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2008年4月

照子さん快挙

 このブログで4月12日に「宮沢賢治の地でーその5-平和の人」と題して、T子さんを書きました。90歳になられます。机のまえのコルクボードに、母の写真と並べて、T子さんの写真をピンで留めてあります。白い花の咲く蕎麦の畑に立っている写真です。
 内心、T子さんもそろそろ活動は大変になってきているのかも執筆も労力の要ることだし、などと晩年の母の様子を重ねていたそのときでした。日報論壇に「生命尊重の村に感動 三田照子」と出たのです。そう三田照子さんです。ご迷惑をかけることがあってはならないと以前には実名は出しませんでしたが許可を頂きました。
 照子さんは自らが手術を必要とする病気であると知ってすぐに、1960年に老人医療費をゼロにした深沢晟雄村長を取材しに行こうと思い立ったのです。その取材の時に詠んだ沢山の短歌を送って下さいました。どれも心に染みいるお作でした。「命は大切」。この言葉通りに身命をかけた人の理念と業績とを紹介したわけです。
 そして今朝、照子さんが、平泉・西行祭短歌大会の最高賞に輝いたことを知り、わたしはもう笑いが止まりませんでした。嬉しいのです。書いている今も笑っています。
 照子さんは、中国残留孤児のためにも尽力しています。言葉を一緒に学んだり、また家電、衣類などを集めて届けるなど、物心両面から支えて来られました。
 「こんど6月の第一土曜日に講演をすることになってる」と仰っていました。

   
三田照子 講演
   6月7日(土)10:00~
   マリオス


 わたしが90歳になったら、照子さんの半分の活動ができるかどうか自信がありません。第一90歳まで生きている自信がありません。ただ、いまより少しはまともにならにゃ、と思っているという段階であります。

   最高賞作品
ばあちゃんの話に主語が欠けてると

孫より今日も指摘がひとつ

 

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モギレフスキーのレコード

 アレクサンダー・モギレフスキー(1885~1953年)といえば、宮本金八のバイオリンを3挺愛用していたとか、太田カルテットの赤沢らのヴァイオリンの師であることなどをこのブログに書きましたが、何と驚いたことに、彼が、1938年にコロンビアからレコードを出していることが分かりました。ヴァイオリン独奏で「ラ・フォーリア」。自身で編曲もしています。「玉聽茶話」に書いてありました。もともとロシアのヴァイオリンニストで、特にフランスで高い評価を受けていたとか。1926(大正15)年初来日。1928(昭和3)年再度の来日でそのまま定住。宮本金八のヴァイオリンを使うことになったいきさつも分かりました。彼は来日の時ガルネリ持参だったのです。それが昭和10年代に経済難で手放したため、その代用として宮本金八製作のヴァイオリンを使うことになったそうです。レコードに吹き込んだときの楽器は宮本のヴァイオリンだったらしい。モギレフスキーの気持ちが分かるような気がします。音楽家にとって楽器は命。ガルネリを手放さなければならないほどの窮地を、誰か救い得なかったのだろうかと思うと残念です。
 モギレフスキーのこのレコードの重要性については、「玉聽茶話」をご覧ください。

 赤沢長五郎が資料を残してくれたこともあり、どうしてもこの名前を書く回数が多くなっていますが。
 赤沢がモギレフスキーのことを言うとき、「モギさんはな」と親しみをこめて語っていたらしいのですが、モギさんのことが、これだけ分かることになるとは思ってもいませんでした。

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米内のしだれ桜

 空の最中から溢れでて落下し広がりまた落下する滝のようにしだれ桜が咲いています。

89歳の舅が言いました。「観た観た。あと5年は観なくてもいい」。どうもこの先5年分の桜をもういちどきに観てしまった、という実感のようでした。

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岩手県の田野畑村に新鉱物

 今日の岩手日報夕刊に「田野畑石」が認定された記事が載っていました。賢治のまねっこではないけれど、和賀仙人のずりやまで鉱物採集をしたことがあります。そのときは新鉱物の可能性など思いもよりませんでした。「田野畑石はマンガン鉱石の中にあり、長さ数センチの繊維状結晶の集合体。ほぼ白色だが、ごく薄いピンク色を帯びる。」と。これならば何とか見分けがつくかもしれない、と思って探しに行ったとしても、なかなかという場合もあり得ます。この鉱山からは新鉱物が6種も発見されているらしい。鉱物も不思議に、発見現場にあってこそ美しいとわたしは感じました。家に持ち帰って飾っても、どこか精彩が失せてしまいます。それにしても田野畑、野田村にはまだまだお宝が埋もれていそう。
 よく「岩手は自然に恵まれている」とほめられます。けれども、あまりにこんな言葉をきくので、近頃は「自然しかないね」と軽くいわれたような気さえしていたのですが、鉱物発見で、またまた岩手に重みが増し加わったようで嬉しくなりました。

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片付けで自信回復

 庭に出るたびに小屋周りの雑然とした有様が気になっていましたが、片付けるにはかなりの時間が要るとおもうと、なかなか決断がつかず手つかずとなっていました。実家の母がなくなって、さてこれから色々なことができるなと思ったのですが、日常のそこそこの家事とポチポチとブログを書く程度の力しか出ません。これがだらだらと続きました。きょうやっと体に力が湧くのを覚え、これなら小屋周りも片付けられそうだと、9時ごろに取りかかりました。

 置かれている長さ1、8㍍の鉄パイプを5本ずつビニールひもで縛り4つにし、捨てるかどうかは後で決めることにして小屋と塀の間の狭い空間に運び込みました。やはり同じ長さの15、6本の板や細い角材は、ノコギリで50㌢の長さに切り、ひもで縛って4つにしました。古い錆びたトタン板も三つにたたんで丸めひもで縛りました。
 小屋の下にはいつの間にか発泡スチロールやビニール袋、新聞紙、トレー、ビニールひもなどが堆積。野良猫が、過去に2回ここで子猫を生んだことがあるので、そのときに持ち込まれたものか、風に吹き込まれたものでしょう。大きなクマデで掻きだしました。それからすっかりはびこってしまった笹を、土を深く掘り返して根っこごと取り除きました。伸びすぎたリンゴの木の枝をすこし落としました。昼食の準備も含めて、夕方4時までかかりました。


 母が亡くなってからというもの、どこか体がだるく、もう自分は力が尽きてしまったか、年とって怠け者になったに違いないと半ば諦め半分だったのですが、まだこれだけまとまった仕事が出来るのを実感でき、体力的なことにかなり自信を取り戻すことができました。きょうはよい一日でした。

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菊池由香理onステージ

 たまたまチケットがあったので、昨日久しぶりにピアノコンサートに出かけてきました。
2008・4・25(金)マリオス小ホール18:30開演。
菊池由香理。1976年岩手県生まれ。東京音楽大学卒。イタリヤ留学。ディプロマ獲得。
 第一部はサン=サーンスがグー。奏者自身の解説によると、この曲は指使いがなかなか難しいらしいのです。
 第二部はガーシュインのラプソディ・イン・ブルー。たしかにマンハッタン、というよりも都会の夜景が空から路上から、車窓から人垣から見えてくるような感懐を持ちながらダイナミックな演奏に聴き入りました。

 アンコール演奏の前に、菊池由香理が「まだ息がきれてますので、ちょっと待ってください」といって姿を消したとき、ピアノは男性が弾くのに相応しい楽器だというのを思いだしました。優雅に見えるけれども、どれほど体力の要るものかを目の当たりにしたわけです。してみると・・・ルービンシュタイン90歳の演奏の凄さがいよいよわかってきました。

 今夜のコンサートの最高は、アンコール曲で弾いたショパンだとわたしは聴きましたが、これには好みもあるかもしれません。
 菊池由香理。とにかく可愛い。美しい。若い。ドレスがよく似合う!!
岩手出身であるという嬉しさ。さらなる活躍を願って力一杯の拍手をいたしました。

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昼のシェフは倅

 たまたま今日休みだった下の倅が昼時に台所に立った。わたしが麺類でも作ろうかと思っていた矢先だった。
「ラーメンがいい? スパゲティもあるけど?」
「いまチャーハン作ろうかと思って」
 思いきって言ってみる。
「じゃ、おかあさんたちの分も頼んでいい?」
「ああ、いいよ」
「お母さんはこっちで楽隠居してるから」
 いつもは舅の居城となっている居間に移ってテレビをつけた。きょうは舅は留守だ。画面を見ながらもちょいちょい現場をのぞく。いつまで経っても一向に子離れしない親だ。
 器用にねぎを刻み、焼き豚をさいの目に細かく切っている。フライパンを熱くし、慣れた手つきで卵を二つ割り入れて炒り、ねぎと焼き豚を加えて炒め、3人分のごはんを加えてさらに炒める。味付けは塩、コショー、化学調味料。これに醤油をすこしまわす。どこで覚えたか、これが倅流だ。3枚の皿に盛り分けて、シェフの創作料理?の出来あがり!
「うん、なかなかおいしいよ!」とわたし。
「旨いよ」と主人。
 毎日こうならどんなに楽か、と思いながら・・・う~ん、そうなったらこの家からは追い出されちゃうかもね。お役ご免とかで。

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ジンバリスト

 太田カルテットのメンバーが影響を受けたヴァイオリニストにエルマン、ハイフェッツを書いたからには、ジンバリストも挙げるべきと。
 エフレム・ジンバリスト(1889~1985年)は、ロシアのユダヤ系音楽家の家に生まれました。20世紀の最も偉大なヴァイオリンニストの一人。ペテルブルク音楽院卒。エルマン、ハイフェッツ、ミルシティンと同じアウアーの門。18歳でベルリンデヴュー。22歳で米国でデヴュー。
 ここで気づいたのは、彼ら4人が4人ともみなユダヤ系だということです。驚きました。アウアーもそうです。選民思想の論議はさておき、ユダヤ人が音楽の世界でも如何に優れているかの一端を図らずも確認させられました。
 ジンバリストの門下には、江藤俊哉、鈴木秀太郎がいるそうです。
 
ジンバリストは、1922、24、30、32、35年の5回来日しています。
 1932(昭和7)年来日のときには、盛岡にも来ています。赤沢資料には、「ジンバリスト氏大演奏會曲目解説」とプログラムがあります。


 昭和7年10月20日午後7時
 於  盛岡・懸公會堂
 主催 盛岡コロンビア特約店
 後援 岩手日報社

ベートーヴェン作の「クロイツェル・ソナタ」
メンデルスゾーン作の「協奏曲ホ短調」
シューベルト作の「アヴェマリア」
ジンバリスト作「日本曲に拠る即興曲」
スーク作の「ブルレスカ」
バッズィーニ作「妖魔のロンド」


解説書の方に、ジンバリストのサインを貰ってありました。

 昭和7年といえば、もう太田カルテットは解散したあとですが、メンバーは聴いていると思われます。1922(大正11)、1924(大正13)年は、カルテットの活動が盛んな時期でしたから、たぶん帝国劇場まででかけたろうと想像してみました。 

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手書きの名刺

 今朝の9時半ごろでした。開け放した縁側に現れたのは研ぎ屋さんでした。
「包丁でもハサミでも研ぎます。300円です」
 切れにくくなった鋼の包丁をお願いしてみました。10分かかったかどうか、鋼がまた切れるように復活しました。300円お渡しすると、名刺を置いて帰られました。紙片に手書きの名刺です。きれいな字で丹念に書き込まれています。何枚も何枚もこのように丁寧に書いておられる姿が浮かびました。美しいデザインや独特なセンスの印刷された名刺もいいと思いますが、こんな手書きのもいいなと思い、名刺入れに差し込んでおきました。

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T子さんのアドバイス

 同じ町内にお住まいのT子さんに路でばったりでくわしました。励まして下さろうと毎日のようにブログを読んでくださっている方です。ご自分の絵画展の案内を配っているところでした。
 T子さんが仰いました。
「ブログの色は、暗いめにしたほうが読みやすい。読んでいるうちに変わったりすると、何だか意地悪されているみたいで」
 なるほどと思いました。たしかに読み直して「ちと読みにくいな」と思いつつ、つい「きれいにしっちゃお」という気分が働いていました。文章(と言えるほどのものか自信はありませんが)は絵画、デザインではないので、読みやすいことを第一にすべきでした。いつぞやは、漢字を調べてもくださいました。有り難い存在です。ついつい「プロじゃないから(許されるかな)」という甘えで調べを省略している実態があります。T子さんには、「間違ってたら直ぐ教えてちょうだい」と頼んであります。
 いつも善意から言ってくださる方です。なかなかいません。ほんとうに有り難いです。

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母の外出

 机の前の大きなパネルに、亡き母の写真を止めてある。一緒に小岩井にいったときに撮したものだ。大きな丸太を削って狐の顔を掘った椅子に腰掛けている。杖に右手をのせて左手はひざのうえに。桜が咲くとよく小岩井に行った。車から降りなくてもきれいな風景を楽しむことができるからだ。母は小岩井が好きだった。そして小岩井のアイスクリームも好きだった。亡くなった年の春は、米内の桜が見たいというので、一緒した。見事だった。
 そして母との最後の外出は去年の10月17日だった。弟がまえもって病院に外出許可願いを出しておいてくれた。わたしがすこし遅れて着いたために出発がすこし遅れた。車椅子で駐車場まで移動し車に乗って貰い出発。弟が来てくれたこともあり、母はとても嬉しそうだった。網張に行った。ところが母が見たいといっていた紅葉にはまだ早かった。何とかして見せたかった。相談の上、これから先出かけられるかどうかも分からないということで見せようということになり、八幡平に回ったのだった。弟が八幡平の駐車場でお団子を買った。お手洗いに行くために下車した他はずっと車中だった。まだちょっとは早いけれど、山の傾斜には紅葉がいくつもこんもりと点在。十分に楽しむことはできた。病院に帰り着いたのは5時半ごろだったと思う。
 母はこの年の10月26日に脳梗塞で寝たきりとなり、12月26日に不帰の人となった。今年も何処からか、この桜をきっと見ているに違いない。

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チューリップ主(あるじ)待つかに

 人住まぬ家となりてもチューリップは
 主待つかに増え咲きにけり           ぶんな

 この町内に廃屋となって竹や樹木が鬱蒼と茂っている敷地があります。路から半分隠れた小さな庭いっぱいに、いつのまにかチューリップの球根が増え広がり花を咲かせていました。精一杯咲いています。大きくて立派です。これでもかこれでもかと雑草にも負けず、花壇いっぱいに球根を増やして咲いています。まるで去ってしまった主がいつか必ず戻ってきて、自分たちを見てくれる日を信じてでもいるかのようでした。

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新芽活き活き

 ウコギ、サンショウの瑞々しく光る新芽をたくさん摘みました。
 ウコギはゆでて胡桃、味噌漬け大根とみじん切りにし、ごはんにかけて。サンショウはすり鉢でごりごりと擂り、砂糖、味噌と混ぜて、田楽に。

 サンショウは落ちた実がどんどん発芽します。2、3年で30センチほどの高さになります。キアゲハの幼虫がサンショウの葉っぱをぱりぱりと食い尽くすさまはほんとうに壮観です。
 夕食が終わると、今日の仕事は一段落。
 こうしている間にも、どんどん桜はふくらみ、散りかけ、水仙は控えめに明るく。パンジーは陽気に。すみれはさわさわと。チューリップは文部省唱歌を歌い、芝桜は絨毯を広げ、ゆりはずんずん。桜草のつぼみは桃色がかり、すずらんは呼び醒まされて顔をだし、次つぎに呼び出され、土をもちあげようと幾千幾万の芽が地中に待機中。
 天には春の星座が両手をいっぱいに広げて、そろそろ出そうなあくびをかみ殺しています。
 

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ルービンシュタインに訊く

 「えっ?割烹着が制服のおばちゃんがインタビューしたの?。な訳無い!」。笑われて、いっぺんにシューっと小さくなっちゃいました。
 ロバート・マクニールのインタビューです。DVDです。しかも自分で買ったのではなく、倅がバイトでゲットした代物です。
 ルービンシュタインを聴いてからというもの、その夜もその次の日も終日、指揮者を見、異次元をみているようなあの眼のルービンシュタインが頭から消えませんでした。もういつ召されても悔い無しというあのしゃっきりとした面差し。皺の刻まれた90歳の指が、すこしも衰えを感じさせずエネルギッシュに鍵盤に打ち込まれる不可思議さ。
 おばちゃんには偉そうなことは何も言えません。だから言いません。けれども、ルービンシュタインが話してくれたとなれば、誰かは聴いてもくれるでしょう。


 彼はユダヤ人。小さい頃コサックに虐められたそうです。コサックの踊りの印象とは大違い、それは怖ろしかったらしい。7歳の時勇気をだそうと自分を鍛え始めたと。20歳のころ、開いた演奏会もはかばかしくなく、経済的にも行き詰まり、ある夫人との愛も破局、首を吊って自殺を図ったところが失敗。空腹でピアノを弾いて、外に出たときに自分が何者であるかを悟ったそうです。

 彼は言いました。
「わたしにとって神とはすさまじいパワーのようなもの・・・天災などで大勢の人々が亡くなったとき、これも神が存在する証だと思う」
「あるがままを受け止め、乗り越えていくのが人生だ」
「コンサートというものは奇妙なもの。黒服で出ていくわたしは葬儀屋でピアノはさしづめ棺桶。ディナーのあとの華やかな服装の様々な職業の紳士淑女が聴き入る。だが人々の心を掴んだときの喜びはすばらしい!」
「演奏を支配するものは感情です」
「ブラームス派の厳格な教育を受けました」

 とても興味引かれたのは次の質問に対する答えでした。
ロバート「人間は死とともに消え失せます。天才のあなたも例外ではありませんが・・・」
ルービンシュタイン「雨の日のロンドンでのこと。エミー・デスティンがこう聴きました『ショパンはどんなふうに弾いたのかしら?』。わたしは『ばかな質問を』と一蹴しようとしたのですが、わたしは無意識のうちにピアノに向かっていました。そしてまだ弾いたことのない小品を弾き終えて見ると、二人の顔が青ざめていたのです。まるでわたしの弾き方ではなかったからです。
あなたの質問には、こんなエピソードでお答えしておきましょう」

 ルービンシュタインは記憶力に優れ、大変な読書家で、ややもするとピアノの練習が疎かになったほど。その彼の証言の数々、面白く聴きました。

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おばちゃんの割烹着

 おばちゃん・・・、あれっ、おばちゃんがまたまた顔をだしました。
 おばちゃんが、おばちゃんらしくなく服装のことなんかを書いたんだけれど、衣服の必要も様々なケースがあるわけで、服飾デザイナーだという方は、やはり独自のデザインをアッピールできる服がいいでしょうし、また多くの人々にものを教える立場の方々は、人前に立つための失礼にならない服装というのも必要なのかも。とくに女性の場合は。ただニュースキャスターの方々に関しては、こうまで頻繁に変えるのはいったい誰のため?と思ってしまいます。視聴者のためより自分のためかな、と。
 何れおばちゃんが服装に無頓着でいられるのは、キャリアウーマンではなく、ステキなレストランや音楽会に行く機会も滅多にはないので、事足りているわけです。こうなるとおばちゃん業もけっこう気楽なものです。見てください、この割烹着。色白は七難をかくすといいますが、割烹着一枚ありさえすれば、タンスの中が寂しくとも、衣生活の七難をすっぽりと豊かにかくしてくれます。そればかりではなく、いかにも、「いま働いてま~す」とアッピールできますから、これほど重宝な一枚はないでしょう。

 さ、この割烹着姿で、またまた草取り続行!

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桜前線

桜前線桜詣での数珠つなぎ       ぶんな

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さくらさくら

 外出が億劫な理由がいくつかあります。ひとつは服装です。若者も高齢者もファッション感覚を磨いているらしく、けっこうおしゃれです。服装を改めて、化粧とまでゆかなくとも少しは地肌も覆う必要を考えるとつい億劫になってしまいます。
 服も必要に迫られないと買いに行こう見に行こうという気にはなりません。毎日同じ服を着ていても気になりません。洗濯をしたものならいいじゃない、で通しています。ただ世間一般のものの見方からすれば、たぶんこれは非常識という範疇かもしれません。そこのところは自信ありません。何れ常識とはいかなるものかを語る自信、資格はないと言えます。音楽を聴いたり絵画を観たりするのは好きなのですが、自分の姿には一つも反映されていません。ふだんからそれを恒例としていると、おしゃれ感覚が磨かれないために、もうダサクなるだけの命運となっています。

 ただここに来て、はたと気がつきました。高齢化社会となるとき、値の張るものではなくとも、できるだけ明るい色彩のきちんとした衣服を身につけるべきかも知れない、と。ただ、おしゃれというものは本来社会のためにするものではなく、ステキでありたいという個人的な意向から発しているものなのでしょう。わたしがそこから外れてしまったのは、正直にいえば無精、怠け者だからなのですが。
 気づいたところで、見栄えのよい服装となったとは言い難いのですが、運動不足解消のため、さくらを見がてら買い物に行ってきました。
 この季節である間は、人が華やかな色彩を身につけなくとも、店頭の看板が多少色あせていても、樹木に街路の花壇に咲くたくさんの花々が街を明るく楽しくしてくれます。深緑を迎えるまでは、原野、高原、野原、家々の庭先も花々でいっぱいです。山では山野草も絨毯のように咲いているでしょう。


 きょうは、といっているうちに、午前零時を飛び越えていました。昨日はそちこちのさくらを愛でながら某デパートやらスーパーを廻りました。デパートは商品見学の場、商品を買うところはスーパーと決めています。

 

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ルービンシュタイン

 一昨日昨日と植えてはあるものの土の関係か、成長や増え方がはかばかしくない松虫草やピエロを移植しました。草取りは、ちょくちょく外に出て草の機嫌を見計らっては素早く鎌を差し込み、ピッと毟っています。
 真っ白だったスミレが自然に交配されたか、花の中心が青っぽくきれいになりました。増えに増えたので昨年減らしたところが、今年はほんとうに一株になったのでまた保護政策を施くことに。ユリの大きな芽がたくさん出ています。


 午後からは、ハイフェッツ、ビアティゴルスキーと百万ドルトリオを組んだことのある、と言わずとも超有名なピアニスト、ルービンシュタイン(1886~1982年)を聴きました。いくら有名でも自分が興味を持たなければ積極的に聴く気にはならない困った性格です。こんなところからも学業はそこそこだったことがばれてしまいます。
 どうもルービンシュタインは、わが梅村保がよく話題にのせたというあのロシアのバス声楽家シャリアピンと酒池肉林の放蕩三昧の時期があったようでびっくりでした。ただ45歳からは真面目になったらしい。映画『カーネギーホール』で〈火祭りの踊り〉を弾いたのが60歳。70歳で枯淡の心境。80歳すぎてすばらしい変身を遂げたらしい。ベートーヴェンのピアノ協奏曲全5曲録音。続いてブラームスの第一協奏曲を録音したようですが、どうもこの曲が、「涙無しには聴くことが出来ない」「ピアノに別れる日が近いことを知った巨匠が万斛(こく)の思いをピアノに託した別れの歌」と石井宏さんの解説にありますから、これはもうかなりでしょう。聴きたいものです。

 長くなりましたが、いまさっき聴いたのはこのヴェートーヴェンやブラームスを録音した時期で、ルービンシュタイン90歳のをDVD化したものです。
 ピアノの前に厳かに端座したかに腰掛け(わたしには神に謁見するときの態度もこのようであろうと見えました)、大仰な仕草はまったくなく終始鍵盤近くに滑る指。フォルテッシモにもすこしも衰えを感じさせず、ほんとうに音が盤石の岩から染みだし、清水と流れき、飛沫とほとばしり、セイブされて豊かに溢れゆく、そんな感じがしました。顎が細るも自分の孫ほどの歳の指揮者や宙をみるときの達観した澄んだ眼。白髪。小さな黒いボタンがついた真っ白なワイシャツ。黒いカフスボタン。胸には白いハンカチ。襟には赤い略章という正装。それこそ巨匠ルービンシュタインが生涯をかけた、これで今果ててもの渾身のステージと見入り聴き入りました。

  商品PRではありませんが、いいものなので
       アルトゥール・ルービンシュタイン
       ピアノ協奏曲集
       グリーグ/ショパン/サン=サーンス
       ロンドン交響楽団
       指揮:アンドレ・プレヴィン
       グラモフォン
  

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スッパリと居眠りを斬った名演奏-ヤッシャ・ハイフェッツ

 午後、居眠りをしていました。ヴァイオリンが耳にすっと入って来、目を閉じたままながら、意識ははたと醒めました。神経を集中しというよりも、つかの間に引き込まれたのでしたが、何かひとつ膜に覆われているようなのですが、素晴らしい演奏です。つけっぱなしのラジオから、思いもかけぬ弦の響き。濡れているようで鋭く、むせぶようで重厚。巧みです。緩急自在なボーイングが眼前に見えるようでした。いったい誰が?演奏が終わって聞いた名前は・・・・ヤッシャ・ハイフェッツ! 14日のブログに書いたばかりでした。ほんとうに嬉しかったし、これはもう神様からのプレゼントだと思いました。アウアーの門。同期の演奏家たちの顔色も失せた、エルマンでさえ影に隠れてしまうほどの天才ヴァイオリンニストの一人です。ラヴェルのピアノ三重奏曲。しかもピアノはルービンシュタイン。チェロはビアティゴルスキー。この三人は、演奏人生の最盛期にトリオを組み百万ドルトリオと呼ばれているそうです。膜がかかっているように聞こえたのは、古い録音だからでした。
 居眠り最中に壊れかけた脳細胞がまたまた再生した気分です。晴れやかです。


  気になってすこし調べましたらこの百万ドルトリオのCDが、グラモフォンから2000/11/22に発売になっていました。
  ラヴェル:ピアノ三重奏曲/チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲
       ルービンシュタイン(P)
       ハイフェッツ(Vn)
               ビアティゴルスキー(Vc)

 このピアノ三重奏曲もラヴェルの円熟期のとき四十歳で作られた曲。室内楽史上重要な作品であったようです。今日は思いがけぬハイフェッツとの出会い。ほんとうにラッキーでした。ハイフェッツさん、つい眠っていて途中から聴くこととなり失礼いたしました。

 岩手のまちの中にではなく、草深い太田村に産声をあげた太田カルテットの四人が、ヤッシャ・ハイフェッツを聴いたかもしれないのは帝国劇場で大正12年11月来日のときと思われます。(以降は2011年3月29日の書き足しとなります)ただ、このときの音楽会曲目は残っていますが、実際にハイフェッツが来日していたかどうかはさらに調べる必要があります。

 CDの2000年11月発売ー1923(大正12)年11月来日
 どちらも11月というこんなちょっとした符合も何やら面白く感じられます。


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散歩

 歩行半径のあまりの狭さを危惧した主人が、きょうわたしを散歩に連れだしました。たしかにこのままでは、脚が退化しそうです。運動不足は色々な病気を呼ぶでしょう。
 よその庭をそれとなく見ながら、坂を上がったり下ったりの一時間弱。梅、こぶし、白木蓮がきれいでした。久しぶりに歩いたせいか疲れてしまい、腰掛けられそうなところを探しました。加賀野交差点近くに新たに置かれたベンチがあり、ほっとしました。

 80歳過ぎて押し車に捕まりながらゆっくりと歩く母の姿が思い出されました。同じようなお年寄りを見かけると、母もこうだったなと。杖も押し車も無しで歩けるうちは、
80過ぎてあるくことが、結構な重労働にも相当する場合があることには気づきません。しかし、自分たちもやがてはそうなる日が来るのです。高齢になると、たいていは運転免許も返上してしまうために、バスかタクシーです。そのときに持ち歩けるのはせいぜい杖で、押し車まではなかなか積み込んでまでは持ち歩きません。外出先で歩行途中に疲れてちょっと休みたいと思っても、すぐ近くにベンチがないことが多いです。こういった高齢者の方々のために、また将来の自分たちのためにも、街の中に、できるなら郊外にも、ちょっとした腰掛けて休めるベンチや椅子のある空間をできるだけ増やしたなら、安心してショッピングや散歩を楽しめるのではないでしょうか。
 「ばあや」「おばあちゃん」そう呼ばれる歳になりました。できるだけ足腰を鍛えて健康保険や介護保険を圧迫しないで日々を送るという社会貢献を果たしたいものです。

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除草剤は怖い

 昨日友人から葉書が届きました。詩の創作に熱心な方です。昨年末までのわたしの忙しさをよく知っていて、何とか時間を作り出す方法を教授してくれたものです。
 葉書には、除草剤カソロンがいいと書いてありました。使い方や値段まで書いてあります。わたしへの思いやりです。有り難いことです。
 
 ところが、この葉書が届いたときから、何だか庭がざわざわするのです。見るとあの雑草たちが抗議集会の真っ最中。
「ちらっと葉書が見えたけど、カソロンっていうのは、あのチクロンBと同じじゃないの」
「わたしたちを絶滅させようって魂胆ね」
「そこまでじゃないとおもうけど・・・」
「だけどわたしたちを毎年それでやっつけようってわけでしょ」
「しかしここの管理人もわかっちゃいないよな。毎年使ったらどうなるか」
「俺たちにぶっかけるごとに、だんだんこの敷地に残留してさ、雨水に溶けちゃってさ、そちこちめぐって最後にゃ自分たちの口にまで入っちまうってことなのさ」
「ねぎを植えたみたいだが、ねぎにだってたんと染みこんじまう」
 眉間にしわを寄せてしゃべりまくる雑草たちの話に、ちょっと怖くなってきました。除草剤か、こりゃいいぞ、楽ができそうだと喜んだのもつかの間。草たちが本気で怒っているようなので、怖くて使えません。彼らをあまり刺激しないように、除草剤はあきらめて、人海戦術にするとします。


 それにしても、わたしに何とか小説を書かせたいと考えてくれた盛岡のT子さん、有難うございます。
(
ほんとうはね、たいそうな小説なんて書けないの。だけどがっかりさせちゃうから、すごいのを書くぞー、っていうふりしてるの。でもこれは、ひ・み・つ)
 この庭にはいるときには、くれぐれもお気をつけください。草たちの怒りが収まるまでまだ間がありそうですので。いらっしゃるときにはご一報くだされば、それなりの護衛対策もいたします。

 
 

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春の陽気

 ギドン・クレーメルらが、南バイエルンにあるポリング修道院の図書館で収録したヴィヴァルディ「四季」でスタートした一日だったが、午後の二時半になるも、クリエイティブな成果は上がっていない。それほど焦らないのは、やはりこの陽気と歳のせいかもしれない。
 外は実にいい天気だ。このところ家にこもりっきりとなっている。たまに植えた
ねぎが立ち上がったのを見まわったり、ゆりの芽がどの程度でているか数えたりしている。春はすばらしい。きのう近所の庭のが見ごろだった。庭では水仙がかたまって明るく咲いている。とにかくありとあらゆる生命の源がどっくどっくと脈打っているのがわかる。地下で地表近くで、地上で樹上で大空で。クレーメルの切れ味のよい弦の響きが、土の中で、花の中で、水の中で、風にゆれる樹上で鳴っている。ほんとうは終日二階の屋根の上にでも仰向けになって、この空の青さをシャワーと身に浴びていたいくらいだ。

 まだありとあらゆるがこの大空に向かって伸びている。伸びている。伸びている。

         

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ミッシャ・エルマンのヴァイオリンは?

 またまた古い話になりますが、帝国劇場にミッシャ・エルマンが来ています。大正10年2月16日から20日まで毎夜8時開演でした。なぜエルマンを持ち出すかといえば、われらが大正の太田カルテットのメンバー梅村、赤沢、館沢、佐々木は、この演奏会を聴いてからというもの、一気に音楽熱上昇。彼らばかりではなく当時の日本の音楽家、ヴァイオリン製作者らにも衝撃的な影響を与えたらしいのです。
 伝えられているエルマンの演奏の評は、「自由奔放、楽譜の指示は意に介さず意匠の赴くまま、中間部の盛り上げ方とそのあとの寂びょう感に才・・・・」
 エルマンは、1904年13才でベルリンでデビュー。1905年にはイギリスでデビューと華々しい経歴。エルマンの甘美な音色はエルマントーンとして一世を風靡したといいます。
 ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリン奏者、教育者でペテルブルク音楽院のレオポルド・アウアーの門の秀才だったエルマン。もっとも10才年下のヤッシャ・ハイフェッツが現れてからは、その影に隠れた感もあったらしい。ハイフェッツの存在は、それほど当時の演奏家の脅威、悩みであったようです。
 それはともかく
、エルマン演奏会が当時の日本の音楽界を震わせたのは確かなようです。
 エルマンの何が?と考えて、彼の経歴や論評を取ってみたわけですが、やはり気になったのは楽器でした。帝国劇場に持参したのはいったいどんな楽器だったのか。梅村らが聴いた弦の響きは? しかしこれは遂に特定できませんでした。ストラディバリウス(略してストラド)だったのは確かだと思います。ストラデバリウスの履歴の方から辿ってみましたが、彼が所有した経歴を持つヴァイオリンは3挺。1717、1722、1727年製です。さらに調べればもっとあるかもしれません。婚約者からプレゼントされた「マダム・レカミエ」がこの3挺のうちのどれかは特定できませんでした。1717年製と思われますが、違っている可能性もあります。1700~1725年製(ウィキペディアでは1698~1725)はストラドのなかでも最上の作品と評価されていますから流石です。

 最上のストラドの中でも殊に格別なのは1715年製ですが、これを今現在誰が使っているかといえば五嶋龍君なのです。嬉しくなります。お姉さんの五嶋みどりさんは、たしかガルネリです。唸ってしまいます。
 エルマンのSPレコードもあるはずなのですが、手に入れる術はありません。まったく申し訳ないことには、肝心の音を聴かずしてこれを書いていることです。音は勝手に想像しました。エルマンのプログラムにある、赤沢が聴きたかった曲、聴いて後についにステージで独奏した「チゴイネル・ワイゼン」。これにエルマンの自由奔放、激しい聴かせどころをぐーんと持ち上げて最後に虚しくなるほどの寂びょうを鳴らし、などと想像してみると、なにやら「チゴイネルワイゼン」中の「チゴイネルワイゼン」という感じが。

 それにしてもストラド。いま鑑定書付で2000挺あるらしいのですが、「ハンメル」は史上最高価格3億9千万円での落札。いまだに市場を騒然とさせ、奏者の熱い視線を浴びつづけているわけです。太田カルテットの4人が、大正10年2月の5日間、感激に震えたのは、いまもなお健在なこの2000挺のうちのどのストラディバリウスの弦の響きだったのでしょうか。
 航空事故に遭遇したストラド、また航空事故で音楽家とともに世を去ったストラドもあるようです。まさか、いま天国に保管されてあるそのどれかではないとは思っていますが。

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ねぎを植えました

 あれこれ書いているうちに、またエプロンをかけるのを忘れてました。そうそう主婦をしっかりと勤めあげるにはこれこれ。
 そそくさと前に当てて後ろでひもを結べば、またまたおばちゃん気分。はい、たしかに仰るとおり婆さん気分でもあるのです。主婦に定年退職はないのです。有給休暇も、ちと怪しい。などと言いながら、管理人がよそ見をしているうちに、自主休憩なぞを取っているのであります。

 さきほど、土をひと畝耕して、鶏糞なぞを入れてかき混ぜて、午前10時過ぎに頂いたねぎの苗を20本ばかり植えました。

ねぎたちの注文もなかなかこまいものです。
「土をもっと深く掘ってくれない?」
慌ててスコップでえっさかほいさか掘りました。
これでいいかと一息つけば、
「小っちゃな石ころがまだ混じってるよ。取ってくれなきゃ、痛いじゃん」
あいよあいよと拾っては、
ぴしぱし放り投げました。
で、こんどは?
「肥料を入れて、よくかき混ぜて。効き過ぎでやけどしないようにね」
さっさかほいさか混ぜました。
「これでいいかい?」
にこっとしたのに安どして、
一本一本植えました。
「大きく大きく育ってね」
といったら、何と、
「どうしようかな~」とのたもうた。
「どうしようかなって、どうするの?」
「そらあそこにいるでしょ、猫が」
「で?」
「ふんずけちゃうぞ、だってさ。昼寝もおちおちできやしない」
なるほどなるほど、よく寝ない子はよく育たないもんね。
「だからさ、ちゃんと見張ってほしいのさ」
あ~あ、手のかかる坊やたち。
「たまには見まわりいたしましょ」
さてさてはたまたこれ以上
文句がとんでこぬうちに、
さっさと家に入りましょっと。

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宮沢賢治の地で ーその5ー平和の人

 賢治さんの地、花巻で影響を受けたこと、教えられたことを書き留めている。自分が賢治のように生きようとしたわけではない。賢治に似たものになろうとしたわけでもない。ただ花巻に暮らしたがゆえに少なからずの影響を受け、忘れがたいことなどを文字にしている。

 T子さんとの出会いは平成8年。岩手県民芸術祭小説部門の合評会だった。T子さんは「はまなすの花」、わたしは「脱皮」で入選。わたしが詩や短詩を書いているのをご存じで、話しかけてくださったのだ。花巻市を離れた平成11年にお別れの食事をし、ご自宅までお送り申し上げ、これが見納めと手を振ったつもりだったが、平成20年、T子さん90歳になられるもおつきあいは現在進行形である。

 T子さんは、「反戦、平和の人」である。戦前、一旗あげようと夢見て多くの人々が満州に渡ったが、T子さん夫妻の目的はまことに民族間の平和を希求してであり、営利とはまったくかけ離れた理想からだった。きれいごとがめっきり少なくなった昨今だが、これは信じるに足る事実である。だが夢は敗戦によって打ち砕かれ、帰国後、「再会」を執筆。世に戦争の悲惨さと平和の尊さとを訴えた。T子さんは恐らくは、息の絶えるその日まで、戦争の証言をし平和を訴え続けるだろう。不思議にも会うべくして会った方だった。会うごとに戦争の体験談を異なった角度から聞くことができた。当時は平和ボケしていたために実はその尊さがよく分かっていなかった。しかしこれが今になって深く自分の中に打ち込まれているのに気づく。また不甲斐ないわたしのために、いつも祈ってくださっている。祈りは通じるものだ。そのゆえもあるとおもう、わたしはT子さんを忘れたことがない。T子さんを思い出すと、これぁ真面目にやらなくちゃならんな、という思いになるのである。
 賢治にも詳しく、よく教えを頂いたものだ。イーハトーブ館の下には見事な牡丹園があるが、一緒に歩いたときが忘れられない。

   車椅子の高さに牡丹つづきけり

   聞こゆるはゴーシュのセロか牡丹園

   構えればカメラの窓にあふれたる
   友の笑顔に牡丹並べり

   牡丹愛(め)で牡丹の影を踏みてゆく

  こんな俳句、短歌を詠んだものでした。

  T子さんが、難しい病気を克服し、一面に白い花の咲く蕎麦の畑を背景に撮った写真を送ってくださったのは去年のことでした。  

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展覧会のお知らせ ー七宝焼ー

   

      天沼三津子さんの
         七宝に遊ぶ展 

       2008年4月16(水)ー4月30(水)
         11:00amー9:00pm(日曜休)
       
 喫茶ママ
         盛岡市本町通り1ー8-10
          019-622-5576

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展覧会のお知らせ ー絵画ー

  大信田時子さんの人物画展

   
 5月1日(木)~5月15日(木)
      AM11:00~PM9:00

              (4、11日休)
   
 画廊喫茶ママ
      盛岡市本町通1-8-10
             622-5576
   
   

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「主よみもとに近づかん」

 今朝5時半ごろだったろうか。オムレツをつくるために、フライパンでタマネギのみじん切りと挽肉を炒めていたが、そのとき「主よみもとに近づかん」という賛美歌が心に通った。
   主よみもとに近づかん
   のぼる道は十字架にありとも
   など悲しむべき
   主よみもとに近づかん

 あのタイタニック号が沈みゆく甲板で、楽士たちが最後まで弾きつづけた曲である。宮沢賢治もいたく感動したという。
 胸中に通わせているうちに、これまではあまり深く考えもせずに歌っていたが、「のぼる道は十字架にありとも」がどういう意味かに想いを致したとき、魂が突き動かされるのを覚えた。行き着く先に何も見返りがない。真っ暗闇。やがて自分を呑み込むであろう凍てつく大海原。確実に待ち受ける死。死の恐怖、孤独。絶体絶命の中で、ただ一つ天に開く道である神への信頼を胸に、おそらくは神の静謐に満たされてひたすらに弓を動かし、この曲を弾きつづけたに違いない。
 なぜこんな時間に、こんなことが思われるのか。そうだ、誰かが、いま、わたしのために祈っている、祈っている。
 久方ぶりに敬虔な思いに満たされながら、わたしはかき混ぜた卵をフライパンに広げて、炒めたタマネギと挽肉をその上に落とした。

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佐藤信夫先生逝く

 「太田クワルテット物語」の著者であり、元太田公民館館長だった佐藤信夫さんが亡くなられた。昨日Yさんの電話で知った。2週間前だったという。奥様の周子夫人は、中学校教員だったわたしの舅の教え子でもある。そのご縁で姑が亡くなったときに拙宅に焼香に来てくださっている。佐藤信夫先生とわたしは同じく太田カルテットを調べているというご縁がある。舅の依頼もあり、Yさん、Nさんがいらっしゃるのに便乗を許され、ご自宅に伺った。
 お二人に続いて若き日の遺影に向い、心からご冥福をお祈り申し上げた。

 その部屋で周子夫人が、一挺のヴァイオリンを披露した。太田カルテットの主宰者梅村保が松坂春次郎という方に売却したものだった。それを松坂トモ夫人が信夫先生に託したのだという。
 梅村保は昭和12年、長男重光が満鉄に就職したのに伴い全財産を処分して、満州に渡っているが、その直前にこのヴァイオリンを手放し、旅費の足しにしたものと思われる。
 Yさんがヴァイオリンを手に取り、裏板をコツコツ叩くなどして、修理した箇所を丹念に調べた。「修理に接着剤を使ってるな」と仰る。Nさんが、「にかわでくっつけたものはまた修理できるが、接着剤を使うとそれができなくなる」と仰ったところで、Yさんが仰った意味が分かった。鈴木楽器だ。何年製かは聞かないでしまった。
 鈴木製となれば、思い当たるのは鈴木政吉ー1859(安政6)~1944(昭和20)ーの製作か。鈴木政吉のヴァイオリンはパリ万国博で銅賞を受賞している。また鈴木政吉は、天神(ヴァイオリンのスクロール部)の自動削機や甲削機(表板や裏板に丸みをつける)を発明し、1900(明治33)には大量生産に入っている。この大量生産品とも考えられる。

 弓の棹に張られた糸(馬のシッポの毛)が半分ばかり途中で切れていて、持ち上げるとばらばらと垂れ下がる状態だった。Nさんが垂れた糸を引き抜いて松脂を塗り、弦に弓をあて、メヌエットを弾かれた。大正、昭和のはじめ、梅村保の音楽堂でなったであろうその音が、平成のいま甦ったのだ。ちょうどそのとき小学校五年のお孫さんが現れ、たちまちNさんとお孫さんのピアノの二重奏となった。「ジプシーの踊り」「メヌエット」が、周子夫人、信夫さんの令息、Yさん、端にいるわたしを聴衆として鳴りつづけた。「メヌエット」は太田カルテットもよく弾いた曲である。
 お孫さんのピアノと梅村保のヴァイオリンによるNさんの合奏はこのうえない追悼演奏となった。亡き佐藤信夫先生も感無量であったに違いない。

 梅村保のヴァイオリンは、赤沢長五郎のヴァイオリンも引き受けたいきさつを持つYさんに託された。

 

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赤沢が宮本金八に修理を依頼

 岩手の大正、昭和のヴァイオリニスト赤沢長五郎は、昭和4年6月22日に県公会堂で第二回の独奏会を開いているが、この独奏会の前にも、赤沢は、東京のヴァイオリン制作者宮本金八にヴァイオリンの修理を依頼している。
 宮本金八が田園調布で昭和4年6月19日に、盛岡市加賀野七十九の赤沢宛に書いた手紙には、ヴァイオリンの修理代として拾圓請求したところ五圓が三枚入っていたので五圓を返すので受け取ってほしい事と、第二回の独奏会の成功を祈るという内容が認められている。赤沢はヴァイオリンに不具合が生じるたびに、宮本に修理を依頼し自分で受け取りに立ち寄っていたらしい。
 宮本が自分の息子のために制作した格別なヴァイオリンがあるが、これを他の誰かにではなく赤沢に託したいきさつが、幾たびかのこのような往復書簡からも読めるように思う。

 赤沢長五郎の第二回独奏会のプログラムは、紙質装幀ともに当時、帝国劇場に来日した世界的なヴァイオリンニストであるエルマン、ハイフェッツ、ジンバリストのプログラムと並ぶほどに立派なものであり、壱千六百圓のヴァイオリンの購入といい、宮本金八への修理の依頼といい、赤沢がどれほどに音楽に資金を注ぎ込んでいたか、その力の入れようが窺われる。

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春です!

 役所、会社関係も新しい人事で新年度がスタートしているでしょう。
 専業主婦であるおばちゃんも、真っ白なエプロンと三角巾姿で整列し新入社員のような気分で、と言いたいところですが、恥ずかしくも、いつものしわくちゃでよれよれのエプロン姿でのスタートとなりました。
 上の倅の独立にともない、部屋の移動や大掃除がありました。一箇所に空白ができると、やっぱりそこが埋まるまで落ち着かないものです。
 外が温かかったりすると、土いじりもしたくなります。すでに
がのびのびと育っている小っちゃな野菜畑をスコップで掘り返しました。どのにも生きる権利があるのでしょうが、人間が勝手に雑草と決めつけたを、せっせと抜いては草地に放り投げました。トマトやきゅうりや花たちのためです。
 掘り起こした土をスコップでぺんぺんと叩いて柔らかくしていたところが、ひっこ抜かれた
たちがぶつぶつと「俺たちにとっちゃ、雑草はトマトやきゅうりや花の方だよ。まったく迷惑千万。もうこうなったら何が何でも生き抜いて見せるぞ」。おばちゃんはやっとなぜ雑草が強いかがわかりました。意地です。踏まれてもひっこ抜かれても諦めない。このもの凄い意地。たじたじです。
 見ればこの春もクロッカス、桜草、水仙、チュ-リップたちが、ずいぶんとお仲間を増やして楽しそうにおしゃべりしてました。ほんとうは一本一本にゆとりの空間を持たせてあげると、もっともっと増えてくれるんですけれど、おばちゃんのほうに植え替えるゆとりがありません。
 
雑草は植え替えなくとも、どんどん増えています。もしかすると、賞賛に値するのは雑草のほうかもしれない。
 「
雑草雑草といわないでよ。ちゃんと名前があるでしょ。名前で呼んでくれないかな。どうせなら学名で呼んでほしい。できるだけ格調高くね」とたち。
 これにはもうびっくり。学のないおばちゃんは
雑草たちを前にしょんぼりしてしまいました。
 春です。ほんとうに新しい春がきました。

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4月1日

 南十字座が見たくてわざわざオーストラリアまで出かけてきたというのに、なんと晴れわたった夜空のどこにも南十字が見えません。さっそく国立天文台に問い合わせたところ、やはり南十字座だけがいつの間にか消えてしまっているということで大騒ぎに。らちがあかないので、こんどはNASAに問い合わせてみると、ある信心深い宇宙飛行士がこう証言しました。
「神様がプレゼントに使っちゃったのでもう夜空にはありません」。
 帰りの飛行機のなかで、プレゼントを受け取ったのは、どこのどんな子だろうと考えて、はたと気がつきました。

 エイプリルフールもあと10分ほどで終わりに。

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