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2008年6月

慰霊の森

 2008/5/31と6/1のこのブログに、岩手県雫石町の「慰霊の森」のことを随筆に書きました。書き終えたときには、文の出来不出来はもうどうでもよくなっていました。一つ書き足すことを忘れていました。
 これは人様に説教などする資格のないものがそれをするのですから、やはり言い置きたいことなのですが。
 慰霊の森に一度登ってみたいという動機にはあまり理屈はありませんでした。強いて言えば、大惨事のあった場所が今いったいどうなっているのかを確かめたかったのです。それまでも家族で鶯宿温泉や賢治ワールドに行く度に傍らを通過してはいたのです。登ったその日は、母の介護がこの後いつまで続くのかも分からないという思いに押されて、「いまだ!」とハンドルを慰霊の森の方へと左に切ったのでした。
 この森が所謂心霊スポットである事は、帰宅してから下の息子に聞いて初めて知り大いに呆れられたのでしたが。
 心霊スポットであるかどうかは550段を登り切っても分かりませんでした。ただ実感したのです。この場所は視聴率稼ぎの取材やカメラが入るところではない。真面目に事故を伝えようとするためならともかく、物見遊山で登るところではないということを。デイトスポットなぞという書き込みも見られましたがとんでもない事です。付け加えたい事というのはこれだけです。

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カラヤンをDVDでー交響曲第1番~第9番ー

グラモフォンDVD
ルートビィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
交響曲第1番、第2番、第3番《英雄》
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮・芸術監督:ヘルベルト・フォン・カラヤン
映像監督:アルネ・アルンボム(第一番)
      ハンス・ヨアヒム・ショルツ(第二番)
製作:1971年10月(第3番)スタジオ収録
         11月(第2番)スタジオ収録
         12月(第1番)スタジオ収録


交響曲4番、第5番《運命》、第6番《田園》
映像監督・芸術監督:ヘルベルト・フォン・カラヤン
             (第4、5番)
企画・映像監督:フーゴー・ニーベリング
          (第6番)
制作:1971年12月(第4番)、1972年2月(第5番)
    ベルリン、フィルハーモニーホール・ライヴ収録
   1967年10月(第6番)
    ベルリン、CCCフィルム/イエス・キリスト教会


交響曲第7番、第8番、第9番《合唱》
グンドラ・ヤノヴィッツ(ソプラノ)
クリスタ・ルートヴィヒ(アルト)
ジェス・トーマス(テノール)
ヴィルター・ベリー(バス)
ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
合唱指揮:ヴィルター・ハーゲン=グロル
指揮・芸術監督:ヘルベルト・フォン・カラヤン
映像監督:ハンス・ヨアヒム・ショルツ(第8番)
       ヘルベルト・フォン・カラヤン(第9番)
製作:1971年10月(第7番)、11月(第8番)
    ベルリンCCCフィルム・スタジオ収録
   1968年1月、2月(第9番)
    ベルリン、フィルハーモニーホール収録


以上3枚のDVDはほんとうに飽きなかった。特に7番に釘付けになった。次の曲に移らなければ聴き終れない、と時間が気になりつつも、ほんとうに時間を喰ってしまった。まだ聴きたいくらいだ。3番と7番はオーケストラが急傾斜の三つの逆三角形に配置され、すべての楽器の指使い、弓の動きなどを一望に。それは壮観だった。オーケストラの動きが目一杯に映し出される。
何れもカラヤンの絶頂期。第9番はカラヤン初登場らしい。全曲通じ眼を閉じたまま指揮するカラヤンの眼がこの第九の合唱で開き感極まり涙が滲んだのは、こんなことにもよるだろう。第6番は、もう聴くのを止めよう時間が・・・と思いつつ最初の一区切りの音の引き方を聴いてしまったのがまずかった。これで最後まで聴くことに。ほんとうに聴いてよかった! 観てよかった! 映像の素晴らしさ。楽器のファンタジーとも観ることができる。解説には「クローズアップを効果的に使用し、光りと影を見事に対比させた照明」とある。それもその通りだが、楽器を通して、水のゆらめきに自然が映し出されるような映像なのだ。楽器の持つ輝きの多様性をあらゆる角度から捉えている。映像そのものも視覚に鮮やかに残る芸術作品となっている。
歌謡曲、ロックのライブなどを聴くとき、クラッシック界も照明の用い方一つにしても、もうすこし視覚的な工夫はないものかと思ったこともあるが、この3枚のグラモフォンDVDは、当時としては画期的ではないのか。音もよし。映像もよし。やはりカラヤンの芸術的な感性は素晴らしい。これだけのものを後世に残してくれたなら、ベートーヴェンも喜んでいるに違いないと思いましたが。

次はゲルハルト・ボッセのベートーヴェン全曲が待っています。のめり込まないようにします。

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ア・ラ・カ・ル・トー雑感ー

 2008/9/14(日)マリオス大ホールにピアニスト小山実稚恵さんが来るが、はて、小山さんのピアノを理解して聴くためには、どのように臨んだらよいかを考えてみた。はたと、小山さん以外のピアニストの演奏、自分の場合はCDを聴くぐらいしか出来ないのだが、ほかのを2枚か3枚耳に落ち着くまで聴いてから小山さんを聴いたなら、よりよく理解出来るのではと思ったのだが・・・

 
「速報ファーマシスト・ジャーナル」の数字から、平成17年で、なぜいきなり国内生産と輸入額とが逆転した数字となるのか。このところを突き詰めたいところだ。海外にそれほど優れた新薬ができたとでもいうのか。まさか国内の生産が需要に追いつかなかったというのも考えにくい。逆転の理由が知りたいところだが・・・

 
ある牧師が言った。「女二人で開拓伝道をしました。一人が説教し一人が聴衆となりました。待てども待てども求道者は来ません。それでも説教をし続けました」
 たとえ人が来ようと来なかろうと、時代がどういう時代であろうと、状況がどのようであろうと、世の中には、立ち続けなければならない使命を持つ方々が
あるらしい。
 ゲオルグ・シュトルム神父は天にかえる89歳までの45年間、生涯を二戸市に捧げられた。信者は7、8人。布教、自給自足の清貧さ、畜産指導、植林事業、『バイブルソングス』『二戸地方の植物図鑑』刊行、等々・・・

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精神疾患系医薬品の売上げ

 ずっと音楽の話で、こんどはいきなり精神薬の話?と驚かれるかもしれませんが・・・
 ブログ「速報ファーマシスト・ジャーナル」に精神薬の売上などに興味を持っているとコメントしたところ、このほど回答を出してくれました。

 音楽家にまったく無関係ではなく、ピアニスト小山実稚恵さんの得意とする作曲家ラフマニノフも精神疾患で苦しんだことがありました。ダリ博士の精神療法の結果名曲を作曲しましたし、マーラーやシェーンベルクもフロイトのカウンセリングを受けています。

 2007/11/2のブログに、岩手県民会館で開かれたCCHR(人権擁護団体)の精神医学の歴史、非人道的な処遇、旨みのある精神薬市場の実態の告発をすこしだけ書きました。なにせ時間が無く慌ただしく回ったものですから、薬の売上げ数字をメモしませんでした。それがずっと気になっていたのです。
 
 速報ファーマシスト・ジャーナルによると
中枢神経系医薬品を二種(催眠鎮静剤、抗不安剤と精神神経用剤)に分け、折線グラフで示してくれました。
 平成11年からどちらも右上がりで増えてゆくのですが、平成16年でグラフは極端に下降。
ところが市場に出る精神医薬品も激減したわけではなく、輸入が逆に多くなっており、トータルではやはり増えていました。
平成16年輸入金額 286億7100万円
      生産額  1496億3000万円
平成17年輸入金額 1162億1500万円
      生産額   799億6300万円

平成11年には中枢神経系医薬品薬1440億円がなぜ年々増えに増えてきたのか。理由は三つ挙げられていました。
1 精神疾患に対する認知度の向上
2 新医薬品の登場
3 医薬品の慢性的な投与
(詳しくは「速報ファーマシスト・ジャーナル」をご覧ください。)

 投薬に関する医業の側面からの問題提起は必要かもしれませんが、いまそこまで言える調べはしておりません。もしかすれば、それはCCHRに問い合わせれば分かるでしょう。
 わたしの持つ意識の範囲で述べたいのは、なぜこれほどの薬が投薬されてしまうのか
 精神疾患にたいする理解が冷静になされていないために、精神疾患といえば友人までもが遠ざかり、孤独になり、病に拍車をかけてしまう実態があるように思います。とくに軽い段階である場合には、周囲の理解、温かさが薬以上の効果をもたらすと思います。
 ほんの少しの温かさをもつだけで、誰でもが、たとえ有能なカウンセラーではなくとも、凍った心を癒すことが可能なのです。
 薬をあてがわなければならないケースには、社会の中の冷えからきている側面もあるように思います。勿論専門家に託さなければならない場合もあるでしょうが、むやみに心の病を恐れて遠ざけるなら益々孤独へと狭い抜け道のない居場所へと追い込んでしまうでしょう。それは健康な者でさえも耐え難い状況なのであり、まして病むものが置かれたときには・・・

 人が人として生きにくくなっています。発達した交通手段、車社会が事故で怪我人を出す、これはある意味で見えるので分かりやすい。しかし社会の歪みが心に病巣をつくる、これは見えないだけに分かりにくく、また見えたときには解決が複雑となる。こうなる前の、あるいはそんな状況を見たときに、話に耳を傾ける、自分のできる範囲のサポートをするなどの配慮があれば、怖ろしいばかりの投薬から幾人かでも救うことになると思うのですが・・・自分の反省をも含めての提言です。

 

 

 

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タイタニックの楽士たち

 雨が降っているようです。カーテンはすこし開いています。外に街灯が二つ灯っていますが、雨足は見えません。風も出てきました。障子戸が瞬時かたかたと鳴りました。ばらばらという雨音がもうすっかり繋がっています。去年は大雨がありました。九月だったでしょうか。御所湖には毎秒2000㌧の水が流れ込みました。もの凄い量です。この水の持つ破壊力の恐ろしさは・・・雨が強くなってきました。被災地はどうしているでしょう。
 今日10分ばかりテレビを見ました。2075年を想定したSF。全部見るべき番組とは思いましたが、10分だけみました。番組内容もよく確かめないでしまいました。環境の破壊。この世の最優先課題は環境であるかもしれません。砂漠化が進む怖さ。庭の木を伐って花を植えたいと思っていたのですが、できるだけ伐らない方がいいのかもしれません。草もほんとうは毟らないほうがいいのでしょう。毟るとどうしても土が乾きます。たまに大きなカタツムリが転がり出たりもしますが、そのカタツムリもいなくなるでしょう。いなくなったといえば今年はまだ一度もカエルを見ていません。変です。近くに残っていた田圃があったのですが、とうとう米作りを止めたようでした。この田圃が無くなったことにも原因があるのでは。子供会が出て作業をしているので訊くと、空き地になったところが、草は生えるやらゴミは捨てられるやら困ったので、地主に交渉し、借りて畑を作ることにしたのだそうです。
 2075年、砂漠化。こんな時代に音楽が何になるのだろう。そう思ったとき、あのタイタニック号の楽士たちが思い出されました。エンジンもストップし電源も断たれ大海原の暗闇の中で絶望がひしと濃くなったとき、楽士たちは音楽を弾き続け、ついには曲は賛美歌「主よみもとに近づかん」に切り替わり、船が沈みゆくも最後まで弾き続けたのでした。宇宙に浮かぶ巨大なタイタニック、地球。この面で最後まで音楽を奏で人々を励まし続ける楽士たちは・・・
 しかし悲観的なままで番組は終わったのでしょうか。そんな悲劇が何とか避けられるように警告し、意識変革と努力を促すための番組だったろうと思います。

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ベルリン・フィル12人のチェリストたちー2008/7/15マリオス大ホールpm6:30-

  ついついカラヤンのベルリン・フィルでヴェートーヴェンのシンフォニー7番から8番を聴き、いまは9番の第一楽章の終わりに差し掛かっている。4楽章まで間があるのでブログを書くことにした。今夜は7番が新鮮に感じられた。
  7月15日ベルリン・フィルの何とチェリストが12人、盛岡のマリオスにやってくる。いま聴いているDVDは7番、8番が1971年、9番は1968年のものだ。
 マリオスコンサートのチラシのチェリストの写真を8番で付き合わせてみた。居る!居る!たしかに・・・と確認できたのは一人。というのも37年前の映像であってみれば団員も入れ替わっているだろうし、若い方も年齢を重ねておられる。それとカラヤンの映りすぎで、団員の映像が短い。チェロも短いが、コントラバスはもっと短い。もっと公平に残して欲しかった。
 何はともあれ、百戦錬磨のこの楽団のチェリストたちがこぞり来日と思うとすっかり嬉しくなった。嬉しくなったのだが・・・行けるかどうかはまだ分からない。この方たちはカザルス、ヨーヨーマにもほぼ互角の方々ではないのか。恐らくは国際コンクールの舞台を踏んだ方も居られるだろう・・・調べてはいませんが・・・ということはこれも想像で言っているわけです。
 あっ、9番の四楽章が鳴りだしました。これは映像も見ながら聞かねばなりませんので、ここで締め括ります。
 合唱になるとカラヤンの眼が開きますね。ヴェートーヴェンをずっと眼をつむったまま指揮するカラヤンの眼が、この第九のときには開くのです。「星の輝く天蓋の上に・・・そこに神は必ずおわします」この歌詞のところで,ライトの屈折のためか透明な緑色にも見えるあの瞳が開くのです。そして瞬時涙が滲みます。ソプラノはグンドラ・ヤノヴィッツ。アルトはクリスタ・ルートヴィッヒ。テノールはジェス・トーマス。バスはヴェルター・ベリーそれとベルリン・ドイツ・オペラ・合唱団。勿論名前を全部は覚えられませんけれども。そろそろバスが・・・映像に変えることとします。

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松本哲也onステージ

 MOSビル前ステージでライブを聴いた。
わたしが
松本哲也(ワーナーミュージック)を聴いたのは、9年前肴町ホットライン中三前だった。10年ぶりといっていいかもしれない。あのときの彼は、しみじみと自分の生い立ちなどを交えながら、心の内を透明に見せてくれた。
 今回は逞しく育った逞しさの中にガラスの心を融かし固めて歌い歌い歌い続けてくれた。31歳と聞いたが、ミュージシャンとして今後を息長く歩むためには、これからどの方向に自分を当て嵌め、且ついかにしたらクリエイティヴなサウンズを編上げてゆけるか、いまが真摯に取り組むべき正念場なのかもしれない。「
空白」は4万部を売り上げたようだ。空白に書かれた辛い幾多の人生が、この後もプラスと転化され広く受け入れられ、これを通して不遇にある方々の空白を音楽をもって満たすような存在となられるよう祈りたい。

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津軽三味線ー藤原翼ー

 いしがきFESUTIVAL`08
ホットライン肴町で15:30~16:00藤原翼の津軽三味線を聴いた。
藤原 翼  専門学校生19歳。岩手県紫波町出身。
    2007年
津軽三味線全国大会C級5位(58人中)
    ー下線部分がもし違っていたらすみませんー
 始まるすこしまえ、隣に腰掛けた70歳の女の方が、手提げ袋から色紙を取り出した。藤原翼にサインを願いでると「字が下手だから駄目」と藤原。「記念に」ともう一押しして、書いて貰ったのを見せてくれた。演奏家を育てる聴衆が隣でよかった。エネルギッシュな「津軽じょんがら節六段」が界隈に響き渡った。始まるときには30人程度だった人垣も、いつの間にか5、60人に膨れていた。藤原翼作曲の「インパクト」の民族的な強いリズムに聴き入った。最後の「津軽じょんがら節」は(この曲には新節、旧節、中節、六段の四通りがある)、津軽三味線特有の荒々しさダイナミックさを余すところなく弾ききってくれた。日本一を目指す、若い後進を育てるという夢を掲げ、引き込まれた人々の応援の掛け声と盛んな拍手を浴びた。思いがけず新鮮で躍動感あるリズムを聴いた。      
 

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水曜デッサン会展覧会

 同じ町内でお世話になっているT子さん、そう喫茶ママで個展も開いたこともあるあの大信田時子さんから「水曜デッサン会」の案内メールをいただいた。
 この会は毎回だが実力伯仲、どの方も上手いなと思う。というのは、私も独身時代に裸婦を描いたことがある。難しかった。面と捉えたりマスと捉えたり線を強くしたり弱くしたり、けっこうな試行錯誤をしたが、ついに「うん確かにこうだ」、という仕上がりにはならなかった。裸婦はそれほど難しいというのが実感だ。
 絵に甲乙つけがたいと思っていたところに、たまたま会場を訪れたある方が色々な作品について「きれいすぎる場合は・・・?」というのを聞いて、なるほどと合点がいった。即座に自分の中で絵が個性の種類で3通りばかりに分類され、所謂絵画的であるのはどれどれかを学ばされた。
 力がせめぎ合っている作品に甲乙をつけなければならない方の大変さがすこし分かりました。会場に見えた先生格であるらしい方が、T子さんの絵のかかった列を、県民芸術祭の入選作よりもいい、と仰っていた。
 私は私で見たT子さんの絵は、男性的で野性味のあるところが好きだ。だいたい音楽でもなよなよした感じには馴染まない。ここ1、2年でT子さんの色彩は以前とは随分変わったと思う。明るい色彩になってきている。コスチュームのが特にそう感じられる。毎日多忙なT子さんの心のゆとりがそこにある。
 椅子に休みながら話し相手にもなっていただいた。今思うと一枚一枚をもっと楽しんで見せて頂けばよかったなと・・・

 日本の絵画の中では、安井曾太郎の裸婦がわたしは好きだ。盛岡に引っ越してきてから10年目に入っているが、画集は小屋に押し込んだままになっている。背中のデッサンだ。背中・・・人生や思想が伝わってくる。
 

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小山実稚恵のピアノが聴ける!ー9/14マリオス大ホール午後4時ー

 きのう市役所に所得証明書をもらいにいった。所得証明というより稼ぎが無いので無所得証明書である。生きているうちに稼ぎのある所得証明を取ってみたいものだ。
 それはともかく、市役所の総合案内近くに催し物のチラシが並んでいた。五月の風に立ち現れたかの小山実稚恵のフレッシュなほほえみ、流れるやわらかな髪。そして指揮者大野和士の横顔、東京都交響楽団のステージ写真。「・・・ラフマニノフのスペシャリスト小山が誘う豊饒の一夜」とある。
 小山といえばラフマニノフ。CDを聴き予習してから聴きにいこうと思う。

 まったく音楽に興味の無かった東京に住む甥が、二十歳も過ぎたある日突然ラフマニノフの和音に目覚め、それ以来独学でピアノを猛烈に弾きまくったことがある。
「ちょっとこの和音だけ出してみて」というので、ピアノの前に座り、五本の指をいっぱいに広げ指示通りのキーをボンと押したところ、「もっと強く」。感動の和音が響いたのでした。

感動のラフマニノフを
スペシャリスト
 
小山実稚恵のピアノで!!
 
 2008/9/14(日)午後4時

 
 盛岡市民文化会館大ホール


 

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チェコフィル六重奏団続報

 葉書が届いた。14日のコンサートで知り合いになったKさんからだった。何と彼女は、翌日姫神ホールのコンサートにも駆けつけたらしい。何しろ彼らが来日するときには彼らから「こんど行くよ」と連絡が入るらしい。
 聴衆の入りがどういう事になったか本当に心配だった。最終日である。訊くと「岩手県民会館中ホールの逆バージョン」だったという。ということは席は
まずまず埋まったということでしょう。拍手は?盛岡のプログラムには無かったが、モーツァルトの弦楽四重奏が入ったところで華やぎ盛り上がったらしい。他人事ながらほっとしました。なぜ心配するかといえば、一つはせっかく来てくれた演奏家たちのためもあります。みな主席クラスの方々です。それともう一つは、彼らが苦い印象をもって帰国したときに、彼らへの対応が日本の印象、評価となりかねず、世界各国の演奏家たちにも伝わり、「日本?・・・ノーサンキュウ」ともなりかねないのでは。「お前がそこまで言うのは出過ぎじゃ!」とお叱りをうけるかもしれませんが・・
 「6人は6/15(日)17:41盛岡発の新幹線で東京へ。その日は東京に一泊し、16日成田空港からどこぞを経由して、その日のうちにはプラハに着いた筈」と葉書には書いてありました。

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聖書ー詩篇36篇ー

 ここのところずっとまるで「詩篇36篇」を読みなさいとでもいうように、何度も心の中にこの箇所が浮かんでいました。警告か勧告か注意か何かがあるに違いないと開いて読みました。

 それはそれとして、チェコフィル六重奏団の全国日程をちょっと調べてみると。

5/30広島県文化センターふくやま
6/1愛知県民会館
6/3東京武蔵野市民文化会館
6/4福岡シンフォニーホール
6/5佐賀市文化会館
6/6香川県県民ホール
6/7京都コンサートホール
6/8広島フェニックスホール
6/9名古屋電気文化会館
6/10東京日本大学カザルスホール
6/14岩手県民会館
6/15盛岡市玉山区姫神ホール

十二日間の演奏行脚。楽器と荷物を抱えながらのタクシー、電車での移動なのでしょうか。本当にご苦労様なことでした。とくに盛岡では地震に遭遇。観客の入りも今ひとつですから、すこし寒々としたかもしれません。彼らが弘前に行く夢を見ましたが、電車はもう飽き飽きしたらしく、気球を七基(ガイドの分も)チャーターし、六人とも実に爽快な表情で弘前へと向かいました。チェコにはもう着いたかどうか。ほんとうにお疲れさまでした。
  


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いしがきFESTIVAL'08ー盛岡市ー城下町に音楽があふれだす。

 6月21、22日盛岡市で盛岡城跡公園のほか8箇所にステージを設け、大々的な音楽のお祭りがあると、今日の新聞に上記のようなタイトルで出ていました。出演アーティスト132団体(でいいのかな。グループと言って欲しい方たちも)。
 おばちゃんとしては、この中では津軽三味線とか佐比内金山太鼓が聴きたいし、それと「空白」という本を出したミュージシャン松本哲也(敬称はどう言えばいいのでしょう。もし「美空ひばり」だったら「さん付け」では呼ばないからやっぱり敬称略でいいのかな)を応援しようかな。だけどこんなおばちゃんじゃ悪いかな。
 街中が賑やかになりそう。食べ物屋さんやフリーマーケットもあるようですし。

 昔は盛岡城跡公園を岩手公園と言いました。さてこの岩手公園で初めてコンサートを開いたのは誰だったでしょうか。
 それは明治時代。海軍軍楽隊を除隊した円子正が結成した十数人から成る東華音楽隊でした。これは大正7年の岩手日報に「活動今昔物語」として載っています。このときは吹奏楽だったと思われます。経済的な事情から夜には岩手公園の八角堂で、また方々に依頼し依頼されて演奏していたようです。

 東京府は明治36年の大阪内国博覧会用の楽団員を募集。円子正は数百人の中からの合格18人に入ったので、円子は全国レベルといえるのでは。
 東華音楽会を立ち上げてまもなく日露戦争に従軍。ラッパで士気高揚に貢献し金鵄勲章を受章。凱旋し新聞雑誌にもてはやされました。軍隊から帰ってみると、音楽は地に落ちたかに見えましたが円子正はまたまた発奮し、市中音楽隊を結成。ところがたちどころに経済難となりました。そこで打開策として思いついたのが活動写真、即ちいまでいえば映画館の経営でした。この映画館は「記念館」といいます。円子に続く太田カルテットのメンバーはみな経済的に裕福でした。ですからそういう苦労はありません。しかし円子正はそうではありません。楽団員にいったいどうやって食べさせるかにまで腐心し、ありとあらゆる困難に遭い、それを乗り越えて盛岡に音楽の灯をともし続けた人です。後には梅村や赤沢にヴァイオリンを教えていますから弦楽もやった方です。梅村は書簡に「杜陵洋楽界の草分けとしての大恩人は故圓子(円子)正先生の他是れなかるべく」と記しています。

 岩手公園で初の吹奏楽コンサートを開いた円子正先生率いる東華音楽会の夕闇に紛れそうな十数人のシルエットを浮かべながら、いしがきFESTIVAL’08を迎えたく思います。


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チェコ・フィルハーモニー六重奏団ー盛岡音楽院50周年記念コンサートー

 前の日(13日)に高校の時の友達から電話があり、
「クラッシック好きでしょ、券あるんだけど、チェコ六重奏団」
「いくらなの?」
「あげる。届けるから」
「えっ、いいの?」
で、行くことに決定。オールショパン。あわてん坊のサンタクロース再び、の気分でした。
ところが当日は地震が。どうなることかと成り行きを見ていましたが・・・

開演二時。
近くの県民会館が会場でしたから、出かけてみました。
長椅子に座って待っていた方に
「弦楽四重奏はどの辺りで聴くのが一番いいでしょうね」と訊いてみました。
「ふつうの楽団なら、一番前の席だと音が頭の上を通過しちゃうんだけど、チェコフィルは音がステージの直ぐしたにちゃんと下りて来てくれるから一番前でも大丈夫」
そんなものかと感心し、それでは一番前で一緒に聴こうということに。彼女がクラッシックを実にマニアックに訊いているのには驚きました。何しろこちらはCDなどがたまたま家にあるので聞いているのです。
「なぜクラッシックを聴くの?」
「そこにクラッシックがあるから」という単純さ。
 実際ロック、シャンソン、演歌、民謡も好きなのですが、それを聴くとなると買わなければなりません。あるものを聴くのがもっとも経済的、とこうなっているわけです。
開演までの間、さまざまな話を聞かせてくれました。ちょうど誰かクラッシックを教えてくれないものかと思っていたところだったので、これからも教えてくれるように彼女に頼みました。

 電車が止まった事もあり、観客席はまばら。主催者ではなくとも、どうしようと思うほどでした。こんなことは初めてです。しかしながら、さすがチェコフィル六重奏のメンバーはベテラン。観客席には瞬時ほんとうに驚いた様子だったものの間もなく皮切りの「マズルカ」に没入し、「子犬のワルツ」で楽しませてくれました。盛岡音楽院出身のピアニスト菊池彩佳さんの「ピアノ協奏曲第一番ホ短調」、渡辺友子さんの「協奏曲第二番へ短調」を懐深くエスコートして、若きピアニストたちに飛躍の夢を与えてくれたのではないでしょうか。地震が心の中でも余震を繰り返しておりましたので、落ち着かなく、なにか観客の一人として申し訳ないことでもありました。
 やっぱり若さはいいですね。これから先にたくさんの時間を持っていますもの。ピアノを弾く姿、とてもステキでした。登場でステージが華やぎました。  チケット下さった○○さん、ほんとうに有難う!いつも感謝してます!!


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その昔梅村保は・・・礼儀をわきまえた音楽家

 おばちゃんが「礼儀」などという言葉を持ち出したが最後、「悪いこといわないから、それだけは止めといたら」などという忠告が聞こえてきそう。そうなんです。もうおばちゃんの礼儀知らずときたら、既にこのあたりにしっかりと知れわたり、「ああ、あいつか、ろくに礼も言わん、頭も下げん奴だ」ということに。トホホホホ。これは本当言うと、慣れない人だったり、自分よりも素晴らしい人だったりすると、もう緊張して凍っちゃうためなんです。ほんとです。何か言わなくちゃ、とあせればあせるほど言葉が出なくなって、あ~、もう怒られちゃうぞ~と分かっていても言葉が出なくて、それでやっぱり見ると、もう相手はカンカンに怒っちゃってるんです。悲しいです。トホホホホ。
 ただ、きょうは、大正時代、梅村保は、そう、またまたこの話でごめんなさい。これしか知らないので、やっぱりこの話に。

 梅村保は、当時、東京で活躍している音楽家たちを盛岡の音楽会に呼ぶためによく交渉にあたりました。人望がありましたから説得力もあったでしょう。この梅村保自身もチェロやヴァイオリンを弾く音楽家でした。当時の新聞には梅村のヴァイオリンの右に出る者はないとありますから、現代に比べれば大変な落差はあるでしょうけれども、とにかくその頃は盛岡ではかなり上手いほうだったのではないかと思います。これは赤沢長五郎が盛んにヴァイオリンで鳴らすようになった前のことですけれども。
 この梅村は、ある方の研究によると、東京の名だたる音楽家たちと同じステージに上がることは決してしなかったそうです。もし梅村が東京の音楽家たち即ちハイドンカルテットや榊原トリオと一緒にステージで演奏したいと願えば、それは容易に叶うことでした。理由は言いませんが。叶うのにそうしなかったのは何故か。おばちゃんは初めは分かりませんでした。でもいまは梅村は恐らくこう考えただろうと思うのです。もし自分たちが同じステージに立ったなら、いま活躍真っ最中の中央の花形ヴァイオリンニストやチェリスト、ピアニストたちの格を自分レベルに引き下げてしまうことになりかねない。たとえそれ相応の出演料を支払うとしてもこんな失礼なことがあるだろうか。しかもまだまだ未熟な自分たちに、彼らが何とか合わせなければならず内心苦り切っても言えないでいるとしたら・・・恐らく梅村率いる太田カルテットの中には、是非にも一緒に弾きたい、彼らと一緒にやれば名誉なことだし記念にもなるし第一自分たちが光るじゃないかと望んだメンバーは居たはずです。しかし梅村保が太田カルテットの主宰者であるうちは、決してそれをすることはありませんでした。

 ところがトホホなこのおばちゃんは、音楽ではなくこれは小説のことですが、もうプロの作家の方々と並びたくて並びたくて醜いばかりに四苦八苦。何しろ岩手にも素晴らしい作家の方々が居ますのでね。次つぎに本を出版したりで。おばちゃんみたいにたった一冊の自費出版じゃないんです。海外に翻訳されることになったりの方も。でももう気づきました。梅村保が同じステージに上がらなかったことを思いだして、ついに気づいたのです。おばちゃんの力からして、というよりプロの方々に比べてこれほど力に落差のあるおばちゃんが、つべこべ勝手なことを言いプロの作家と並ぼうとすることが作家の方々にどれほど失礼なことであったかに。自分で自分が見えないってこうも怖ろしいことなんですね。もっと怖ろしいのは、まだ未確認の自分の部分があること。でもこれもまた神様が見えるようにしてくれるでしょう。そのうちまた赤恥の一つ二つかくことでね。

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地震える

 震撼。家屋がぐらぐらと揺れるのを感じながら、よもや四川のようにはなるまいと思ったが、収まらないので外へ走り出た。近くにモミ治療にいった89歳の舅を追いかけて、追いついたところで揺れが止んだ。余震が来るかも知れないので気をつけて下さいというと、たったいま大揺れだったことに気づかなかったようだった。90になろうとする高齢者の平衡感覚がどういうものであるかに気づいた。もしかすると地震の揺れも自分の平衡感覚が鈍くなっていてたまによろけたりもすることがあるので、そうなのだろうと思っていたかもしれない。何れ被害、けが人はなかった。 
 秋葉原の事件、今日の地震と何かたて続く。一つが収りつかないうちにまた別な事態が起きてしまう昨今だ。
 何と言ったらいいか言いようがないこととなると、何も書けなくなる。書きだしても自分の書いた言葉に虚しさを感じてしまうのだ。そんな時は書いた言葉を消す。それで新たに別な言葉が出てくるかというと益々書けなくなる。益々書けなくなり、ただただ時間だけが過ぎまたいよいよ書けなくなる、そんな具合だ。一日を終えてやっとこの時間に・・・

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オペラ  アリアー日ロ友好ふれあいコンサートー

 昨日、日ロ友好ふれあいコンサートを聴いた。6月13日(金)18時30分開演。岩手県民会館中ホール。日ロ協会(NPO法人特定非営利活動法人日本・ロシア協会)岩手県センター主催。
 近所のT子さんご夫妻がチケット販売だけでなく非常に熱心に協力しておられるので、チケットを一枚買わせていただいた訳でした。
 日本の歌「初恋」「荒城の月」「この道」など7曲は、日本語で丁寧に歌ってくれましたが、曲自体も静かな感じなので、この段階では
ラリサ・シャリナ(ソプラ
ノ)ボルコフ・イーゴリ(バリトン)どちらもロシア連邦功労芸術家賞の素晴らしさが見えては来ませんでした。言語の壁。ソリストたちが馴染まない言葉で歌うことの若干の歯がゆさ歌いにくさが感じられました。しかし「トロイカ」「黒い瞳」となると、そうこれこそ、どのように歌われるかを聴きたかったものなのですが、まさしくロシアの大地の円熟。来て良かった!そう思った瞬間でした。もうこのあとはこの通りだろう。ところがそれ以上だったのです。中ホールの人数だけで聴くのはもったいないなとも。声量、音域が豊かであるばかりでなく、歌劇の一場面を実にユーモラスに演じてくれるなど、時間を忘れて楽しみました。代表的な歌劇から12曲。プログラムの最後は「乾杯の歌」でした。
 手が痛くなるほど拍手をし、これならCD買おうかなと思ったとたん、そうだ財布にお金を入れて来るのを忘れてた、あ~あ・・・
 自転車で帰る道々・・・ま、これで良かったかな。うん、空のお財布でよかった。倹約、自重。こういう結論に。
 これだけの要素を併せ持った声楽は盛岡では滅多には聴けません。
    

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カラタチー美しき棘ー

 きのう岩手放送の前を通りました。隣のスーパーに行くためです。というのは表向き。ほんとうは岩手放送の通りにあるカラタチの生け垣を見るためです。
 きれいな緑色のひこばえがたくさん出ていました。葉がかっちりとしっかりとつやつやとしています。二本の美しい曲線の合流点で棘が鋭く尖り光っています。秋にはピンポン球のような実がいっぱいに。カラタチが夕陽や朝日や朝露を帯びたときの美しさは!
 あの亡くなった庭師さんにお茶をだしたときに、「カラタチを植えたいんですが」というと、「棘が刺さる。靴を通すぉんさ。植えで貰いたぐねな」というので諦めたのでした。
 以前は近くの校庭にもあったのですが伐ってしまったようです。危ないからでしょう。とても残念でした。それで見たいときには、この生け垣を見ることにしているのです。
「カラタチの花が咲いたよ白い白い花が咲いたよ・・・カラタチのとげは痛いよ」という歌詞がありますが、棘が痛そうと感じたことはなく、見るたびに面白い屈折を見せる茎から出るカラタチの棘ほど美しい鋭さはないと感心してしまうのです。

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天才画家エミリー・ウングワレーー民族の叫びー

 アボリジニの固有文化の中で、文明(何をもって文明というかは分からないが一応)からは隔絶された限られた生活空間の中で描き続けているエミリー。またまた手軽な知識源からで申し訳ないのですが、オーストラリアに囚人を含む移民が入り彼らがハンティングの対象にされることから始まり数々の不幸な過去を1時間ばかり読むうちに気づきました。エミリーは文明という存在を知っている。知っているが寧ろそれを選ぶことをせずに生粋のアボリジニとして生きることを選択しているのだと。だからこそあのような絵を描くことができるのかもしれないと。
 書籍、音楽、絵画がアルハルクラにどれだけあるか分からないが、とにかくそういったものに触れようが触れまいが彼女の中からはあの色彩がわき出てくるかのようだ。ヤムイモ(サツマイモに似たいも)のつるやヤムイモが熟すときに割れる土のひびやボディ・ペインティングの縦縞などが彼女の線。色彩は、あの色彩はほんとうにどこから?
 
 毎日音楽というものを聴き、たまに絵画というものを観る機会にも恵まれているはずが、このブログの管理人は自分がこの程度であることを思い知った次第でした。
 
 

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エミリー・ウングワレー展ー国立新美術館にて7月28日までー

 上京三日目(9日)は姉も共に国立新美術館へ。国立新美術館は亡き黒川徽章氏の設計です。ダイナミックに円盤を持ち上げその上に喫茶やレストランを載せている。外観は曲線を生かしたガラス張り、などと下手な説明をするよりもちょっと検索すれば風変わりな建造物がすぐに出てくるのですが。コレクションを持たない1400㎡の展示スペースを持った美術館です。
 奇しくもモディリアーニの最終日でした。入場者は5月29日時点で20万人を突破したようです。時間節約と見所を素早く掴むため音声ガイドを耳に巡りました。当たり前のこととはいえ印刷物とは大違い。それは素晴らしいものでした。彼のパトロンが当時、ピカソの絵の二倍はする、といったそうです。ほんとうにそうかどうかは別として、芸術は値段ではないとはいえ、その評価には納得するものを感じました。1919年のジャンヌなどの人気が高いようですが、わたしは1918年のバラノフスキーがいいと思いました。
 モディリアーニ展、いまは大阪です。

 今ひとつの展覧会エミリー・ウングワレー展は、絵画を理解するに時間がかかりました。一見包装紙や和服地のようでもありましたから。
 エミリーが描いているときの姿、映像には打たれるものがありました。オーストラリアの先住民族アボリジニとして生まれ、固有の文化の中に生きながら、作品が確固たる評価を受け数億を売り上げる存在になってからも、アトリエも持たず、変わらずに赤土の上に座って赤土の上にアクリルカンヴァスを広げひたすらにに描き続けている異色の作家でした。ろうけつ染めのバティック、点描画など。色彩の豊かさには驚かされます。あの色彩を彼女はいったい何処で見たのか。彼女の住む周りアルハルクラには赤土とその上にやっと生え出たかの低木、そしてボディペインティングの縦縞、エミュー、ヤムイモの色彩の他にないように見えます。
 ドリーミング。解説によれば「アボリジニの宇宙観や創世、祖先、宗教的及び社会的な行為に関する掟、彼らの生活を支える霊的な力、それらに関連する物語を包括的にさす」。理解するにも何やら現実味に遠いのですが、エミリーの体内にあるこのようなモードから、100点余の膨大な作品群のなかに、あの摩訶不思議な色彩がとくとくと流れ込んでいるような気がします。圧倒されつつ見て回るうちに、しまいには、この色彩は、エミリーをアボリジニの代表者として、すべてのアボリジニの人々、アボリジニの民族の熱き祈り、熱き望みが溢れ輝き出たものであるとも思われてきたのでした。

 

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力をさらに引き出してくれるものは?

 またまた小林研一郎のコンサートのことですが。
東京芸術劇場の開演10分前で、果たして当日券は何枚あったか。急遽、甥も一緒に聴くことになり当日の朝、どこぞのプレイガイドに電話していたようですが巧く繋がらず、会場まで一緒に行って、もし空きが無ければ諦めるということで同行。さてホール前で座席表を覗き込むと、大ホール1999席のうち、これはざっと見た目でですが20席ばかり空きがありました。曲目によって、或は指揮者によって数は違うのでしょうが、コバケンのオールチャイコフスキーのこの日はそうでした。当日時間ぎりぎりでも入れる可能性はあり、諦めずに・・・と思いましたが・・・
 演奏の最後の決め。拍手とブラボーが飛び交い、アンコールに応えるときに、コバケンが会場に向かい、・・・拍手ブラボーに引き出され成長する・・・といった内容の挨拶をしました。そのあとのブラームスのハンガリー舞曲第5番は事実喜びに満ちあふれているとわたしには聞こえました。

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ただいま帰りましたー数年に一度の旅からー

 ただいま!といっても、3時間前なのですが。めったに遠出することはありませんが、今回は倅の新しい住居というにはちょっと手狭な空間を見てきました。寝起きするところが確かにあり雨漏りも無し。何とか勤め先も与えていただき、そんなわけで3食も付き、最悪でも納豆か卵は食べられるらしいので、これで安心かどうかは分かりませんが、良しとしてきました。
 次の上京は甥か姪の結婚式でもなければ、5年後あたりでしょうか。
 
 今回のハイライトは、「40年ぶりの再会」でした。時は6月7日12時頃。場所は東京駅。夫の友人が現れそれから少し待つと私の友人が40年ぶりに姿を現してくれました。赤い縁取りのハンカチですぐに分かりました。ほんとうに嬉しかったです。変わっていない! というのが最初の印象でした。けれども、もし待ち合わせなければ、あの人混みの中で彼女が向こうからやってきたとしても、多分気づかずにすれ違ってしまったでしょう。40年の時間差がまったく感じられませんでした。昨日も会っているし今日も会う、そういう感じでした。そういう話し方でした。互いに「久しぶり!」と言いながら、互いに久しぶりとは思っていないのが分かります。面白いものです。
 彼女が丸ビル前から出るスカイバスの券を二枚取っておいてくれました。コースは、三菱ビル前、皇居(大手門)、国立近代美術館、イギリス大使館、国立劇場、最高裁判所、国会議事堂、霞ヶ関(各省庁)、銀座、東京丸の内、三菱ビル前。所要時間50分。車上からの見学でした。皇居といっても、個人で歩けばどこか一箇所です。このようにぐるりを回ることはしません。初めて皇居を一周したわけです。官庁街もこれだけ自分の足で回るとなると一日がかり。日本の頭脳に当たるビルを何と50分で一つかみに。この辺りが全国を統括し、ここから全国に司令が飛んでるわけでもの凄い一角です。外務省辺りに日の丸とトルコ国旗が掲げられていました。本日のお客様でした。過半数がイスラム教の国。経済的にも政治的にもヨーロッパの一員として扱われるらしく、欧州への加盟を申請中なのだそうです。このあたりに一見暇そうに立っている警官の配置もあらゆる危機を想定した位置での監視なのだろうと思いました。厳重です。
 オープンの二階バスなので、街路樹が頭上近くに迫り、まさに樹木のまっただ中をくぐり抜けるわけで、これはかなり贅沢な気分の良いものでした。しかし皇居の緑の贅沢さ。広さの贅沢さ。「国有財産としての皇居の価値は平成15年で2188億1000万円」(ウィキペディアより)だそうですが、彼女は言いました。「これってみな税金だよね」
 三菱ビルに戻り、36階建ての丸ビルを上へ上へとエレベーターで。何と降りたフロアーで結婚式を挙げるカップルが。一般の方々も周りにいます。私たちも見ることに。神父さまが設けられた講壇に立って聖書を広げています。その右傍らではオルガン、バイオリンの伴奏で音大生と思われる3人が、アメイジンググレイスを練習していました。曲に聴き入りながら、きょうの再会を祝福されているような想いがしました。「いかなる恵ぞかかる身をもたえなる救いに入れたもうとは。この身もかつてはこの闇路にさまよいいでたる者なりけり」。新郎新婦が現れ写真撮りでした。記念にこのカップルの写真も撮りました。けっこう待ったのですが、どういう訳か式はまだ始まらないようなので、東京駅に戻り、お茶を飲みました。そのときに彼女の息子さんの写真を見せて貰いました。どんなに彼女も安心であろうかとわかりました。ほんとうに嬉しく思いました。こんどは盛岡に来てくれます。8月です。
 夕刻吉祥寺で姉たちと合流したのですが、彼女が、電車に乗るところまで送ってくれました。8月にまた再会です。盛岡の観光バスに一度乗って見たいと思っていたのですが、ちょっとそんな事を考えてもいます。

 8日午後は、東京芸術劇場。池袋1丁目。地下4階、地上10階。平成2年11月会館。大ホールは1999席(マリオス大ホール1510席、岩手県民会館1991席)。設置のパイプ・オルガンの製作者は仏のマルク・ガルニエ(フランスオルガン建造者協会名誉会長)。盛岡のマリオスのパイプオルガンもマルク・ガルニエ製とか。
 このホールでの2008年6月8日午後2時開演は、
 日本フィルハーモニー交響楽団
      第178回サンデーコンサート
 指揮  小林研一郎
 ヴァイオリン  有希マヌエラ・ヤンケ
 コンサートマスター  木野雅之

 チャイコフスキー:
       歌劇《エフゲニー・オネーギン》より
       「ポロネーズ」
 チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲ニ長調
 チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調

 やっぱり生演奏は聴かない方が良かったかな、というと驚かれるでしょうけれども、生演奏はCD、DVDに比べて圧倒的に良いので、どうしても音盤での鑑賞が物足りなくなるわけです。とはいうもののやはり聴いて良かった!!迫力があり最高でした。

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40年ぶりの再会

 東京に就職した息子の様子を見に上京する。まだ一度も行っていない。もう暮らしぶりは息子から、同地に住む姉から甥から聞いているので、分かってはいるのだが。
 これはついでというのでは決してないが。昔、中学校卒業後に半年ほどで引っ越してしまった友達が、今横浜にいる。年賀状などのやりとりでこれまで続いてきた。かねてからいつかは会いたいと思っていた。だが会えそうにもないとも思っていた。今回決断して面会を申し込んでみると、「是非とも」と言ってくれた。何回かメールのやりとりで日程や着時刻を確認した。東京駅の地図に「ここで」とポイントし送ったところが、できるだけ遅れずに出てきてくれるという。すっかり安心しきっていたところにまたメールが入った。
「一つだけ心配なことがあります。
あれから40年経ってますから、
もしかすれば顔がわからないかもしれません。
わたしは赤い縁取りのハンカチと
白地に花柄の紙袋を持つことにします。
よろしく!」
 わたしはじんと来ていた。顔がわからないかもしれない・・・。それと不思議だったのは・・・わたしはその日、彼女に三陸産のものと、赤い縁取りのハンカチをお土産に買ったのである。赤い縁取りのハンカチ・・・
 中学三年の時、いつもぽつんと一人だったわたしに友達ができた。八戸から彼女が転校してきたのである。ウィットのある年賀状をくれたり、得意な英語を教えてくれた。からっとした性格だ。だからこそわたしにはぴったりの友達だった。ところが家の事情で一旦は学業を断念し東京へ転校。もともと彼女は成績も良かった。もし盛岡に居たなら然るべき高校に進学していた筈である。摂理的に、彼女は看護師としての道を選んだのだった。
 夫は夫で自分の大学時代の友人に会うことになっている。
色々と見たいところもないではないが、息子が芸術劇場の音楽チケットを取ったので、今回はそれに乗ることにした。芸術劇場のパイプオルガンもいいが、今回は、中学校の時、わたしに明るい思い出を残してくれた友達との再会がハイライトとなるだろう。
 

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主婦の本分

  ゴミを出そうと外に出ると雨が降っている。草花が色濃く潤っているのには豊かさを感じる。それでも傘をささないで集積所にゴミを積み上げる。ゴミ当番の方がヘルメットを被って、網の裾からカラスが嘴を入れないように石をこまめに置いていた。ヘルメットが、カラス対策のためかどうかは聞きかねた。

 昨夜はヴェートーヴェンの交響曲1、2、3を聴いた。一度では済まない。もう止めようと思ってもついついである。棚にカラヤンのはけっこうある。だが今まで、カラヤンのある部分への反感から、取り出すことをしなかったが、昨日かけてみたら、これがけっこう良かった。けっこうどころかまた聴きたくなるものだった。ベルリン・フィル。1971年録音。「オーケストラは急傾斜の3つの逆三角形に配置」(解説書通り)されているが、これもとても新鮮なのだ。ヴェートーヴェンはハイリゲンシュタットの遺書以降のものがドラマチックで、確かに勇気、感動をくれる。3番がそうだ。
 ただここで思うのは、ちかごろあまりにも音楽にのめり込み過ぎている。主婦がこれでは、やはり問題なのだ。分かりつつである。同じこの時間帯で本を読んだ方が良い、掃除機を掛けた方がいい、床を磨いた方がいいのだ。
 あまり音盤を見ないことにしたほうが良さそうだ。なぞというまに、もう昼時。楽章の区切りまで聴くべきか、主婦の本分としては即座に止めて昼食にかかるべきなのだが・・・それが問題だ・・・中止だ、中止!中止!!

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木の匂い

 余分な枝葉を刈り払われた木々がすっきりと見えます。庭師さんが枝を落としている間は庭中に樹木の匂いがしていました。松、ヒバ、トウヒ。下にばさばさと落ちてくる枝葉は青々としていてきれいです。手にとるだけで生気が伝わってきます。これも土の養分も吸って大きくなったと思うと、処分するのは土を捨てるみたいな気がします。でも仕方がありません。持っていって貰いました。
 木の匂い。子どものころは、父や兄が薪割りをしたものでした。これは軒下に積み重ねて置くうちにあらかた乾燥していますから、断ち割ってもそれほど木の匂いはしません。
 丸太を積み上げている敷地には木の匂いがします。しかし今はそんな光景はとんと見なくなりました。松、ヒバ、トウヒとそれぞれ匂いにも特徴があります。スギも分かります。ブナとかセンノキなどはどんなでしょう。北上山地でのそまの仕事が思い出されます。
 数十年前には、家を建てている傍に行くと、大工さんが鉋や鋸を使う度に、面白い木くずが出るのが眼に見えていました。いまは輸入材などで出来上がった建材を多く使うのでしょう。そんな光景もあまり目にしなくなりました。
 いま建材としては国産ものとしては杉、椹(さわら)、檜、栗が用いられているようです。さて外材は?どこからどんな木が来てるの?となると、もうとても覚えきれないくらいです。東南アジアからは26種類、アフリカから14種、中南米・南米から27種、北米・欧州から10種。年間何㌧入ってきているかを知っても役立てるところもありませんので調べませんが。伐採する現地の人たちはこれらの木の匂いを知っているでしょう。こうも伐採されているとなると、何か、刈られるたびに木から血が流されているような気がしてきます。
 庭師さんが刈った木からは、また新しい枝葉が伸びてきます。そして伸びすぎるとまた散髪をお願いします。木がほどよく形を保つために毎年一回伐るのです。

 
 

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パイプオルガンーバッハの憧れの楽器・その2ー

「このパイプの赤い部分をどうするか考えよう。ここはふつう長年の間に灰色に退色してしまっているから、この灰色部分は赤く彩色する必要があるね」
外器の外装を塗ったり銀メッキするのは塗装職人である。まず表面を清める。ブラシに銀箔が貼り付くように静電気を起こす。昔からのノウハウが使われる。組み立てスタッフは約10名。
 1999年11月組み立てが始まった。4500本のパイプが配列される。クワイア・オルガンと小パイプ群、グレイトとその上にスウェルが据えられる。翌12月聖トーマス教会にオルガン設置が始まった。オルガン造りには体力がいる。このオルガンは群を抜く規模となる。シルバーマンの音栓の最大数は47、ヴェールの新オルガンは61。61列のパイプが並ぶ。銀色の前面管が輝く。調律は製作者自らが行う。反応を確かめながら調律する。合金の唇管はその縁を曲げ伸ばして調律される。ベーメの努力が報われるときが来た。バッハ時代の本当の音色を知りそこに到達する努力が必要です。18世紀の様式に従いました。現代調律と比べ音程は半音高くしました。それによって響きはより輝かしくバッハの考えた音になります。また音色の再現も試みました。もちろんこの楽器は現代の制作品であり単なるコピー楽器ではありません。製作者が夢見たバッハの憧れの楽器がいま鳴り響く。


以上は、DVD「音楽のささげもの BWV1079 」の付録でパイプオルガンの製作映像の字幕を拾ったものです。パイプオルガンの製作にずっと興味をもっていましたが、よい映像にめぐりあいました。興味のある方はDVDをご覧になってみて下さい。すばらしいです。

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パイプオルガンーバッハの憧れの楽器・その1ー

 TDK  COLLECTION  DVD  Classics
 ヨハン・セバスティアン・バッハ
 音楽の捧げものBWV1079
 ライプツィヒ・旧市庁舎にて
 付録ドキュメンタリー「聖トーマス教会の新オルガン」


上記のDVDから付録の映像の字幕を、そのまま拾って、以下に紹介します。
バッハ(1685~1750)没後250年ライプツッヒの聖トーマス教会ですばらしいオルガンが完成した。2つの楽器がモデルとなった。外装は市の大学教会のオルガン、音栓とパイプ数は伝説的なアイゼナッハのオルガン。アイゼナッハにテューリンゲン最大の楽器があった。聖トーマスのオルガニストベーメはその楽器の仕様記録を発見した。
 バッハが受洗した聖ゲオルグ教会、そこでバッハの叔父がオルガンを設計した。1698から1707年そのオルガンは制作された。その厳粛な響きはバッハを感化しただろう。とどろく低音部と輝かしい高音部の響きを特徴とする。
 ヨハン・クリストフは熟慮しました。彼は書いています。
 音栓配置を見直しました。このオルガンがすべての可能性を満たすため次のような変更を心から提案します。
 ヨハン・クリストフの設計図をもとにオルガン製作者ヴェールはこの企画に取り組んだ。マールブルクの仕事場では、4500本あるパイプの寸法が引かれる。最長パイプは9、6メートル。最短は8ミリしかない。設計にはまる2年をかけ、費用見積りは200万マルク(ウィキペディアの対円為替レート参照下さい)に達した。
 オルガンの製作者は、鉛・錫・銅・木などの性質を熟知し、それらの材料を調和させ楽音を奏でさせます。作業法は変わっても楽器の形状と材料は過去数百年間変わっていない。バス管ようの松やトウヒが削られ、小パイプには果樹材が使われる。ここでは錫と鉛の合金が加工される。シルバーマンによる混合比の合金が使われる。シルバーマンによる寸法でのカットこの工程は重要でフルート音栓の響きが左右される。

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盛岡バッハ・カンタータ・フェライン演奏会

 一週間前、加賀野にある呉服店のM子さんから、盛岡バッハ・カンタータ・フェライン演奏会のチケットをいただいた。こういう僥倖はおばちゃんちには年に一度あるかないかだ。もしやクリスマスに来るべきものが早々ともう来てしまったのかと喜んだものの、おばちゃんはエプロンで手を拭きながら「えっ?カンタータってなに?」てなことになってしまった。
 ちょこっとパソコンをのぞいてみると、どうやら伴奏付の独唱とか合唱らしい。キリスト教の礼拝などで演奏された「複数の独立した楽章からなる声楽曲」だそう。
 じゃ、どんな人たちが演奏するのかな?と見てみたならば、

指揮   佐々木正利
管弦楽 東京バッハ・カンタータ・アンサンブル
オルガン 劔持清之
合唱   盛岡バッハ・カンタータ・フェライン
独唱
バス    小原一穂・阿部学・佐々木直樹
       佐藤和久・千田敬之
テノール  西野真史・鏡貴之・及川豊
ソプラノ  村元彩夏・小原育世・田村いずみ
アルト   谷地畝晶子・中野和子

という方々でした。合唱はソリストを含めて女性63人、男性33人。総勢96人。経歴は省略しますが。

さて当日6月1日マリオス大ホールでの演奏会は午後三時開演。
おばちゃんは語学が駄目なので、大慌てに慌てました。入場の時、親切な鑑賞の手引きと歌詞対訳が載った解説書が手渡されたのですが、時間ぎりぎりに入ったために、音楽家たちのプロフィールを読んでいるうちに開演となり、慌てて歌詞対訳のページに飛んだのですが、いま歌っているところがWV18の何番目になったのか即座に把握できず焦りました。4、アリアでやっと心が静まり、旋律に乗ることができました。ところがところが、BWV18が終わったとき、聴衆のほとんどが、ここが区切りであることに戸惑っているのが分かりました。迷いためらったまばらな拍手。せっかく多くの時間をかけ、これほどの合唱を聴かせてくれたのですから、せめて第一弾のおわりには、演奏者、聴衆の双方に次の弾みをつけるためにも、きちんとした労い、感謝、喜びの拍手が欲しいところ。
「ここが区切りです」と、このおばちゃんにもよく分かるような何か工夫をして頂けたなら嬉しいのですが。
 神への信頼、愛、服従、感謝、贖罪(キリストの血は、私の罪のために私に代わってキリストが罰を受けて懲らしめられ流された、と信じるとこにより救われる)など、聖書の語るところが歌詞となっていました。ゆったりとした癒しの二時間をすごすことができ、最後の尽きない拍手の嵐を胸にたたみながら、静かなほんわか気分で帰途についたことでした。

ありがとう!バッハ・カンタータ・フェライン!
  

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山吹の花ー園井恵子ー

 きょう私が家の前で、塀周りの草花の写真を撮っていると、94歳になられるある方が通りかかった。しばらく樹上の庭師さんを見上げていた。この方は、この敷地に舅夫婦が暮らすようになったさらにそれ以前、およそ74年前にここに学生として暮らしたことがあるという方だ。木にも思い出があるのだろう。
「樹齢はどれぐらいかな?」と訊かれたので、
「たぶん100年は経ってると思います」と単なる憶測で答えた。
それから木戸の下から繁っている低木の枝を指さされ
「この山吹はどうしてここに生えているか?」と訊かれた。
「庭にある山吹が根を伸ばし外にまで生えてきたんです」と私。
すると仰った。
「これは園井恵子の好きな花だ。園井恵子とは川口小学校で同級だった。板東妻三郎の相手役だった」

 園井恵子。1913(大正2)年8月6日生まれ。1945(昭和20)年8月21日広島で被爆。
 岩手県松尾町(現八幡平市)に三姉妹の第一子として生まれる。祖父は松尾村村長。本名袴田トミ。身長155㌢。幼少時に経済的苦境に陥り、後に北海道小樽市に移住。小樽女学校卒。宝塚入団。女優。大映「無法松の一生」で板東妻三郎らと共演。「無法松の一生」の中国巡回公演の途中、広島で被爆し世を去る。

 園井恵子が川口小学校に在学した、つまり岩手県岩手町に住んでいたことがある事は、4通りばかり検索した限りではどこにも出ていない。或は省略されているのかもしれない。川口小学校とは、岩手町立川口小学校であり、所在地は岩手県岩手郡岩手町大字五日市第10地割44番地にある。この方が小学校で同級だったのであれば、園井恵子は幼少期に経済的に困窮し、次には何らかの事情で岩手町に転居し、そこで何年かを過ごし、そののち小樽市に引っ越したことになる。ウィキペディアにも記されていない一項目だ。この方の記憶にある園井恵子。山吹の花はもうとっくに散ってしまっていたが、山吹をご覧になって思い出された園井恵子。あのはかなげな楚々とした美しさが童顔となって浮かんだ。

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カラス、人間を威嚇する

 庭に高い松の木があります。ゴミ収集のある日は、カラスがこの木のてっぺんを待機所にしながら、いつも生ゴミを狙っています。近頃は人の頭すれすれに滑空し、ゴミを出しに来る住人や掃除当番を怖がらせていました。
 亡くなられた庭師のNさんの後を引き受けてくれた庭師さんが、今朝8時に来ました。15、6メートルばかりあるこの松の木に梯子を掛けて、てっぺんまで登り、伸びすぎた枝を次つぎに切っていました。そこへカラスが、庭師さんの頭すれすれに飛んでは、それを繰り返したのです。示威行為なのでしょうが、明らかに威嚇しています。危険を感じ外へ出たものの、為す術がありません。庭師さんは、カラスが飛んでくるたびに頭を低くしてかわしています。下りて貰おうと思ったとき、カラスが方向変換しどこかへ飛び去りました。ほっとしました。作業は順調に運び、庭師さんは無事地面に着地。危険な大気圏外から宇宙飛行士がいま無事に地球に降り立ったかのような心持ちがしました。
 そのあと、ふっと気づいたのです。あのカラスは、いったん自分が人間を傷つけたが最後、人間は決して自分を生かしてはおかない事を知っている。本能的に、人間は自分たちカラスよりも賢明であることを知っていると。
 カラスは直感力、洞察力にも優れた生き物だという気がしてなりません。いつも松の木の上から路上に糞を落とし、困った輩と決めつけてきたのですが、カラスの賢さがいよいよ分かってきました。

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忘れていた航空事故

 早くも六月。一日のブログは随筆の後半部分を書くことでスタート。400字詰め原稿用紙で5枚の予定が7枚ほどになってしまった。投稿ではないので気楽なものです。
 随筆には全日空機と航空自衛隊ジェット機の空中衝突事故を書いてますが、全世界ではどれだけの航空事故が起きているのか気になり検索してみると、何と1947年~2007年までの間に908件でした。

事故の多い航空会社は?

アエロフロート航空(AFL)  85件
エールフランス(AFR)     21件
ユナイテッド(UAL)      21件
パンアメリカン(PAA)        18 件


雫石上空の事故が1971(昭和46)年ですが、
1985(昭和60)年には日本航空123便墜落事故(群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に激突)で520人が亡くなっています。520人......雫石に照らして、その凄惨さを改めて想ったことでした。

航空事故ではありませんが、
四川大地震は死者6万7千人、被災者4500万人を超えたという。日本全土の距離に匹敵する被災地。地上で見るのは一部分、テレビ画面にも一角しか入らないが、こういう物のいい方も不遜不埒かもしれないが、端から端まで上空から見た惨状は累々とまた想像を絶するだろう。
日本政府は5月30日に5億円、テント1200張りの追加支援を発表したようだ。

 

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随筆ー慰霊の森・その2ー

 さらに慰霊の森の碑を右に見て、ついに550段を登りきった。慰霊碑の前で、慰霊堂の前で、私は私の神である天の父なる神に祈った。一瞬にして召された多くの魂が至福にあることを信じ、ご遺族の幸福のために祈った。これほどの惨事を目の当たりにした遺族の方々は、いま何処で、これまでどのような心境を持ち続けて来られたのだろうか。
 備えられてある参拝者名簿に名前を記す。見ると十月に訪れた方々が多くいらしたことに気づく。紅葉に合わせての参拝なのだろうか。そうだ今年で三十三年。そうか三十三回忌なのだ。もしかすれば航空会社が参拝の便宜を図ったのかもしれない。
 空の青さが幾分翳り、風が心持ち冷たくなった。遠慮がちにさわさわとわたる風に木の葉が一様に微かに震えている。亡き方々の声なきさざめきとも聞こえる。登るときには感じなかったが、さてこれから段を下ろうとするいまになって、私は名状しがたい心寒いような寂しさに捕われていた。単独行はすこし無謀だったかな......その時だった。下の方から、姿は見えないが明るい子どもの声が聞こえて来たのだった。ほっとした。しばらくすると大きな花束を抱えた三人連れが登ってくる。五、六十代と見えるご夫婦と、女の子はお孫さまかもしれない。ご婦人の目が私に注がれた。私を遺族と思われているのが分かった。大変でしたねと昔日の家族の阿鼻叫喚、難航する遺体捜索の悲しみを共感するかの眼差しだった。
「どちらからいらしたんですか?」
「東京です」
「ご苦労様です。私は地元のものです」
「ああ、大変お世話になりました。わたし、まなべと申します」
 私が東京のような遠隔ではなく岩手の者という意味で「地元の者」と申し上げたのを、この方は、事故のときに世話になった地元雫石町の人か捜索に携わった関係者だと思ったらしかった。
 この方々と一言二言交わしただけで、私は完全に寂しさから解き放たれていた。薄ら寒い林の中の階段も暗くはなかった。足取りも軽く登り口まで辿り着くと、私の車の隣には、東京のある区のナンバーの車が並んでいた。一期一会。真鍋さん。いったい真鍋さんのどなたが事故に遭われたのだろう、などと思いながら、私は、一路鶯宿温泉病院に向かった。
 事故の全容が知りたくなって、私は、翌日県立図書館に行き、昭和四十六年七月三十日からの岩手日報新聞を開けてみた。石鳥谷町の大川さん撮影の墜落の瞬間の写真が載っていた。機体が煙を吐いて落下してゆく。機内の人々の絶望的な恐怖感がひしと伝わってきた。そうだ真鍋さんは.......私は慌てて頁を進めていた。三十一日付の乗員乗客名簿の中に「真鍋」の二文字を探した。無い。どうしたことだろう。聞き違えたのだろうか。もう一度探した。すると一般乗客の中に、真部マツヱ(73)とあった。ああ、この方だ。真鍋さんではなく真部さんだったのだ。あの方々は真部マツヱさんのご遺族なのだ。続く紙面には機体の残骸、無惨な遺体のの捜索の難航の記事が大きく綿々と続いていた。
 階段を登ってゆく三人の姿が浮かんだ。あの方々にとって、マツヱさんの死を思い出すことは、あの山での惨劇のことごとくを思い出すことだったに違いない。その度ごとに、どれほど胸を抉られたかは計り知れない。お会いしたときの表情からは、事故に纏わるさまざまを整理し終えたかの晴れやかさも感じられたが、そこに至るまでの時をすごすこと自体が並大抵のことでは無かったろう。
 慰霊の森。秋は落葉を降り積もらせ、冬は雪に深く埋もれ、春にはまたそこに草や低木、そして灌木を芽吹かせる。早三十三年は過ぎ、いまは五十年へと。そのときに果たして何人の方々が参拝に訪れるだろうか。たとえ参拝の人影があろうと無かろうと、この慰霊の森には、162人の犠牲者の無念と遺族の方々の悲しみが、やがては浄化されゆくとしても、籠もり続けるに違いない。
 

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