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2008年5月

随筆ー慰霊の森その1ー

 四年前のことになる。私はその日、腎不全で週三回九時から十二時まで人工透析を受けている母の迎えに病院へ行った。母を引き取って昼食を共にし、その後は買い物をして母が独居する家に帰り、すこしばかり身の回りを片付け、ゴミを持ち帰るというパターンだった。
 ところがその日、母は「昼食、買い物は要らないから、友達のところに送って欲しい」ということで、時間が空き、私は、なかなか顔を出せないでいた鶯宿温泉病院に入院中のOさんを見舞おうと、盛岡市内から国道46号線に乗ったのだった。手作り村付近で左折。御所湖を右手に進むうちに、「慰霊の森」の標識が出ていた。一度登ってみたいと思いつつ果たせないでいた。またいつ来られるか分からないと思い、思い切って左にハンドルを切った。
 ほどなく着いた慰霊の森の入り口の左手に案内板があった。
「昭和四十六年七月三十日午後二時五分頃・・・ここ雫石の空に突如轟音とともに全日空機58便727型機と航空自衛隊第一航空団松島派遣隊所属F86ジェット戦闘機の空中衝突事故が発生。北海道からの帰途、乗客162名の尊い命が一瞬にして梅雨明けの夏空に散った。世界民間航空史上最大の事故といわれ、・・・」
 この事故があったとき私はちょうど雫石川の川原にいたのだ。暑かった。空が真っ青だった。友達もなく小遣いもあまり持たなかった私は、よく自転車で雫石川に出かけたものだ。空の向こうに金属の破片を見たように思ったが、確信はもてないまま家に帰った。まさかその時にこれほどの惨事が起こっていようとは。
 たまたま通りかかったご夫婦が、腰に籠を紐でしっかりと結び、鈴をつけている。茸取りだろうか。「クマは出ますか?」と訊くと「出ない出ない」と言いながら、山奥への道に入っていった。550段の階段を果たして登れるだろうか。そうだ、弔いの心を持てば何も恐れることはないだろう。先の見えない段を私は上を見上げながら一段一段登りはじめていた。段の木枠の中に敷かれた細かな砂利の間に、まるで意図的に埋め込まれたように幾つものドングリが形を留めている。落葉を踏みしめながら、周りの林の中に繰り広げられた当時の惨状を想った。中折れた立木を見ると、自ずと酷い光景が連想される。
 あのとき私はいったい何をしていたろうか。航空機、ジェット機が空中衝突した、たったこれだけのことしか分かってはいない。ろくに新聞も読んではいなかったのだ。悼む気持ちもどの程度であったか疑わしい。途中で立ち止まっては谷を見下ろし、林の上に広がる空を見上げる。またゆっくりと登る。汗が噴き出し、呼吸が苦しくなってきたときに林が切れた。木々が刈り込まれた高原のような一帯が展けたのである。ここだ!ここが乗員、乗客162名の捜索現場の中心地点に違いない。それにしても何という明るさだ。日が惜しみなく注がれている。これが夥しい血を吸い込んだ一帯とはとても信じがたい。そして何という静けさだ。
                                                

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草花

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四年目で咲いたピエロが中央左寄りに小さく見えます。
下手な写真でごめんなさい。

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日報随筆賞の投稿は?

 日報随筆賞の締め切りは今月末。友人N子さんが、「是非だしてみたら」と応募要項まで教えてくれたのですが、いま5枚に心をこめて書けるテーマが無いのです。賞の舟越保武の「エリカ」を机の傍にでも置けたならどんなに嬉しいかと思いましたが、それだけでは書けません。所詮わたしには手の届かないはるか彼方です。縁のないものを追っても仕方がありません。
 ただこれまで書いたものの中から、5枚程度の原稿にしたものがパソコンに眠っておりました。未完です。4年ばかり前かに随筆賞に出そうかと思って出さないでしまったもののようです。投稿規定では、一年以内に書いたものとありますから、投稿はできません。そこで、このブログに二回ぐらいに分けて載せようかと思いつきました。内容は面白くありません。PCにしまっておいたほうがいいのかもしれません。けれども、「なんだ~」「つまんないの」などという感想、といってはなりませんね。このブログを読んでくださる方は、みな温かい、謂わば篤志家ばかり。何とか励ましてあげましょう、とクリックしてくださっています。ですから感謝しながら、これに書きつづるのもまた一興かと思うのです。
 勧めてくれたN子さんには「投稿はできそうにない。ごめんなさい」と電話しておきました。

 随筆賞、一年がかりで五枚を書くことに挑戦した方もいらっしゃるとN子さんから聞きました。こんどはどんな作品を読ませて頂けるのかが楽しみです。沢山の方々が書いた原稿が、いま、至るところから主催者側にゴールインし始めているでしょう。

 

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内田光子ーカメラータ・ザルツブルクー

 FMから流れてきたヤッシャ・ハイフェッツを偶然聴いたときには驚いたが、きょうネットでハイフェッツの映像を見つけ、弾く姿を見たときにはまたまた唸ってしまった。小さな画像なので細かなところまでは見えにくいが、弓の運び、指使い、表情と、冷徹とも見えるどんと芯の入った音楽の器が、一糸乱れずマシーンのようにといったら音楽感性を疑われるかもしれないが、緩急自在、徹頭徹尾理性的とまで言える知的な支配のもとに演奏を貫徹するといった具合だ。ほんとうに凄い! 

 ギドン・クレーメルの弾き振りのDVDを繰り返し聴いた。弾き振りには、独特な音楽的な味わいがある。楽器を弾きながら指揮もするわけだが、奏者が見出した音楽的なきらめき、霊妙さが、オーラのような音楽的な芳香となって聽くものを引きつける。
 同じ弾き振りで、内田光子の「カメラータ・ザルツブルク」は実に魅惑的だ。解説にあるとおりにいえば、「ウチダはウチダとしか言いようがない。エレガントで深く音楽的な演奏は、彼女が弾くすべてのレパートリーで心と頭脳の見事なバランスを表している」(『シカゴトリビューン』紙)


    
DVD・グラモフォン
    ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
    ピアノ協奏曲第13番&第20番
    カメラータ・ザルツブルク
    ピアノ&指揮:内田光子
    映像監督:ホラントH.ホールフェルト

        2001年ザルツブルクの
          モーツァルテウムでライヴ収録
 

 生演奏では、聴衆席からは後ろ姿しか見えないが、DVDだと、内田光子の内面性を表す表情のすべてを見ることができる。 

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原彬率いる盛岡オーケストラ

 きのう舅を出先まで送って帰り、車庫入れしていると、何と、シンフォニエッタ盛岡のメンバーの方が通りかかった。ご挨拶し、「大したこと無いブログですが、シンフォニエッタ、書かせて頂きました」などと申し上げた。

 シンフォニエッタ盛岡は、その昔、原彬が立ち上げたアンサンブルといった規模の「盛岡オーケストラ」を彷彿とさせます。シンフォニエッタ盛岡に比べたなら半分規模。弦楽器の数も少なく。今からすれば素朴な楽団です。しかし当時としては画期的でした。盛岡のオーケストラの先駆です。大正14年8月10日盛岡劇場で旗揚げ公演でした。どういう人たちが頑張っていたかというと、

  指揮  原彬(34歳)
第一ヴァイオリン武田忠一郎(北上市女学校教師)、
          萱場英男(陸軍幼年学校在学中)、
          長谷川盛雄(東洋音楽学校学生)、
          原彬
第二ヴァイオリン村上捷三(東洋音楽学校学生)、
          ほか数氏
ヴィオラ     森(会社員)
セロ        熊谷(画家)
コントラバス   佐藤(岩手日報社勤務)
フリュート    藤田四郎(東洋音楽学校学生)
クラリネット   岩崎泰治(盛岡商業生徒)
トランペット   高等農林学生、県庁勤務の方
トロンボーン   上原寿造(盛岡中学校英語教師)
オルガン     新藤武(盛岡高女教師)
ピアノ       今井松雄(岩手師範教師)
ドラム       宮野長吉

曲目序曲ウィリアムテル(ロッシーニ)
   ミリタリーシンフォニー(ハイドン)
   管弦合奏曲  森の水車、
            森の鍛冶屋、
            スペイン舞曲
            オリエンタルダンス、
            ラブインアイドルネス、他
   弦楽四重奏  セレナーデ(ハイドン)
             軍隊ポロネーズ

  ※以上池田盛雄氏岩手日報随筆欄掲載通り

 梅村、赤沢、館沢、佐々木(太田カルテットのメンバー)らと袂を分かったこのオーケストラは、経済的に困難を極め、ほどなく行き詰まってしまうのですが、県内を巡業し、初めて生演奏に触れる機会を人々に提供するなど、その心意気、努力は特筆に値するのではないでしょうか。
   
   
          
   

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庭師のNさん逝く

 これも昨日のことですが。
 樹木たちが数十年間お世話になった庭師さんの火葬がありました。
 Nさんは毎年五月ごろに来てくださいました。朝の七時に「おはようございます」と現れて、家の中のコンセントにプラグを差し込み仕事にかかります。怖ろしいばかりに高い梯子を木にうまく立てかけて、三日がかりでシザーハンズよろしく、勝手気ままに伸びた木々の枝をバリカンできれいに刈り、後日やってきて、のっそりと堆積した枝や葉っぱをトラックで持ち去ってくれるのです。10時と3時のお茶の時間を楽しみにしているのは、むしろ舅のほうでした。そんなわけで、Nさんとしては、休憩時間もゆっくりと休めたかどうかは分かりません。随分とお世話になりました。
 一昨年だったと思います。Nさんが、ある方の庭で、かなり高い木から落下し頸の骨を折ったという情報が入りました。ほんとうに胸の痛むことでした。
そして昨日、Nさんの火葬。70歳でした。舅を火葬場まで送って行きました。消防団の方々が、霊柩車の到着を待って道路の両側に整列して待機しておりました。沢山の人々が着きました。
 そして今日。しとしとと雨が降り、Nさんにお世話になった樹木たちが、潤いを帯びて緑を一層濃くしていました。みながうなだれて手を合わせ、Nさんを悼み、涙ながらに黙祷しているように見えました。

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香りを食べるーニセアカシヤー

 昨日のことになります。主人は自転車、わたしはスクーターでニセアカシヤを観に出かけました。20階建てのマリオスを橋の向こうに高々と望みながら、雫石川の西側河川敷を太田橋方向に進みます。大木となったニセアカシヤが林立し、樹木全体がまるで白い粉を塗されたように清楚な花房がざらざらざらざらと下がっておりました。おしげもなく甘やかな香りが放たれて漂い、やわらかに包み込んでくれました。
 ニセアカシヤがいったん切れたあたりに、ターシャの庭の一角を切り取ったかの花壇がありました。かつて母の病院へ行くためにここを通るたびに、いつかゆっくり見たいと思っていたのでした。
 「こんにちは」と声をかけると、7、80歳と見える女の方が一人で管理しているようでした。10年か20年かけた花壇だなと思い訊くと、この方がまだ勤めていたころに朝3時に起き出しては作った花壇だとか。やはり20年はかかったと。たまに家族の方々も手伝うそうです。エニシダ満開。オニゲシ満開。アヤメ、ショウブ、ルピナスのピンク、赤。シラン、アルメリア、オダマキ、ミヤコワスレ、などなどなど満開満開。花壇のぐるりはニセアカシヤがざららんざららん。いつも管理の方はいます。 
 またどこかは言いませんが、ジャーマンアイリスもありました。美しいピンクでアヤメのような形です。ちょうどニセアカシヤのような良い香りがしていました。
 前潟まで移動し、深緑色に満々と水を湛え隆々と流れゆく川を眺めました。
あの花壇の方からも、近所のT子さんからもニセアカシヤの花は食べられると聞いていたので、摘んで帰りました。

 花を天ぷらに。口に入れたとたん、香りが口いっぱいに広がって、脳裡にはうち続く満開のニセアカシヤのスライドショーが次つぎに甘やかな景観を映し出してくれました。


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シンフォニエッタ盛岡の新情報

 新情報といっても、その筋の方々はもうとっくにご存じのことではありますが。その筋ってどの筋?シンフォニエッタ盛岡のメンバーの話を聞く機会のある方々のことですが。その筋からのまた聞きによれば、どうもシンフォニエッタとしては、入場料は取りたくなかったらしい。みなさんに気楽に音楽を楽しんでいただきたい、とこういうことなんでしょう。それが、盛岡芸術祭合奏部門ということで、某かの券を売らざるを得ず、300円でチケットを売ったと、こういういきさつがあったよう。
 どうりで、どうりで変だと思いました。これだけの演奏をして、けっこう楽しくて、300円とは。まあ、これは無料ということですね。
 その昔、梅村保率いる太田カルテットは、無料の小さな音楽会をしばしば開いたようですが、それが復活したようで嬉しくなりました。

 話はほとんどどうでも良いことになりますが昨夕から頭痛がして、きょう一日臥せっておりましたが、ヴェートーヴェンの「田園」をかけたところ、痛みが幾分ひいていくのを覚え、音楽の力のすごさ有り難さを実体験しました。ほんとうのことです。聞き終わって、「拝啓 ヴェートーヴェン様」と、心の中でヴェートヴェンに感謝の手紙を綴っておりました。
 音楽セラピーの話をよく聞きますが、癒しは確かにあります。夕方になってやっと平常通りに動けそうになりました。

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トリオ・グラシア コンサートー賢治さんも好きだった賛美歌ー

 きょう午前中、大館町にある盛岡インマヌエル教会で、2002年結成の「トリオ・グラシア」のコンサートを聴きました。グラシアとはスペイン語で「恵」という意味だそうです。

 
ソプラノ佐藤美喜子(日本大学芸術学部声楽専攻)
 チェロ鈴木信哉(武蔵野音楽大学大学院音楽研究科)
 ピアノ鈴木布美子(武蔵野音楽大学器楽学科)


 感動は神の共感だとわたしは思っていますが、演奏された「アメイジング・グレイス」「人生の海の嵐に」など一連の賛美歌は聴くものの有り様をさぐり、照らし、癒し、感動を呼び覚ましてくれるものでした。岩手の生んだ詩人宮沢賢治さんも妹としと口ずさんだでしょうこの賛美歌。世知辛いいま、心のありかを指し示し、温もりを落としてくれます。

   DVD,CDをお求めになりたい方へ
   「結成5周年トリオ・グラシア コンサート」
   山形学院チャペル
   主催/トリオ・グラシア コンサート実行委員会
   オルガン協力/竹中あゆり
   録画DVD制作:Studio斉(スタジオひとし)
   録音CD制作:Studio斉(スタジオひとし)

 尚、このコンサート会場になった盛岡インマヌエルキリスト教会では、下記のように集会を開いています。
     
日曜日10:30~12:00
     水曜日AM10:30~12:00・PM7:30~9:00

     (盛岡市大館町12ー26  ℡019ー646ー2924)

 

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シンフォニエッタ・盛岡ーチケット300円は高いか安いかー

 昨夕のことになりますが。
 初めて盛岡のアマチュアが集まったシンフォニエッタという名の通りの小編成のオーケストラを聴いた。知っている方が二人出演している。七時開演。六時五十分ごろには、もうチケットが売り切れだった。
 プログラムを見ると、エキストラが多いのはヴィオラ。四人のうち三人が助っ人。ヴァイオリンは十二人のうちエキストラ二人。ただ管が自前なのにはなかなかだと思った。ホルンは二人。総勢三十人。
 クラリネット協奏曲が聞き応えがあった。ソリストの安定した流暢な響きを迎えて支え包み和する力を感じさせる。
 初めは重箱の隅をつつくように耳を澄ませていたのだが、途中から、楽しい!となり、とにかくきょうは楽しもうと決め、理屈抜きに楽しんだ音楽会だった。
 こんなオーケストラに入りたかったな、などと夢のような事を思った。なまじ難しい楽器を弾こうとするから門が狭くなる。う~ん、パーカッションとかだったら可能性あったかな、いやコントラバスなら音符の数が少なくて済むかも・・・やっぱり駄目だ、パーカッションやコントラバスも、多分かなりヴァイオリンなどができる人が、それならコントラバスに回ってみましょ、ってな調子に違いない。アマチュアの門もけっこう厳しい。若ければともかく、この歳では・・・トホホ。
 ワルツか、ワルツも好きだし悪くない。だけどワルツは日本人のリズムじゃないな・・・・しているうちに映画音楽に。最後のタンゴにウン、タッ、タッ、タと最後まで心地よく乗ったところで、きょうのステージはお開きとなりました。
 ここからは解説に書いてあったのですが、ニーノ・ロータは、「太陽がいっぱい」「ゴッド・ファーザー」など約150本の映画音楽を手掛けたそうですが、この人はクラッシック畑。何とこのニーノ・ロータの室内楽作品を、ギドン・クレーメルがCDとして出しているらしい。どんな室内楽なのでしょうか、興味がわきました。

シンフォニエッタのチケット300円は高いか安いか。
帰るときの心境は、「たった300円で・・・何だか申し訳なかったな・・・指揮者櫻和幸さんを頼み、クラリネット大向佐保さんを迎え、エキストラを頼み、このマリオス小ホールを借り、これまでだって練習会場も借りたかも知れないし・・・それにプログラムの印刷だってかかっただろう。安くしてくれるルートはあったかなかったか(まっ、ここまでは余計だとしても)・・・」

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ニセアカシヤ開花予報

 今日午後、仙北町に所用で出たついでに、雫石川河畔のニセアカシヤのようすを見て回った。母が某病院に入院していたころに毎日通った道路沿いやら前潟方面にある。というよりも河畔一帯の林を駆逐するかの勢いで勢力圏を拡大している。去年も房の出具合を確かめながら、だいたいの見当をつけていたのだが、いざここ一週間以内となったときに忙しくなり、やっと一段落して駆けつけたときには、仰ぎ見る木々には乾きかけた褐色の花房が下がり、気まぐれな風が、名残の香をすこしばかり吹き下ろしてくれたのだった。今年こそである。花房はまだかっちりと硬く、香りはほんの微かだ。ここ一週間以内が見ごろとなりそう。
 アカシヤはネムノキ科だが、ニセアカシヤはマメ科であるらしい。ハリエンジュともいうようだが、どこが針のようなのかがわからない。
 近頃はわからないことばかりが多いという事実が唯一わかっていることではあるが。

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東和町行きー黒沼家三人展ー

 午後一時。友だちが車で家まで迎えに来てくれた。いそいそと乗り込み花巻市東和町安俵をめざして出発。「けやきラウンジ」で開かれている芸術一家黒沼さんの「親子三人展」に向かう。車内は暑いくらいだった。彼女がクーラーを入れてくれる。国道396号線を道なりに進む。話している間にもナビがこまめに道案内を務めている。大迫町に入る手前で右折し、古田峠を通って東和町への道に入ると彼女がいった。「来客(海外から)があったとき、八幡平につれてっても喜ばなくて、東和町に連れてったら、オーストリアの景色に似てるって喜んでたよ」。
 花巻に住んでいたころ、わたしも東和町が好きだった。ショッピングなどに行くよりも、50ccバイクにガソリンを200円も入れると野山を見に出かけられる。安上がりな娯楽だった。「やる気村」、わたしは東和町をそう呼んでいた。ちょうど農水省のキャリア出身である役重さんが、文藝春秋に掲載されたり、東和町が映画の製作などでも何かと話題になっていたころだ。役重さんは、そのとき花巻市にある佐久間ヴァイオリン教室でチェロを習っていた。発表会のときに「どうして東和町に永住を?」と尋ねたことがある。キャリア族は、岩手の人情と景色をやたらほめるが、本音は東京に飛んで帰りたがってるだけ、というひねくれた見方をしている。そんな中で、東和町に根を下ろしてくれた役重さんの選択が嬉しかったのだ。この人は本物、そう思えた。
 それはともかく、わたしは東和の景色が好きだった。畑の起伏に舗装された農道がアップダウン。それが青空と地続きになっている。先の消えた道の頂点に向かうときには、さながら青空のまっただ中に飛び込みゆくような爽快な心地となる。森の奧に消えゆく小径も童話の世界に繋がっているようである。オーストリアには行ったこともないが、たしかにどこか違う余所の地を巡っているような、旅行者にでもなったような新鮮な気分にさせてくれる景色なのだ。
 「けやきラウンジ」に入ると、二つのヴァイオリンケースが置かれてあった。一台は誰のものかわたしは直ぐに分かった。「これ○○さんのヴァイオリンじゃないですか?」と職員の方に訊くと、「そうです。もう一台は娘さんのです」。やっぱり。もう10年も会っていないが、○○さんとは一緒に弾いたことがある。もっとも○○さんの腕はわたしより格段上。わたしは「キラキラ星」どまりである。ヴァイオリンとの出会いは、まるで持ち主に出会ったような気分だ。

 黒沼令氏の青年の木彫。まるで乙女がもつような繊細な感性が裸像全体を包んでいる。彫られた眼がどこか寂しげな深さを感じさせる。黒沼令さんは、「佇む人」が福島県展美術奨励賞を受賞している。黒沼加津巳氏の頭像は岩手県の芸術祭賞、奨励賞受賞作品だ。そして友人黒沼由美先生の絵画。背景に青系統が多く、よくまとまっている。ファンタジーを思わせる一点もある。美術の教師であり絵画教室を率いている由美先生だ。この展覧会は今月31日まで、10:30~19:00(最終日は16:00まで)

 ラウンジで彼女はアイスコーヒー、わたしはアメリカン。ワッフルを一つ取って半分こにしていただく。わたしよりも黒沼家とは昵懇の彼女から、作者と作品についてのあれこれを聞く。木を削る製作の様子はわたしも由美さんから聞いてはいたが。
 五月の風に揺れる大きな欅を眩しく見上げながら、隣の産直に移動。山菜などを買って帰途に。同じコースを辿る。ほんとうに眼に染みる心洗われる景色だ。
 自宅まで送ってくれた彼女が、ささやかな草花の庭を見てくれた。庭中に撒いたばかりの鶏糞の匂いがしている。嗅覚の鈍感なわたしならばいざ知らず、彼女には申し訳なかった。 
 「きれいに草取りしてるね」と彼女。労がねぎらわれたようで嬉しかった。木戸に彼女の背中を見送った。

 

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白い花々

 あっ、きれいだな、と思ってみた人様の庭。なぜこんなに清々しく色彩が活き活きと見えるのだろうとしばらく佇んだ。ところどころに白い花をうまく配色しているのに気づいた。以来意識的に白い花を植えるようになって三年になる。
 露草も白いのを植え込んだ。わすれな草、芝桜、くりん草、チューリップ等々も白いのを。これで赤や青が一層引き立つはずと楽しみにしていたのだが・・・
 いまはちょうどくりん草が端正に形をなしているが、白いほうが何かすこしさびしげなのだ。数のバランスがなかなかむずかしい。
 三株の白いルピナスがしっかりと根付き蕾を伸ばしている。去年の株に着いた種子から一気に子どものルピナスが数え切れないほどになった。これはもう放っておいても庭中に広がるだろう。
 もうすぐ白ユリが次つぎに咲き始める。
 気づくと白い花がほとんどになっている。朱色のピエロが咲いてくれたなら、一点強力なアクセントになってくれるはず。
 大層な花はないけれども、明るい日差しの下で、若芽が深緑色になってゆく木々を仰ぎながら、みな元気に咲いてくれている。

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時は長いか短いか

 きょうももう夕方5時になろうとしている。一日がまたたく間だ。
 四川では死者行方不明が6万人超えるかとあった。
 日本の国際緊急援助隊が黙祷する写真が朝刊に出ていた。祈るどの方の表情にも見てしまった刻まれてしまった惨劇が。深い涙の祈りだ。直に救助に携わった方々の尊い祈りだ。
 現地での時間がどれほど長く苦しく切ないものかを思う。

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早坂峠

 山菜採りにはあまり興味のないはずの夫が、「わらびとりに行くか」というので、11時頃に出発した。
 滝沢に住んでいたころ、線路を見下ろす土手が春になると焼かれた。枯れ草色だった土手一帯が真っ黒になる。そのあとにわらびが出てくるのだった。
面白い形のわらびをぽきぽきと折って集めるのはとても楽しかった。
 花巻に暮らしていたときには、畑のオーナーが、宮守と遠野の境にある大洞カルスト台地にわたしたちを案内してくれた。なだらかな丘陵地のそちこちに、鮮やかな躑躅が咲いていた。勾配を上がり下がりしながら、たくさんのわらびを採ることができた。
 今回どこに行こうかということになり、大洞も考えたけれども遠すぎるので外山にする。舅は「外山はまだ一ヶ月早い」といったが、採れなかったらそれはそれで・・・ということで出発、国道455号に乗る。
 現地に着くとやはりまだだった。いばらをかき分けて何かを採っている人がいたので訊くと、「わらびはまだ早い」という。
 早坂高原まで行ってみることにした。岩洞湖の湖面がとても美しかった。まもなく白樺が目立ち始めて早坂高原に着く。盛岡市玉山区と下閉伊郡岩泉町の境だ。

 真っ先に「
牛追いの道」が目に入った。「南部牛追い歌」発祥の地ともある。
 碑文の通りに
南部城下の本町地内で奥州街道から分岐して北東北方面に進む。道筋は油町惣門、下小路、山岸町、御弓丁桝杉などを通過して城下と分かれ、その先、名乗り坂(以上盛岡市)、明神山、藪川(以上玉山村)などを経由し、早坂峠を越えて下閉伊郡に入り、さらに門、袰綿、岩泉などを経て乙茂(小友)から小本(以上岩泉町)へと通じている。この道筋が小本街道と呼ばれていた。
 この旧街道は沿岸北部と盛岡などの内陸を結ぶ重要な物流・交易の道であり、季節によっては、一日六十頭から七十頭の牛が往来したという。沿岸からは、塩、海産物、鉄などを運び、盛岡などで、コメ、アワ、ヒエ、マメなどの穀類や雑貨と交換した。特に塩はその中心で、「塩一升、米一升」で交換された。
しかしこの塩の行商の道中は、途中、野宿も・・・病気、怪我・・・くま、狼・・・道の険しさ・・・命がけの旅であった。中でもこの地、岩泉から早坂峠は、追われるコティ(雄牛)にとっても追う牛方にとっても難所中の難所であった


碑文のある地点の標高は905メートル。


わらびの収穫は無かったが、碑文が思いがけぬ収穫となった。





 

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平和ぼけ

 20時31分にニュースを検索してみると、

 
四川大地震。死者1万1921人。なお生き埋め多数。
 
 たて続く天変地異、災害に、いつの間にか、何処かが麻痺してしまっているのに気づく。阪神・淡路大震災のときには、死者が日ごとに千人ずつ加えられてゆくことにただただ呆然とした。地震のちょうどその時間に弟が出張で三宮のホテルの5階に宿泊中だった。何をどう行動するにもともかくベッドに必死で捕まっているのがやっとだったという。弟は無事にフェリーで東京に戻ることができた。
 あのときの何ともいわれぬ思い。平成7年のあのときから13年を経ている。四川の方々に哀悼の意を表します、と簡単に口先でいうのは容易いことだけれど、自分の心境がその言葉を発するほどに被災地や被災者に寄り添ってはいない。何だろう。これほど多くの人々が亡くなりこれほど多くの人々が苦しんでいるというのに。海を越えた大陸のことだから、すべてをいちいち悲しんでいたら暮らしてはゆかれない、理屈は様々あるけれど・・・。鈍感になっている。すっかり鈍感になってしまっている。阪神・淡路のときには、何かしなければという焦燥感があった。涙があった。
 鈍感にしてしまう何か、これを罪というのだろう。人間の罪の深さ。人間の、といえば自己責任が攪拌されるような錯覚がある。わたしなのだ。わたしが罪を持っていて、それが本来的な魂の知覚を曇らせるのだろう。

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ヴィヴァルディを聴く&ピエロ4年目の復活

 ここ三日ばかりは、DVDを聴いたり庭の草取りなどで過ごした。過ごしたというよりも過ごしてしまったといった方がいい。

 ほんとうにポピュラーなヴィヴァルディの「四季」。飽きない。ギドン・クレーメルの弾き振り。一度聴いてしまうと3回は聴いてしまう。こうなると大変な時間の浪費?と言えなくもなくなる。超絶技巧でのクレーメルの渾身の弾きっぷりには緊迫感に手に汗握る。舟がまさにいま荒れ狂い逆巻く波を乗りきれるか否かの崖っぷちにあるドラマに臨場しているかの感がある。音の量感、質感、切れ味にも参ってしまう。
 「《四季》について取り扱われているのは、人間存在の根本問題との対決なのである」と解説には何やら小難しいことが書かれている。そんな哲学を音から聴き取るには、それでもまだ聴く回数が足りないかもしれない。
 ヴィヴァルディがこの曲を1725年に発表しているが、この1725年までが、ストラディバリがクレモナで次つぎに代表的な名器を製作していたわけで、製作に没頭するストラディヴァリや錚々たる楽器群を思い浮かべながら聴くと、また格別の思いがする。時代を超えて常に新鮮な永遠の名曲と永遠?の名器とがもうこの時代に出来上がってしまっているのだ。科学と技術で何でも作り出せるいまであるが、音楽上の幾つかの最高峰が既にこの時代に完成していたかとおもうと、1700年代が、今の時代を何か言いたげに見下ろしている気がしてくる。
 
 草取りも際限がなく楽しいものだ。一旦庭に出てしまうと、半日はつぶれてしまう。飽きることがない。一箇所が一段落するとまた初めに取ったところに生えてきている。いつも雑草に追いかけられている。頭の中にオッフェンバックの「天国と地獄」が流れる。「天国と地獄」に追い立てられてまた草を取る。
 「天国と地獄」がはたと途絶えて、見ると、3年目でも咲かなかった芥子のピエロが、中心の底に1、5㌢大の球を抱いている。蕾だ。植え替えを嫌う芥子だが、ことし思い切って植え替えを決行。外回りを大きく掘って、小さな花壇の日当たりが一等のところに移植。芥子は石灰を好むと聞き、適度に施したところ、どうもピエロはこの処置を待っていたらしく、機嫌良く花をつけてくれそうな気配だ。それにしても、よくいままで消えないでくれたものと思う。
 艶やかさ美しさ強烈さを除いた花の名だけからいうと、わが分身のようなピエロだ。大切にし、ともに育っていきたいものである。

 DVD(グラモフォン)
  アントニオ・ヴィヴァルディ協奏曲集《四季》  
  ギドン・クレーメル(ヴァイオリン&指揮)  
  フィリップ・レッジャー(ハープシコード)
  イギリス室内管弦楽団
  映像監督:クリストファー・ヌーペン
  製作1981年4月ミュンヘン

 

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ペンテコステ

 ペンテコステ
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき
あなたがたは力を受けます。
         聖書使徒の働き1章8節

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盛岡幼稚園ー新築後援演奏会ー

 「盛岡幼稚園新築後援音楽演奏會曲目」があります。1922(大正11)年7月18日(火) 。主催は盛岡母の會。午後1時・午後7時の2回だったようです。
 タッピング夫妻は大正9年まで盛岡バプテスト教会に、長岡栄子先生は大正5年まで盛岡高女に勤務。その後盛岡を去っています。ですからたぶんこの音楽会には来ていなかったろうという寂しさはあるのです。
 主催した「盛岡母の會」のお母さんたちですが、これは長岡栄子先生の薫陶を濃く受け継いだ方々だったのではないでしょうか。岩手の幼児教育は明治37年に栄子先生によって始められています。明治40年内丸の宣教師館階下に移って、42年県の認可を受けました。この時点で独立した園舎があったかどうか後日確かめたいと思います。いまはここのところを想像だけでいうなら、そのまま宣教師館階下であったか、借家であったろうと。新築のために幼稚園と一体となって動いたお母さん方の企画が、この演奏会だったでしょう。
 
 「盛岡母の會」についてもうすこし詳しく知りたいのですが・・・PTAづくりは昭和21年3月、第一次アメリカ教育使節団によって着手されていますが、もしかすると、「盛岡母の會」はもうその先駆けであって、もし園児のみ保護の対象であったとしても立派にPTAと呼ぶことのできる画期的な働きのある會だったかもしれないので。

 それはさておき、演奏会の内容は、幼稚園園児、卒業生有志の番外表情遊戯。ミス・ウォード、長野ちよせのピアノ独奏、西淵嬢の独唱。それと嬉しいことに、太田カルテットにも関係し、また梅村保、下総覚三(晥一)らとピアノトリオを組んでいた原彬(原敬の甥)もヴァイオリン独奏。このピアノトリオの三人が会員であり主に音楽教師が構成員だった盛岡音楽普及会が合唱で出演しています。そんなわけで、まるでチューニングの音が聞こえてくるような楽しい気分になりました。第二部は有志による三曲合奏でした。 
 たぶん栄子先生も、東京の地にあって、この音楽会が成功し、園舎新築が無事に成し遂げられるように祈っていたのではないでしょうか。

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あれこれ

 昨日マリオスで田中信生講演会を聴きました。山形、福島、宮城、岩手の各県のラジオで、日々の暮しの中でのちょっとした心のありか、ありようなどを語っている米沢興譲教会の牧師です。
 この講演の中での話ではありませんが、田中先生のメッセージで心に残っているのは、自分がそれをどの程度成し得ているかどうかとなると、赤点クラスなのですが、次のことばです。

「自分に正直に生きるんじゃありませんよ。真理に正直に生きるのです」

 
3日、病院にお見舞いにいったMちゃんから電話があり、今日退院したという事でした。めでたく快癒。お見舞いに文庫本を一冊持参し、帰りには文庫本を三冊貰って。うん?....なにか変、どこか変とおもうが考えないことにし、帰宅。
 だけどホントによかった、大したことが無くて。


 
照子さん、90歳だけれど、誰かに話すときにはこう呼んでいます。照子さんは反戦・平和の人。憲法9条の擁護者。どうも平泉・西行祭短歌大会で最高賞となったあと、「平和を語り継ぐ女性」として朝日新聞にも載ったらしい。いまは当面の緊縮財政のため、岩手日報一紙となり、他紙を読みたければ図書館へという事情下にあります。しかし方法はあるもの。パソコンで見ました見ました見ました。大きくすてきな写真が。バッチリでした。

 
午後から弟と亡き母の家の片付けをしました。端布からセーターをほぐした毛糸。何十年昔の衣類までが出てきました。なんでも取っておいた母でした。福祉バンク行き、取り置き、捨てざるを得ないものと分別。
 質素な母でさえ結構な数です。15年間一人暮らしだった母のものです。人は一生の間、どれだけ消費し、どれだけ溜め込むものなのか。何かにどこかに、そんな数字もきっと出ているでしょう。
 できるだけ身軽になろうっと。


 午前零時が過ぎ、内容が1日違いとなってしまいましたが、このままの保存とします。

 
   
 
 
 

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ターシャ・テューダー展

 午後からターシャ・テューダー展をみてきました。入場するまでは、庭造りの特別なノウハウでもあればと思っていたのですが、見て回るうちに、ターシャのていねいに生きているその在り方に納得したのでした。自分にはまねできない。意外だったのは、様々な小物やぬいぐるみを作ったりしたのは、子どものためというより自分が楽しいからやっていたと言っていることです。皿洗いも楽しいと彼女。わたしは皿洗いをいかに短時間で終わらせるかしか考えたことはないのです。一事が万事なのでしょう。
 ていねいに生きるということは、天から与えられたこの地上での時間を最高に有意義に全うすることであるかもしれません。
 いまは倅たちも大人になり、燃え尽き状態を呈している自分です。ターシャは56歳から(57歳と書いていた箇所もあったが)好きなことをして生きようとバーモント州で庭造りに着手。92歳になるいまも庭をつくり絵を描きながらコーギー犬をそばに置いて自給自足のていねいな暮しの日々です。立ち居振る舞いすべてが自然にとけ込んでいます。
 美しい庭も魅力ですが、こんなふうに歳をとってゆくことができたならと思ったことでした。

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第九と絵画展

  もう22時近く。暑い一日でした。窓を10㌢ばかり開けて風を入れています。さっきまでついDVDを聴いてしまいました。「〈佐渡の第九〉兵庫熱狂ライヴ」。特別収録で阪神・淡路大震災犠牲者追悼演奏として「G線上のアリア(バッハ)」も入ってます。指揮は佐渡裕。兵庫芸術文化センター管弦楽団。収録2005年。
 誰もが知っていることだけれども、ヴェートーヴェンが若くまだ障害に見舞われていないときに作曲した意欲的な力を感じさせる曲は数々あるというのに、むしろ聴力に異常を来し絶望の後に立ち上がり作曲した作品のほうが、こうも度々演奏されている不思議さ。終章の最後部分を振っている画面の佐渡裕を見つめているうちに、一瞬佐渡裕がヴェートーヴェンに見えてしまいました。
 

 午後から加賀野にある呉服店のM子さんと一緒に、T子さんの個展に行きました。店で待つあいだ商品を見たところ、黒い地に楽譜が刺繍された帯がありました。ショパンのサインもデザイン化されて入っています。何の曲か読み取ろうとしましたが、わかりませんでした。でもびっくりでした。ドレスでのステージもよいが、誰か和服を着てこんな帯を締めて、ショパンを弾いてくれないものかと思いました。そうなればむしろ新鮮です。
 ほどなく奧から出てきたMさんは、青く美しい絞り染めの上衣。ダサイわたしはすぐさま引き立て役となり、自転車の縦列で喫茶ママに直行。裸婦2点コスチューム10点を感心して眺めたあとは、コーヒーを飲みながらふたりの話題に耳を傾け、たまにわたしの雑音のような話題をはさみながら楽しい一時を過ごしました。次つぎに絵を見に来られる方々を眺めながら、やはりこのように沢山の来会者があるのは、絵もさることながら、T子さんの人徳にもよるものと。もしわたしが展覧会を開いたなら、果たして来会者は何人?と思うと空恐ろしくなったのでした。

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北上山系は隆々とー区界ー

昨日3時ごろ冬物をクリーニングに出そうと50㏄スクーターで家を出た。このところ家にこもりっきりだったので、すこし気晴らしをしようかと一旦は盛岡市街地である大通方面にハンドルを切ったが、はたと、国道106号線を走ってみたくなり東に方向転換。盛岡・区界間をバイクで駆ける少年の小説を30枚の短編に書いたことがある。岩手県民文芸作品集29に掲載されている。この小説については反省が多々あるが、それはともかくとして、そのとき実際に走ってみたことがあるので往復で46キロという距離にも抵抗はなかった。散歩コースという感覚である。
 郊外を抜けると、右手には簗川。左は急峻な壁がうち続く。岩にこぼれる山吹の花が、どこまでも急勾配を登ってゆくミニバイクを迎え迎え迎えてくれる。トンネルの入り口も山吹のアーチだ。トンネル内のひんやりとした空気を心地よく感じながら不安のない一時の薄暗闇に熱くなったエンジン音を小気味よく聞く。
 トンネルを抜けると、谷を区画し覆うカラマツの芽吹きの明るさ青さ美しさ。簗川郵便局を過ぎ、佐々木牧場に差し掛かると、急勾配、急カーブの路肩の土手に満開の桜が6、7本。登り登り登る。しだいに眩しい芽吹きの木々の樹上を間近にし、区界トンネル近くになると、隆々とした北上山系の見事な凹凸起伏を見せる。凹凸起伏を彩る多様な色相の緑の連鎖に点在する山桜。紗をつけたかに幾分靄がかり色彩が解けあっている。連峰になじみ解けて咲く淡い桜、思いがけずも今年最高の桜をいま観ている。
 標高750メートルばかりの区界道の駅で一服。自動販売機のカフェオレを飲みながら、北上山地最高峰海抜1914㍍の早池峰山の方角を望む。15分ほどの休憩を終えてまた区界トンネルを抜け、要所要所に止まっては景色を堪能。惜しみ惜しみ急勾配を下る。

 夕食の支度には滑り込みセーフとなった。
 前に「岩手には景色しかない」と言われているようだ、などとごねたが、やはり間違いなく岩手の自然、岩手の景色は一級品。もしひとたびこれを壊そうものなら、どんな技術をもってしても、もう二度と作り出すことはできないだろう。

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梅村保ー自刃ー

 よく「わが梅村保」とこのブログに書いていますが、梅村保がどんな人物だったのか。太田カルテットの主宰者でセロを弾く。これは音楽の側面です。
 自分に厳しく家族にも厳しく、人には優しかった、ただ極端なところもあったと聞いています。ただどのようなところが極端であったかは分かりません。戸田一心流の免許皆伝ですから、剣豪でもありました。
 わたしが書かせていただこうと思ったのは、弱い者に寄せる温かさがあったと聞いたからでした。
 今なお強烈に迫ってくるのは、梅村の自刃です。音楽家としてというよりも、戸田一心流師範としての死の姿です。
 満州から帰国してご苦労を重ね、昭和23年8月15日、盛岡市境田町の長男重光宅で自刃しました。早朝裏庭に端座、剃刀を頸に当て一気に掻き斬りました。剃刀で自刃出来るはずがないと言った方がいますが事実です。二男功二先生は生涯この剃刀を大切にしていました。重光さんは真っ先に、故村井正一先生(優れたテレビ技術者であり、チェリスト。梅村保の愛弟子)に知らせました。村井先生はNHK盛岡放送局開局10周年記念番組の収録が控えていたのですが、すっ飛んで駆けつけました。みると、御頭は皮膚一枚で躯に繋がっており、あたり一面に血が飛び散っていたということです。気持ちが悪い怖いといったことはなく、ほんとうに荘厳な姿だったと聞きました。
 このような事実などが、わたしを引きつけて止まないのです。

 ずっとこんな事を考えていた今夕、インターネットであれこれ検索しているうちに、梅村保先生の楽の音から発して4代目、保先生のひ孫にあたる梅村隆一さんのオフィシャルサイトにたどり着きました。保先生がこれをご覧になったなら、果たしてどのような感慨を持たれるのでしょう。
梅村隆一さんのブログ、既にご存じの方もあると思いますが、ご紹介します。

 【うめ茶屋】徒然なるままに・・・

どうぞご覧ください!

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