随筆ー慰霊の森その1ー
四年前のことになる。私はその日、腎不全で週三回九時から十二時まで人工透析を受けている母の迎えに病院へ行った。母を引き取って昼食を共にし、その後は買い物をして母が独居する家に帰り、すこしばかり身の回りを片付け、ゴミを持ち帰るというパターンだった。
ところがその日、母は「昼食、買い物は要らないから、友達のところに送って欲しい」ということで、時間が空き、私は、なかなか顔を出せないでいた鶯宿温泉病院に入院中のOさんを見舞おうと、盛岡市内から国道46号線に乗ったのだった。手作り村付近で左折。御所湖を右手に進むうちに、「慰霊の森」の標識が出ていた。一度登ってみたいと思いつつ果たせないでいた。またいつ来られるか分からないと思い、思い切って左にハンドルを切った。
ほどなく着いた慰霊の森の入り口の左手に案内板があった。
「昭和四十六年七月三十日午後二時五分頃・・・ここ雫石の空に突如轟音とともに全日空機58便727型機と航空自衛隊第一航空団松島派遣隊所属F86ジェット戦闘機の空中衝突事故が発生。北海道からの帰途、乗客162名の尊い命が一瞬にして梅雨明けの夏空に散った。世界民間航空史上最大の事故といわれ、・・・」
この事故があったとき私はちょうど雫石川の川原にいたのだ。暑かった。空が真っ青だった。友達もなく小遣いもあまり持たなかった私は、よく自転車で雫石川に出かけたものだ。空の向こうに金属の破片を見たように思ったが、確信はもてないまま家に帰った。まさかその時にこれほどの惨事が起こっていようとは。
たまたま通りかかったご夫婦が、腰に籠を紐でしっかりと結び、鈴をつけている。茸取りだろうか。「クマは出ますか?」と訊くと「出ない出ない」と言いながら、山奥への道に入っていった。550段の階段を果たして登れるだろうか。そうだ、弔いの心を持てば何も恐れることはないだろう。先の見えない段を私は上を見上げながら一段一段登りはじめていた。段の木枠の中に敷かれた細かな砂利の間に、まるで意図的に埋め込まれたように幾つものドングリが形を留めている。落葉を踏みしめながら、周りの林の中に繰り広げられた当時の惨状を想った。中折れた立木を見ると、自ずと酷い光景が連想される。
あのとき私はいったい何をしていたろうか。航空機、ジェット機が空中衝突した、たったこれだけのことしか分かってはいない。ろくに新聞も読んではいなかったのだ。悼む気持ちもどの程度であったか疑わしい。途中で立ち止まっては谷を見下ろし、林の上に広がる空を見上げる。またゆっくりと登る。汗が噴き出し、呼吸が苦しくなってきたときに林が切れた。木々が刈り込まれた高原のような一帯が展けたのである。ここだ!ここが乗員、乗客162名の捜索現場の中心地点に違いない。それにしても何という明るさだ。日が惜しみなく注がれている。これが夥しい血を吸い込んだ一帯とはとても信じがたい。そして何という静けさだ。
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