしい。
 わたしが聴いているフルトヴェングラーは、ウィーン・フィル1950年ものですが、どうも1943年のベルリン・フィル〈ユニコーン・レコード〉のほうが極めつけなようです。新たに購入はしませんが、これから聴きたい方はこちらに。
 彼のすべての盤に共通している(以下は著書の通りですが)「興奮をかき立てるうねるような指揮、破竹のごとき勢いと、しだいに高まっていくコーダの持続音の纏め方、全体についての優れた形式感である。彼のアレグレットは指定されたテンポより幾分おそい・・・・それは巨大な波のように広がって見事な形を作り、ゆっくりとしたクレッシェンドは、展開する旋律と完全にマッチしている。事実晩年ベートーヴェンは、テンポの指示をアンダンテに訂正するばかりでいた。したがっていささかゆっくりとしたアレグレットは、きびきびとしたアレグレットよりは正しいことになる。・・・・終楽章では、・・・彼のテンポはトスカニーニよりもはるかに自由である」。
 「1950年もの、1943年もの、両盤何れもすぐれた演奏だが、1943年の実況録音盤は断然他を圧している」、とのことです。
 

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月下美人

 貰い承けた瀕死の月下美人が、命更新中!
今朝見ると、あの小さな葉っぱが2、5㌢の丸形に成長。そればかりではなく、茎に七つものブッチン。そう、新たな葉っぱの萌芽が。
「出ますよ」
「出ますよ」
「出ますよ~」と口々に。
復活です。
この雨もよいの下の
庭石に置かれた月下美人の
鉢の中での確かな復活宣言です。

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墓参り

 墓参りは13日に済ませた。
 父の思い出といえば、お酒が好きでよく飲み過ぎていた。マラソンの自己の記録に挑戦し、マンドリンが巧く、クラッシックのSPレコードを聴き、たまに老人クラブで津軽海峡冬景色を唱ったごく庶民的な父。平成5年8月4日死去。81歳。そして母。一生を家事、育児に費やし、晩年孫たちとの温泉旅行などを楽しみに過ごした。我慢強く忍耐強く手先が器用だった。和裁、洋裁、編み物、小物造り。何でもものにした。後年腎不全との付き合いを全う。平成19年12月26日。クリスマスが終わるのを待っていたように死去。88歳。墓参りには、いつもこんな事を想う。
 お墓参りに来なければ個人が寂しがるかもしれない、待っているかもしれないなどという心情にも押されている。肉親、友人、知人の霊を慰めたい、これが一般的な墓参りではないか。

 さて靖国、ニュースにあるのでつい気にかかったのだが、
 太田農水相が、小泉元首相が今朝参拝し、保岡法相が参拝予定だという。政治的なことは分からない。ただ聞きたい。まことに戦争に散っていった魂を悲しみ慰めたいのなら、霊は喜ぶかも知れない。しかしもし本来的な意味から外れているとすれば、むしろ戦争で散った人々を利用しているのであり、それは、死者に対する冒涜でしかない。心の底の底ではいったい何に手を合わせているのか、それが聞きたい。

 もし罪人の墓があり、もし知らずして罪を犯した人の墓があるとして、また善行功徳の人の墓があるとして、これらの方々に心痛み、また心惹かれ、また友人知人であったなら、寄り添う心情があるときには、わたしはどの方の墓をもお参りする。
 
 

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63回目の終戦記念日

 お盆の最中の8月15日という意識で朝6時起床。
 いまパソのヤフーニュスサービスで、ああ、終戦記念日だと。犠牲者310万人。昭和20年の8月15日正午は、ポツダム宣言受諾の玉音放送だった。戦争を潜った方々の記憶が褪せることはない。終戦の日と目覚められたに違いない。
 戦争の酷さは、花巻市にあるとき、T子さんから幾度も聞く機会があった。直接体験した方、殊にも身近な人の話には説得力があり記憶にも残る。
 さて、もし自分が戦時下に生きなければならないとしたら、恐らく愛国婦人会にも参加したろうし、もし男子であれば、軍人が出世の糸口となれば、軍人を志していたかもしれない。情けないことだが、体制の中で少数派の反体制に身を置く勇気のないものであることを告白せざるを得ない。わたしは弱虫である。
 ここで方便をもってこれに纏まりをつけるとすれば、
柳田邦夫だったろうか、30年も前に読んだ本なので著作名も忘れてしまったが(これも言い訳ですが)、飛行機事故について書いた中で、フェイルセイフシステムということを述べていた。人間は操作を誤る可能性があるのだから、その前段階で、それを防ぐシステムを開発しなければならないと。
 人は誤った体制を強権をもって確立しうる。そうなってからでは、不本意であっても従わざるを得なくなる。だからそうなる前に“フェイルセイフシステムを開発”する必要がある、と、こう、自分の弱腰を濁そうというわけだが・・・。
 終戦の日に、この程度しか言えないのが正直なところ。しかし平和のためのほんの小さな役回りでも回ってきたときには、体力、気力のある限りは、避けてはならないと思っている。 合掌。 
 
 

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たとえあなたが

きょう私に投げかけられた言葉は

 たとえあなたが
 健康であろうと病気であろうと
 たとえあなたが
 富んでいようと貧しかろうと

 たとえ誰があなたを
 認めようと否定しようと
 神が
 いまここに
 あなたを生かしている

 お盆に入る直前から体調がすぐれず、横になっている日々が続きましたが、やっと人心地つき、きょうは知人の初盆にも顔を出してきました。断続的に降っていた雨もいまは止み、街灯をおおう闇夜の奧に、ときたま車が走り去っていく音がします。涼しい夜風です。きょうもありがとうございました。多くの方々の許しによって生かされていることを感謝します。night

 

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ア・ラ・カ・ル・トー雑感ー

 人海絵巻物で始まった北京五輪。スポーツは苦手、新聞もスポーツ欄は見出しを読むか読まないかだ。それでもオリンピックともなれば、どれきょうはどうなっているかなと、パソのニュースを開けてみる。tennis
 金5、銀3、銅3。すごい! 世界一位、世界二位、世界三位が一個だってすごいのに11個も。だけどみなが血の滲むような努力をしてきただろう。負けたって敗退じゃない、負けたって輝いてる。負けたって輝いてる五輪選手たち。soccer

 

太田カルテットを20年ばかり手探りしてきた。主婦のままごと研究だ。それでも赤沢資料を手にしたとき、人様の想いの籠もったものをあだやおろそかに扱ってはならないと知らされた時点があった。
 10年前、梅村保が赤沢に贈ったチゴイネルワイゼンの楽譜を預かった。貰ったがお預かりしたという感覚である。そしてきょう、梅村保所有だったヴァイオリンが私のもとに来た。これもお預かりした。
 原彬氏の父原正恭氏は言った。「梅村さんたちは(音楽への熱意、音楽普及に関して)ほんとうに純粋だった」
 このヴァイオリンは梅村が愛用していたかどうかは分からない。梅村の音楽堂に設置されていたうちの一挺である可能性もある。昭和12年満州に渡る直前に売却されたものだ。
 経緯はともかく、巡りに巡って梅村の心がここにやってきてくれた、そんな嬉しさがある。
notes

 

西日本の海面温度が30度になっているという。驚きでした。怖いです。パソのどこかで見ました。間違っていないかどうか。
 今年は30度が自分の体力の限界線となっている。越えると体調が思わしくない。行動力が萎える。ついつい車やバイク、自転車に頼った弊害が。
 「ばあや」「おばあちゃん」とじぶんの内側から声が聞こえる。脚を鍛えるのには、今からでも遅くはないだろう。う~む、いま「ババーだ!」という怖い声も。そうです。その通りです。バーバぱぱ、バーバまま、ババーぱぱ、ババーまま・・・などと何とか印象を変えようとするのですが、・・・やっぱり・・・気落ちせずに鍛えることに。
tennis

 

枯れかけた月下美人。当初、復活はかなり厳しそうだった。土を変え、水をやり、毎日見守っていたところ、プチッと新しいちっちゃな先っぽが。それが毎日少しずつ少しずつ伸び広がり1センチばかりの可愛い葉っぱに。この葉っぱが伸びながら毎日言ってくれました。
「生きてますよ」
「生きてますよ」
「生きてますよ」
ほんとうにありがとう。
clover


 

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フルトヴェングラー対カラヤン

 ウィキペディアに、フルトヴェングラーがカラヤンを忌み嫌っていたと書かれてあった。どうにも気になりだし、聴き慣れた両者のベェートーヴェン交響曲第7番を聞き比べてみた。

ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1950年

演奏時間 第一楽章 12:56
       第二楽章 10:15
       第三楽章  8:38
       第四楽章  6:50
         計   38:39

ヘルベルト・フォン・カラヤン
ベルリン・フィル・ハーモニー管弦楽団
1971年

演奏時間 第一楽章 11:18
       第二楽章  8:6
       第三楽章  7:28
       第四楽章  6:39
         計    33:31

 数字で内容が解るとは思わないが、何と、フルトヴェングラーはカラヤンよりも5分8秒も演奏時間が長い。実際聴き始めて直ぐに、悠長すぎる、間延びしすぎと聞こえる。しかしワグナーが「不滅のアレグレット」といった2楽章にはいると、フルトヴェングラーの凄さがわかってくる。楽譜がないので指し示すことができないが、胸に深く食い込んでくる。音を文章表現で表すというのも情けないのだが、ぐんと捕まれる。3楽章では、初めのほうは、両者ともほぼ同じ理解だが、フルトヴェングラーの方は、音が発酵しじっくりと胸に落ちてくる。
では、フルトヴェングラーには、鋭角な尖端的な感じは無いのかといえば、とんでもない話で、4楽章冒頭から、むしろシャープさは劣らず、前楽章の音との対比で、それはむしろ際だってさえ聞こえる。フィナーレの熱烈さは、もう両者とも有無をいわせない。

 録音技術の古さ、音響のハンディはあるものの、わたしは、フルトヴェングラーの方が芸術的な深みに富んでいると結論したが果たしてどうだろうか。

 ただカラヤンは指揮者としての身のこなしの芸術的な美しさをも追求したコンダクターであると思う。曲を聴くときのこの効果は決して半端ではないからだ。曲にこめられ音の有り様が、体全体、指先、フレーズごとの表情にまでも具現されている。音楽的オーラをまとっているのだ。

 さてフルトヴェングラーがなぜカラヤンを忌み嫌っていたのか。それは、両者の生育歴、音楽歴、性格の違い、ひいては世の論評、聴衆の承け、またはあらゆる状況にある社会への対応、態度等々までを書籍などから詳しく拾ってみないことには一概に推測できない項目だろう。
 7番の聞き比べに終わり、結論の見えないままの尻切れトンボで恐縮ですが、世も更けましたので、ここで失礼いたします。
 
 

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プチ雑感

  もうすぐ21時。北京オリンピックの開幕だ。サッカーは日本は惜しくも敗れてしまったが、開会式は観てみよう。scissors 

株分けしたアガバンサスを届ける。預かっていたものだ。家にあるシンビジウムを、これも株分けしたのでお持ちした。happy01

 ドヴォルザークがどうして癒されたか書きたかったが、オリンピックの開幕だ。四川はどうなってるのかな・・・pen


 

 

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クーベリックのドヴォルザーク「新世界より」

 クーベリックのドヴォルザーク「新世界より」を聴いてみた。チェコ・フィル・コンサートライブ。1991年プラハ、スメタナホール。

 クーベリックはバーンスタインよりも若干ゆったりめで鋭さに物足りないと初めは思ったが、これは指揮者の曲の解釈の違いでしょう。それとまたまた私の独りよがりがあるかもしれません。
(いま書いている間にグラッと来ました。22時20分ごろです。まだ余震が・・・)

  曲のあとに、クーベリックのコンダクティングの模様が収録されています。見ると、「走りすぎないように」とか「ゆっくりと小刻みに」といった指示に、クーベリックの曲の解釈が見え、なるほどと。以下は、このDVDに収録されてあるクーベリックの字幕をそのまま書き写しました。
 

ドヴォルザークは無心で五線紙に向かった。
すると曲が湧いてくる。
彼自身どうやって作曲したのか分からないこともしばしばだった。
それはほとんど神秘に近い
意志や意図とは無縁のものだ。
音楽はすべて彼の中にあって
それを引き出せばよかった。

・・・1楽章から4楽章まで指示は続くのだが・・・

彼は純粋で素晴らしい人間だった
彼の中に嘘や偽りは存在しない
極めて慎ましい態度で
偉大な作品を創り出した
わたしはそのように感じる
彼の澄みきった内面を感じて奏でてほしい



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プチ俳句

涼しげな 車中の人や 炎天下    ぶんな

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文章の足しになるブログ

 これまであまり本を読まなかった。必要最低限だけだった。
大した介護もしなかったわけだが、母の事などで忙しかったときには、何を文章の足しにしていたかといえば、ブログである。このころ作家でご自分の筆でブログを公開しているのは、作家の澤口たまみさん、松田十刻さん、斉藤純さん(さん付けで失礼いたします)だった。澤口たまみさんは、日常の、虫の、自然のことなどを溢れる感性で的確につづっておられた。松田十刻さんは、宰相のこと賢治、啄木、碑のことなど幅広く正確に緻密に書いておられた。斉藤純さんは、行事やコンサートの案内を載せ、また音楽会、絵画展の感想などを書いておられた。(過去形のいい方をしてしまいましたが、現在も書いていらっしゃいます)プロの宣伝を、アマの端くれがするのは失礼千万ともなりかねませんが、この三作家には、文を書く上で、とても教えられ、模倣もし、そのお陰で、すこしは文が上達したように思います。
 痴呆も出ている昨今なので、忘れない今のうちにと記させて頂きました。以上、ばあさんの独り言でした。

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ピアノの詩人

 4日某夕刊に、小山実稚恵さんが、10日久慈市アンバーホールでピアノ六重奏で演奏会をする、という案内があった。
 ピアノをよく聴いたのは、もう2、30年も前のことだ。近頃はヴェートーヴェンだ。バレンボイムの全集も聴いてしまいたいと思いながら、ピアノもいままた聴き初めて、どの程度解るか自信がないままに、何事もきっかけからと思い、小山さんから聴き初めている。
 「小山実稚恵ベスト・アルバム」から。
 小山さんはラフマニノフに深いということであったが、このアルバムには「音の絵」のみの収録。もっと他のラフマニノフを聴いてみないことには。
 ショパンは4曲入っているが、「夜想曲」には心揺さぶられ危うく落涙。冷血漢のゆえだろう、滅多に涙を落とすことはないが、落としそうになるのはごく希だ。いまの段階でたしかに私が聴いた私の、どこからも評価のない感覚で言えば、小山さんのショパンは「詩」、小山さんはピアノの詩人だ。
 ラヴェル、スクリャービンでは、巧くは言えないが、小山さんは、野性というところからは遠い人であると思う。こう感じたことなどを、もっと小山さんを聴くことによって的確に文字で表現できるようになればと思う。
 小山さんのショパンを聴く機会に恵まれた久慈の方々は幸運である。

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ドヴォルザークの「新世界」

  今朝テレビで(どのチャンネルかは確かめなかったが)ドヴォルザークの「新世界」の解説をしていた。テレビはいつも行き当たりばったり、あらかじめ番組を確かめておくことはしない。朝の多忙なとき、ほんとうはテレビなどを見ている場合ではないのだ。だが15分は見ることができた。
 ともかく、オケが控え、楽譜なども若干持ち出されていた。イングリッシュホルンを見ることができたのは幸運だった。演奏場面では、やはり、「ああ、こうじゃない、ここはこうじゃない」という歯がゆさがあった。演奏を聴かせるのが主目的ではないので、それでいいのだが・・・そんなわけで、やっと朝の仕事を一段落させ、コーヒーを淹れ、いま早速、「こうだ、ここも、ここも、こうだ」と自分が納得できる、つまり自分の好きな、或いは独断と偏見、井の中の蛙が好きな演奏かもしれないのだが、これだ! と思う「新世界」をかけている。それはレナード・バーンスタイン指揮。ニューヨーク・フィルハーモニック。書きながらも鳴っている音にひきこまれるのだが、いま第一楽章のあの「家路」で有名な旋律のところだ。テレビではドヴォルザークの古里チェコの民謡や彼がアメリカに渡ってから知った黒人霊歌が随所に取り入れられているとの解説があった。実際これらが、第4楽章で、力強く高らかな音の間隙を、さながらダイヤモンドダストのように煌めきながら満たすのだ。表現は適切でないかもしれないが、ほんとうに素晴らしい。心を病んでいた彼が、これほどに力強い作品、彼の管はまったく生きとし生けるものへの熱烈な賛歌となって、いとも高らかに鳴り響くのだが、これも聴けば聴くほどどうして作曲出来るのか、出来たのか信じられない。「不思議」という言葉をあまり使いすぎると不思議が色あせて、「不思議」に叱られるので、今日は使わないことにするけれども。

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エホバ与えエホバ取りたもう

 エホバ与えエホバ取りたもう エホバの御名は讃(ほ)むべきかな 聖書

 すべて神が与えすべて神が取り去る。神のなさることは時に適って間違いがない。羊の側が神への愛を捨てない限りは、その羊がいかに愚かで手に余るほどだとしても、神は自ら身を乗り出し、必ずやどこかで気づきを与え、歯止めをかけ、これを救われる。手に余るほどに愚かな羊とは他の誰でもない、この私である。
 羊が神への愛を捨てない限りは。羊が神への愛を捨てないかぎりは。アーメン。主イエスよ。

 2008年8月2日(土) 23時12分

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時の駆け足

 気がつけば8月1日。時はいつも駆け足だ。置いていってくれれば良いものを、放っておいて欲しいものを、時は確実に自分を伴ってくれる。何という強引なパートナーだ。それにしても、未来永劫淡々と駆け抜けられるなんて、よっぽどいいスニーカーを履いてるんでしょう。shoe 

9時頃友達から電話があった。抜け出した猫が半日ほど自由行動を取ったため大いに心配したが、無事帰還するというハプニングがあったらしい。戻った猫にインタビューしたところ、こう答えている。「ミーのご主人様のとこほど温かいとこは他にニャーい!」。cat

 福田改造内閣発足。政治はよう解らん。唯一解ることといえば・・・またまた首をすげ替えただけの話なんでしょ。drama 

盛岡市は「さんさ踊り」一色。4日まで。もう朝早くから美容院でヘアスタイルをバッチリ決めたお嬢さんたち。襟足も美しい浴衣姿で両手はしなやかに宙を掻き、メイン道路狭しとくりだします。各種団体、町内会、会社関係、企業、大学、幼稚園、おじいちゃん、おばあちゃん、おじちゃん、おばちゃん、お姉さん、お兄さん、お子ちゃまに、背中の赤ちゃんまでが踊りまくるのです。ヤッコラーチョイハヤッセ!full

 

 

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ベートーヴェン交響曲第7番

 不思議を連発すると、不思議の価値も薄れそうだ。そう思いつつ不思議でならない。なぜかが解らないと言い換えてもいい。
 ベートーヴェンの交響曲7番がなぜ聴いても聴いても飽きないのか。また聴きたくなるのか。ベルリンフィルだから? カラヤンだから? それもある。それ以前にこれがいったいどういう曲なのか。ベートーヴェンが2番を作曲するときには既に難聴だったという。7番のときはもうほとんど聞こえなかったわけだ。

 メシアン(1908年生まれ。)はメルボルンでのメシアン・フェスティバル(1988年)で、演奏される自作の曲をリハーサルのときに、ピアニッシモや低音が弱すぎたといってはフォルテシモに直そうとしたという。メシアンの耳がかなり遠くなっていたからだった。指揮者も演奏家たちも弱り果てたのだ。しかしこれが普通の作曲家なのではないか。自分の聴くところに従って音を紡いでいくのだ。よし頭脳の中で紡ぐとしても演奏を通し具現してみながらの創作というのもあるだろう。

 しかし聞こえない中での作曲とは・・・あまりに有名なことで考えたこともなかったが、日常的に聴いているいまは不思議でならない。
 管の響きにはあたかも音を探り出そうとしているかの旋律がよく出てくる。耳が聞こえない、これを全盲に置き換えてみる。音の真っ暗闇にありながら連ね続けられた音の連続は、まさしく魂の響きといえるのだろう。8番を作曲したときは全く聞こえなかった。2番から8番は彼の言語に絶する精神的な闘いのただ中だったのだ。音楽を熟知していることや音感の確かさ、不断の試行錯誤、感性の的確さはあったろう。この基盤の上に、聴力が次第に消えてゆく焦燥、葛藤、不安、悲哀、悲憤、慨嘆、絶望、達観、希望これらの想いに加えたありとあらゆ感情を潜り生まれ出た傑作といえるかもしれない。またそんな中でも創作ができるという芸術的な歓喜はまた格別なものだったに違いない。ベートーヴェンをよく知らずして無責任な推測を綴り申し訳ないことではあるが。懊悩、歓喜、そんなすべての想いを潜った曲であるからこそ聴くものを捕らえるのだろう。
 ほんとうに不思議でならない。詳しく調べてみたくとも、語学にも不案内ときている。情けないことだ。

 ヴォルザークの「新世界」も10年ほど前は毎日聴いた曲だった。数ヶ月も続いた。これはドヴォルザークが3年あまりのアメリカ滞在中に作曲されているが、何と、彼はこの間精神を病んでいたという。そんな中でどうやって作曲できたのか、これにも驚く。しかしドヴォルザークについては調べてみたいと思ったことはない。 
 ベートーヴェンが、なぜ、どうして、9番までの作品、そしてまた、まだ私が聴いたことのない作品の数々を創り出すことができたのか、聴けば聴くほどほんとうに不思議でならない。

 たとえ聞こえなかろうと、見えなかろうと、貧しかろうと、病んでいようと、たとえどんな状況にあろうとも、この困難を通しこの暗闇を潜ることによって、多くの人々を励まし慰めることができるという神からの人類へのメッセージなのだろうか。逆に、このような偉大な使命があるが故に、ベートーヴェンには苛酷な暗闇の支配のときが負わされたのかもしれない。

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