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2008年3月

宮沢賢治の地で ーその4ーバイオリン

 三陸の港町宮古市に住んでいたときには、倅とともに梅村バイオリン教室に通っていました。原彬(原敬の甥)が寄贈した時計のある音楽室や、夕陽のきらめきを宮古湾に押しだす閉伊川を右に見ながらの帰りが懐かしく思い出されます。また8月の第一週に、この教室が主宰する宮古ジュニアオーケストラ恒例の発表会は「キラキラ星」で幕が開きます。助っ人に駆けつけてくれたコントラバスやチェロの低音をぼんぼんと力強く聴きながら、2、3歳のこどもたちまでが、16分の1の大きさのおもちゃのようなバイオリンを弾くのです。
 花巻市に転居してからは、予科練だったという気骨ある佐久間バイオリン教室でした。「お母さんもやれば子どもたちもやります」。これは梅村バイオリン教室でも聞いたことでしたが、そんなわけで子どものレッスンの残り時間でおばちゃんもレッスンを。けれどなかなか巧くはなりません。指が思い通りに動いてはくれません。おばちゃんが弾くことに四苦八苦して、子どもたちがやる気を出したかと言えば、上の倅は小6でやめました。ただ基礎的なことは一通りやったので、またいつか楽器を取り出すことがあるかもしれません(というのは親の希望的観測で、もはや取り出すことはないかもしれないのですが)。下の倅はそれから間もなくやめてしまいました。下の倅には今思うと、スポーツこそをやらせるべきだったかもしれません。それを親の好みで楽器を押しつけてしまったかもしれないと。いまでも倅に申し訳ないような気持ちです。

 ただおばちゃんはこう考えたのでした。音楽家になって欲しいとは思わない。ステージでライトを浴びて欲しいわけではない。遠い将来大人になって孤独になったときに、楽器の一つも弾けたなら心を慰めることもできるだろうと。アンサンブルにでも入れてもらえば、仲間だってできるはず。ピアノはでかいから持ち運びができない。チェロもでかい。そうだバイオリンだったらどこへでも持っていけるじゃないの。
 う~ん、ところがなかなか。いまは二人とも楽器からは遠いところに。楽器は待っていてくれるらしいのですが、倅たちが近づきたがらない。残念!

 その後のことです。「アンサンブルを結成します。あなたももうメンバーに入ってます」という電話が突然かかってきたのです。「ええ?」とびっくり。「もうメンバーに入ってる!こんなに弾けないわたしが!」ともかく子どもがお世話になっている先生の奥様からとあれば、断わるわけにもいかず、おそるおそる楽器を下げていってみると、何とこれが楽しかった。何が楽しかったか。練習後のお茶のひとときが。おしゃべりが。メンバーはやはりお母さん方で、いつも4、5人。ティータイム目当てに通ううちにちょっとだけ鳴らせるようになりました。
 賢治に因んで葛丸ダムサイトで弾いたこともあります。楽譜が風に煽られ譜面台が倒れかけるという、風の又三郎の悪戯のなかでの演奏でした。最後の舞台は花巻市民会館でアイネクライネナハトムジーク。他の合奏団の中に入れて貰っての発表でした。このときです。おばちゃんが後にも先にも一度きりの超絶技巧をやってのけたのは。それは・・・バイオリンの先生にも仲間たちにもいまだに明かしたことはないのですが、次の小節は聴かせどころ絶対ミスちゃならない、だが完璧に弾くのは無理と、そこの数小節だけ他の巧く弾ける人たちにバトンタッチしちゃったのです。つまり弓だけを動かして音を出さないようにしたのです。みんながせっかく美しく奏でた音に、おばちゃんが雑音をいれることは絶対に許されない、瞬間的にそう思ったおばちゃんは、こんな超絶技巧を用いてしまったのでした。

 賢治さんが音楽を楽しんだその地で、すこしでも音楽にあやかれた有り難さを思います。賢治さんもあの藤原嘉籐治らといっしょにレコードコンサートをしたりセロを弾いたり、また嘉籐治は音楽の教師でしたから、当然楽の音を論じ合ってもいたのでしょう。
 何やら賢治さんの好きだったベートーベン、シューベルト、ブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルジャークが、蓄音器にかけたSPレコードの音で聞こえてきたような気がします。

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主婦57歳で放送大学卒業

  めでたい! めでたい!!

 えっ?主婦っていうと・・・残念ながらおばちゃんではありません。 
「ミュージアムに来 てみて。火曜日はいるから」と言ってくれた人。岩手大学のミュージアムを、初めておばちゃんに見学させてくれたK・Yさんのことです。そう、「初雪がふったらドイツトウヒを見に来るよう に」といってくれたK・Yさんが、9年かけていよいよ学位記授与となるのです。今朝新聞に大きく載ってました。ほんとうに嬉しかった!
 いつぞや県立図書館でばったり会ったとき、新聞にもあった「城下町が思想によってつくられている」という研究内容を図解も交えて熱っぽく話してくれたこ とがありました。「是非小説に書いて。書いてもいいからね」と言ってくれました。まあ、おばちゃんが小説に書くには、あと2回ぐらいは彼女に教えを請わ
なければなりませんが。
 おばちゃんにも是非放送大学で学ぶようにと学内を案内もしてくれましたっけ。彼女は会社勤務だけではなく、県の詩人クラブの運営にも積極的に関わってきましたし、また人の面倒見もよいのです。
 いくら忙しくてもやる人はやるの
ね。おばちゃんなんかはもう恥ずかしくてつつかれたカタツムリみたいに小っちゃくなちゃってます。うん、でも、ほんと嬉しい。こんどは大学院だって。


   
ほんとうにおめでとう!!
 
 

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秋明菊の苗

 東京方面はもう桜が咲いているようです。このモリーオはほぼ一ヶ月遅れ。
春はたくさんの花が咲きます。休耕田を彩るタンポポや菜の花は見事です。散歩道にもビオラやすみれ、水仙、チューリップ。地の面が絨毯のようになります。
 けれども秋に頑張って咲いてくれる花の何と少ないことか。ところが今朝、近所のT子さんが、秋明菊の苗をくださいました。去年舅のおともで朝市に行くたびに買おうかと迷ったのでした。これで庭が秋の寂しさから救われます。さっそく植えました。たくさん増えてくれるはずです。
 今年からは花にはあまり経費をかけないことにしました。さまざまに植えるよりも、この一区画にはこの花だけ、この一区画にはこれだけをというふうにしたいと。東西南北に春、夏、秋に一種類ずつ咲くようにしたいなと考えています。そしてアクセントに何カ所かにフラワーポットを置こうかなと。
 ことしの花々たちが果たしてことしの何を語ってくれるかが楽しみです。
  

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久方ぶりの散歩

 昨日のことです。昨日のことでも昨日のうちに書けないこともあります。それで今日書いています。
 お昼ちょっと過ぎ食事をしていると、MTさんから電話でした。不思議だな、と思いました。午前中に、MTさんが食べたいといっていたお赤飯を蒸籠でふかし届けようとしていた矢先でした。
「きょう天気がいいからどっかへ行こうかと思ったんだけど、岩大に行ってみない?」
 いつかわたしが、「何も遠くへいかなくても岩大に立派な木がある」と言ったのを覚えてくれていたのでした。1時に迎えにきてくれました。人様を送り迎えしても、人様に送り迎えして貰うなどという事は滅多にないので恐縮してしまいました。実はMTさんの家は岩大のすぐ近く。彼女の車庫に車を置いて岩大まで歩きました。

 ミュージアムのガイドをしている友人が、「ドイツトウヒを見るなら、初雪が降った翌朝に来て。ほんとうに神々しいから」と言っていたのに見ないでしまった事が悔やまれました。
 MTさんは子どものころは、よくこの辺りで遊んでいたそうです。ミュージアムの方に渡り廊下があったとか、昔はこの池は無かったとかこの駐車場の辺りは、築山だったとか、温室でバナナがなっていたのを食べたことがあるとか、そんな話をしてくれました。
 池にカエルがいっぱい居たのにはびっくりでした。ざっと30匹はいました。日だまりに寄っています。ヒキガエルでしょうか。脚の長さをいれないで10センチ大には見えました。
 池のむこうに立つドイツトウヒにはやはり風格があります。これまで見た中ではいちばんだと思っています。ギンドロにもメタセコイアにもまだ葉っぱは出ていません。それがすこし寂しいのですが、楽しいおしゃべりの一時でした。

 まだ毛を刈られていない羊。目が澄んで人を信頼しきっている一頭が近づいてきました。毛の中に枯れ草やらゴミが入り込んでいます。そう簡単には取れそうもありません。頭をなでながら、こちらが癒されました。
 ヤドリギといったつもりがヤドカリといっていたわたし。訂正しないままに話はヤドカリの話となり、芽吹きかけたしだれかつらをくぐり、樹上さわぐぎんどろを見上げながら帰途に。

 帰りの信号待ちで、「イースターの卵、美味しかったよ」と彼女。日曜日の午後、たった一個届けたのでした。帰りは歩くというわたしを、また送ってくれました。感謝、感謝。

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旅立ち

 今朝8時41分の盛岡発で倅が上京した。「付き添いは要らないよ」と本人がいうので、ついてはいかない。尤も東京には姉一家が居り、助っ人は足りるのだ。盛岡駅で別れる。ゴールデンウィークには戻るつもりらしい。
 気管支が弱く、ちょっと風邪をひいてもひどい咳が出、よく病院に走った。これが咳に効くよ、と教えられた色々なことを試したものだった。その中でも、「フライパンで塩を炒って布に包み胸に当てる」方法を聞いたときは、まさかそんな事で、と半信半疑だったが、試してみると意外に効いた。胸に当ててすこし経つと咳が引いていった。そのお陰で薬を飲ませなくて済んだことも。
 幼少のころは、家の回りのワラビやハルジオンの花をよく集めてきた。どの子もするように虫にも夢中だった。とにかく集めてきたのはコオロギだった。それにカマキリやカタツムリ。キアゲハの幼虫を5、6匹手に持ち帰ったときは、ぎょっとしたのが、親の方もしだいに慣らされ、いつのまにか貴重な幼虫としてランクしていた。
 やせっぽっちだった。小学校の相撲大会でははらはらした。初戦で負けるなと思っていたところ、粘りに粘って初戦だけ勝ったことがある。成人にいたるまでのさまざまなことをも思いだし涙がにじんだ。

 送ってから、倅が暮らした部屋を見にゆくと、音楽CDが9割かた残されてあった。

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宮沢賢治の地で ーその3-夜空の星

 真夜中に公園の駐車場にダンボールを敷いて星の観察をしていたところ警官に職務質問をされた友人は、いまゆっくりと余生を楽しみ過ごしていますが、このTさんの連れていってくれた星の観察の館は、ある畑の傍のちょっとした木立にたっていました。小さな小さな小屋なのですが。ちょっとすごい天体望遠鏡が備えられていました。屋根がスライド式になっていて、夜空に向かってがらがらと開く仕掛けなのです。階段を上がってひょっこりと天に頭を出し、一人ずつ望遠鏡をのぞきます。待っている四人は空を見上げます。
 秋の空です。幾分雲がかかっていました。雲がすこしずつ流れて、切れて、ついには夜空のほとんどが現れてくれました。頭上のやや東には有名なアンドロメダ座。宮沢賢治記念館の「大銀河系図」ドームにはない星雲です。やや西には夏の大三角形をなすデネブ、ベガ、アルタイル。やや北にカシオペア、やや南にペガサス。北東端にアルデバランだったかもしれません。宮古市にこれと同じ名前のレストランがあったことを思い出しました。全身に降りそそぐような星くず。散りばめられたえもいわれぬ星の瞬きです。

天空の星々掃きてわが箱にしまい置きたし暁きたる

 こんな短歌を詠みました。

 このような恵まれた星の観察も、花巻にあってTさんと知りあわなければ、機会はなかったかもしれません。

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イースター

 長岡輝子さんのご両親がクリスチャンだったことをこのブログにも書きましたが、今日この日曜日は、イエス・キリストの復活を祝うイースターの日です。イエス・キリストは十字架に磔となり葬られ日曜日の朝に復活しました。イエスは、復活して先ず最初に、イエスに七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリヤに現れました。それから次つぎに多くの婦人たちや弟子たちに現れました。
 イエスが人の罪をあがなうために十字架につけられた? 死んで三日目に甦った? 死んだ者が生き返る? 信じがたい、信じられない、あり得ない話だ! しかし東大教授矢内原忠雄は言ったそうです。「
荒唐無稽なるがゆえに信ずる」と。

 長岡さんのお母さんの栄子さんもイースターエッグをたくさんたくさん作ったかもしれません。もしかすれば、あのタッピング夫人といっしょに。

 

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倅の就職

 なんというはやさだろう。あれよあれよという間に3月の20日。
「市役所は行ってきたよ、転出届けOK」。「運送屋の手配はしたよ」。「切符は取れてる。片道切符だな」と、東京までの乗車券を財布から出して見せる倅。いよいよだなと思う。今日の午後は一緒に買い物をしてきた。最低の生活用品一通りをダンボールに入れ、せっせと荷造りしている。
 思えば、いままでわたしの買い物、用足しなどにも億劫がらずに付き合ってくれたものだった。寂しくはなるが、これもひとつの摂理と思うことにする。
 出発までにはまだ間がある。残された一日一日にも展開があるだろう。せめて好きな料理でも作ってやりたい。

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宮沢賢治の地で ーその2-石の重み

 花巻市に暮らしていたときに、鉱物採集に行ったことがあります。一回目は倅と、県の教育センターの自然観察会への参加でした。そのあとは、近所の行きたい子どもたちも連れていきました。北上市と横手市を結ぶ国道107号線上、和賀仙人の仙人第二トンネル付近から、谷川に下りてゆきます。葛、大待宵草、アカソなどの草いきれの道を、ガマズミやタラの木を薮の中に見、朴木やブナの木の梢ごしに眩しい夏の空をあおぎながら十分ほど歩くと川原です。川に大きな石がごろごろと転がる和賀川に出るのです。その大きな石を幾つもいくつも踏んで向こう岸のガレ場に渡りました。

 すこしあるくと、曲がりくねり流れる川縁の砂礫に屹立して急峻な側壁が迫ってきます。この辺りの川とずり山が採集場所です。全国的にも知られているところなようです。
 先ず川に入ってザルで川底の砂をすくいあげ、水で洗うと黄鉄鉱が1、2個ぴかぴかと光って姿を現します。いかにも金のようですから「おおっ」と歓声があがります。
 川縁ではもう取り尽くされているのか見つかりにくいので、ずり山に登ってひっくり返し取り上げしながら探してみると、鏡鉄鉱がよく見つかります。ヘデンベルク輝石、方解石、水晶、ガーネットがありました。ガーネットは1キロ以上も重量のある岩石のなかに1㌢ほどあるのがやっと分かるといった具合です。研磨された石のような鮮やかな色ではありませんから、見つけること自体が大変です。そうそう簡単にハンマーで砕けるものではありません。
 動き回っているうちに、足場の石ががらがらと崩れて、弾かれ弾かれ谷底に落下していきました。ひやりとして足場を移し眼下を見ると・・・

落石をたどりて見れば谷底に緑玉のごとく川は静まる   

 磨き込まれた緑玉が川の形をして谷底にはめ込まれていたのです。探しあてた鉱物にも勝る美しさがそこにあったのです。これを短歌に詠んだのでした。

 因みにこの辺りからの採集の実績としては、見つけたもののほかに、黄銅鉱、輝水鉛鉱、磁鉄鉱、緑レン鉱、孔雀石、大理石、かこう岩、石英、バラ石英があるそうですが、どれがどれやら、専門家のつかない採集は曖昧模糊として、せいぜい3、4種類を見出すのがやっとでした。
 これで岩石、鉱物の知識が増えたわけではありません。ただ、磨き抜かれた石よりも、原石に秘められてひっそりとけれども確かな存在をそこに示す石にこそ味わいを覚えるようになりました。

 欲張り持ち帰ろうと背負った石の重みが、のっちりと肩に食い込みました。賢治さんだったら、持ち帰ってさらに綿密に分析などしたのでしょう。 
 こんな体験も賢治さんの花巻にいたからこそできたことでした。


   

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宮沢賢治の地で ーその1ー

 宮沢賢治が生まれた花巻市に、平成4年から11年まで暮らしました。「雨ニモ負ケズ」と「注文の多い料理店」しか知らなかったのですが、しだいに賢治世界を教わることとなりました。幼稚園、学校では毎年賢治作品の舞台発表がありましたし、社会教育関連の講座を受けたときには、決まって「日は君臨し輝きは白金の雨注ぎたり・・・」という精神歌(花巻農学校校歌)を歌うのでした。そんなわけで賢治記念館にも足を運び、それも来客があるたびに案内しましたので、何度も行くことになりました。その影響で、和賀に鉱物採集にいったこともあります。


 花巻では、天文の好きなTさんと知り合いました。Tさんは女性でありながら真夜中にぎんどろ公園にダンボールを敷いて仰向けになって星をみていたところを警官に職務質問されたことがあるのですが、それほど星が好きでした。Tさんの紹介で、石鳥谷町の畑の傍らに設置された天体望遠鏡のある小屋に一家で押しかけ、夜通し星を見せて貰ったことがあります。


 ぎんどろ公園の近くには、賢治が葬られた日蓮宗身照寺があります。何度かお参りしました。NHK仙台放送局や今は亡き内田朝夫が参拝した塔婆が立っていました。詩作を趣味としてはいましたが、「どうか良い詩が書けますように」とは祈りませんでした。賢治さんに申し訳ないと思ったからです。宗教的な温かい魂をもって作品を創造し、農民のために心をくだきながら自らもついに病んでしまった賢治さんに、大した善行も積んでいない自分が、身勝手から詩が巧くなるように祈るなどとんでもないことです。ただひたすら冥福を祈ったことでした。


 賢治忌だったでしょうか、農業高校に講演を聴きに行き、そのあと羅須地人協会(賢治さんの家)に回ると、通りかかった方が、「どうぞ中にお入りください。お茶がでます。座っててください」というので、無知なわたしは従い待っていますと、二人の方が入ってこられ、何と、まもなく入ってきたのは後の紹介で知ったのですが、宮沢家の人々で、清六さんのご家族だったのです。はからずも同じ部屋で抹茶を頂くことになったわけです。毎年来ていてこのような光景を見知っていたなら、靴をぬいで座敷に上がることは遠慮したのですが、何も知らないがゆえの幸運でした。 

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照井栄三 ー盛岡出身のバリトン歌手ー

 長岡輝子さんの「老いてなお、心愉しく美しく」草思社 に照井栄三が書かれていました。おばちゃんが知っている照井栄三は、昭和2年6月25日(土)に盛岡市の内丸にある岩手県公会堂で、マニエルデフアラー、デッウベルデア、ゴダール、マスネー、フォーレ、山田耕筰らの歌曲を歌ってくれたバリトン歌手です。建ったばかりの公会堂でした。この「郷土出身者音楽大演奏会」を主催したのは、岩手音楽協会です。瀬川良隆(ピアノ)、赤沢長五郎(ヴァイオリン)、榊原直(ピアノ)、竹岡鶴代(ソプラノ)もステージに立ちました。かつては太田カルテットのメンバーだった館沢繁次郎が、これら音楽家たちを呼ぶために交渉にあたりました。

 照井栄三は、1888(明治21)年、盛岡生まれ。1945年5月東京大空襲で亡くなりました。1907(明治40)年ー1906年(明治39)年と書かれているものもありますがー渡米。声楽に出会い、1919(大正8)年渡仏。バリトン歌手シャルル・バンゼラに師事。1922(大正11)帰国し、大阪中心に活動。フランス歌曲を紹介しました。

 ざっとこんな経歴の照井栄三なのですが、長岡さんは、「方言の朗読のすばらしさを教えてくれた照井栄三さん」と言っています。あれっ、と思いました。照井栄三は声楽の初めのころ盛岡訛りが強くこれで苦労したはずなのです。フランス語で怒りを発音しても、訛りのために怒声になるなどと聞いていました。
 けれども帰国後、近代史の朗読を提唱し、方言で賢治の詩を朗読したといいます。新劇では訛りは徹底的に矯正されていた時代だったとか。ですからこの朗読の印象は長岡さんには強烈だったらしい。まわりでは、おかしくてげらげら笑った人が多かったということです。しかしこれが長岡さんにおおきな影響を与えたのでした。


 照井栄三は、1942(昭和17)年に出版した「国民詩と朗読法」のなかで、とくに高村光太郎、草野心平、宮沢賢治を朗読すべきとあげているそうですが、長岡さんは、「私が詩を読み続けるひとつは、照井さんの遺志をついでいると思っているからです」と語っています。長岡さんの賢治の朗読には、とくとくとした味わいがあります。自然体の言葉には素直になじめます。
 あの朗読のルーツには、人に笑われても堂々とふるさとの訛りを誇りとして詩を朗読してくれた照井栄三という先達があることを知らされたのでした。

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福寿草

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 福寿草です。この辺りが庭の中でも日当たりがよく、訪れる雉の散歩コースともなっています。昨日と今日の午後は、ことし初めての庭仕事をしました。昨年は冬になってもなぜか枯れた紅葉や松の葉が落ちずに枝にとどまっていました。真冬のあいだに少しずつ雪の上に落ち、雪解けとともに地面に濡れてへばりつきました。まずはこれを除く作業です。枯葉を突き抜けるように出てきていた水仙、クロッカス、チューリップの芽がすっきりしたようでした。きょうは天気もよく、黄色は明るく眩しく、緑は初々しく清々しく輝いています。

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石  ア・ラ・カ・ル・ト

 さんさんと太陽の降り注ぐ空をふと見上げると、ありとあらゆる宝石の粒が、ダイヤモンドダストのように上空に浮いていました。

 トルコ石  オパール  オニキス  ルビー  サファイヤ  トパーズ  アメジスト  ピスラズリ  マラカイト  水晶  タイガーズアイ  トルマリン

 ぜんたい宝石の粒の間からは金剛石のような光がほとばしり出ています。こうしていま、せいいっぱいに輝いて、間もなく、あの虹がきえゆくように消えてしまうのでしょう。

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きょうは花の雨

 きょうは一日家にこもりました。朝5時に起きて朝食の準備をし、お弁当を作って一息つくと、安心したのかひさしぶりに頭痛がしました。あまり薬には頼らないことにして休んでいるうちに、ゴミ収集車がゴミを積み込んでいる音がしたので、慌てて45リットル入れのゴミ袋を二つ持って走りました。
「すみません、お願いします」
「そこに置いてってください」
 ああ間に合ったとほっとしたものの、自分がゴミの班長をしていたときには、「朝8時半までに出すこと」とプリントして回したものでした。すまないなと思いながら家に入りました。カラスの姿はありませんでした。
 いつの間にか頭痛が治っていました。コーヒーを飲んで、片付けをし、昼食の準備をし、といっても朝の作り置きを温めただけでしたが。午後はブログなどを書いたり、借りた本を読むうちに4時に。午後から上の倅の友だちが次つぎにやって来ていたもよう。下の倅が4時に仕事から帰ってきたので、その車でスーパーへ買い物に。牛乳2本、ジュース1本とけっこう重いものが。軽自動車に乗り込むと、前輪左タイヤの空気が足りないような気がしたので、スタンドに立ち寄り、ガソリンを1000円分だけ入れて、タイヤの様子を点検してもらいました。パンクではないとわかりほっとし、5時に帰宅。夕食の支度に後片付けでした。
 8時半のいま、雨が降っています。

 
ふとさまざまな花の色の雨が降っているのを想像してみました。

  チューリップ  ばら  鈴蘭  アマリリス  クロッカス  ジャスミン  たんぽぽ  すみれ  カサブランカ  わすれな草  水仙   

 そんな雨粒が、屋根に、傘に、石畳に落ちて流れて虹色の川となって流れくだる。子どもっぽい想像ですが、なにやら明るい気分になってきました。

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ルートヴィヒ2世のワーグナーびいき

 図書館に「名曲アルバム」があります。ロシア編を返却し、こんどはドイツ編を借りてみました。NHKテレビで放映されたものを編集したものです。素晴らしいカメラワーク。たぶん現地に足をはこんだとしても、このような角度からこれだけの素晴らしいアングルを的確に捉えることは出来ないと思われます。「名曲」などと題を冠されると、むしろ聴く気観る気が失せるかたもあるかもしれませんが、一貫して透明度の高い映像には心が洗われます。大曲をじっくり聴く暇がないときにはもってこいです。

 ワーグナーの歌劇タンホイザーの「夕星の歌」とともに流れるのは、ノイシュバンシュタイン城。初めてこの城の写真を見たのは、弟が高校を卒業したとき、友人から貰った「世界の城の写真集」ででした。ディズニーランドの「眠れる森の美女」の城のモデルです。
 切り立った岩の上に建てられたこの白亜の城に湖、青い山々の頂、ビリジアンの田園風景、大空の大気までを容れた立体的映像に引き込まれ、またまたこの城をすこしあたってみると・・・(もう誰もが知っていることでも、おばちゃんはまだ知らないので)


 映像からかい摘むと、バイエルンの国王ルートヴィヒ2世になる建築物なのですが、デザインは建築者でも技術者でもなくクリスチャン・ヤンクという画家です。城建設は政務からの逃避だったようです。ワーグナーの作品の世界を各部屋に描かせていますが豪華絢爛、城というよりは美術館のようです。執務室は「タンホイザーの間」と呼ばれています。ワーグナーが滞在中にルートヴィヒの為に弾いたピアノもありました。ワーグナーが死んだとき、ルートヴィヒは、「遺体はわたしのものだ!」と叫んだといいます。よく調べてみなければ分かりませんが、ワーグナー作品に心酔していたこともさることながら、ワーグナー自身が王の慰めとなっていたのかもしれません。

 城の建設資金は、ドイツ統一を支持した見返りとして得たものと王室費からだったようですが、次々に城の建設を企てたために、危惧した政府によって形ばかりの精神鑑定を受けさせられ、ベルク城に軟禁されます。主治医と湖畔を散歩中に、謎の死を。ルートヴィヒ2世の遺体が発見されたシュタルンベルク湖の浅瀬には大きな十字架が立てられ、さざ波に洗われています。ルートヴィヒは、いったいどのような心境で湖を眺めていたのでしょうか。色彩、輝きを美しいと思って眺めていたのか、むしろ、日の落ちた水のそこはかとない暗さに共感して観ていたものか。他殺だったのか自殺だったのか、はたまた事故だったのか興味は尽きません。

 「名曲アルバム」は、ハイライト版です。けれども素晴らしい映像付であり必ずどこかで聞いたことのある懐かしい曲がたくさん入っているので、とにかく書架にあるものは借りてみるつもりです。 

 

 

 

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父 ーレハール「金と銀」

 わたしが生まれた家で、これこそ音楽だと思える曲に出会ったのは、小学校5年のときでした。押し入れを片づけようと、奧にしまわれていたものを引っ張り出しているうちに、10枚ばかりのSPレコードと蓄音機が出てきたのです。犬が耳を傾けているラベル。それはビクターでした。勝手に取っ手を差し込んで、ぐるぐるとねじを巻き、重ねられてあるうちの一番上のレコードを蓄音機に乗せました。レコードは、縁が2センチばかり月形に欠け落ちていました。ですから曲の途中からだったのです。レハールの「金と銀」。いまに比べれば細く貧しいくらいの響きですが、そのときのわたしが、華やかさ、優雅さを感じ取るには十分でした。父が、独身時代の給料を注ぎ込んだものでした。
 次に、はっとしたというよりも、不思議な感じがして引き込まれたのですが、中学校のときだったと思います。朝食を食べていたとき、ラジオからベートーベンの「月光」が流れてきました。題名も知らずに、ただあの有名な冒頭に捕まれてしまったのでした。
 LPレコードを自分で買うようになったのは、社会に出て働くようになってからです。それほど多くはありません。同じものを飽きるほど聴いたというよりも、同じものを何度聴いても飽きなかったので、枚数がそれほどなくとも足りたのです。頻繁に聴いたのが、ヘンデルのメサイア。ある時点からは、ハレルヤコーラスのところだけになりました。会社に行く前に聴いたものです。次はベートーベンのあれこれ。弟の影響でブラームスの「死と乙女」などもよく聴きました。

 高校での芸術の選択は書道でした。これは、叔父が「後で役にたつものをやった方がいい」と助言をくれたからでしたが、段に進むどころか、8級どまりでした。音楽を選択しなかったことが、いまだに悔やまれます。
 強烈な思い出としては、小学校5年の音楽の時間に、S先生が、毎回ハチャト・ウィリアンの「剣の舞」を聴かせてくれました。斬新で強烈なリズムは、もうクラス全員の脳と体にしっかりと刻み込まれたはずです。繰り返し繰り返し聴かせてくれました。なぜ先生が、数ある曲の中から特にこの曲を聴かせたのか、その教育的意図はわかりません。一つには、たぶん先生の中にこの曲に通じるものがあったからかもしれません。今にして物静かで温厚に見えた先生の中に、こんな激しさに通じるものがあった意外さを思うのです。もう一つは、繰り返し聴かせることにより、しっかりと脳内がそれを学習すれば、もうその類似の学習は容易くなるだろうとの狙いがあったのかもしれません。

 わたしが結婚してまもなく、主人が拙宅に音楽のK先生を呼びました。そこでS先生の話を持ち出し、「剣の舞」を聴いてみたくなったが、というと、組曲「ガイーヌ」の中に入っていると教えてくれました。このK先生は、才能のある方でしたが若くして亡くなりました。
 主人が毎朝FMを聴く習慣があったので、音楽は無意識のうちに耳に入ってきていました。こどもが3歳になったときからはバイオリンとの付き合いが始まりました。ピアノは大きくて持ち運びができないが、バイオリンなら就職などで家から出るときにも持っていってくれるだろうと考えたわけですが、この春就職で家を出る息子は、もうすっかり楽器の存在すら忘れているようです。ただ趣味で集めたCDは全部持って行くようです。中にはまだ聴いておきたい曲も含まれているので、残念なところもあるのですが、息子が自分で手に入れたものなのですし、後にも聴きたいと持ってゆくとあれば、むしろ喜ぶべきなのでしょう。手持ちのもので間に合わせることになるでしょう。いまバイオリンは3挺とも埃を被っています。

 父のことを書くつもりだったのが、書いているうちに、「音楽とわたし」とでも題を変えたほうがふさわしい内容になってしまいました。もう遅くなってしまいました。これで締め括るよりほかにありません。明日は、というよりもう今日ですね。いまからやすんで、5時には起きなければなりません。
 

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西本智実

 西本智実は1970年生まれ。1994年大阪音楽大学作曲科卒。1996年ロシア国立サンクトペテルブルグ音楽院留学。イリヤ・ムーシンに師事。と、ここまではウィキペディアからですが、何をふと思って書きだしたかといえば、西本の「身のこなし」のことなのです。彼女が指揮するときの身のこなしが、ムーシンを彷彿とさせるとこのブログに書いたことがありました。ところがそればかりではないな、と。彼女の音楽の出発点は幼少からのピアノとクラッシックバレエにあるので、美しい動きの鍛錬はそのころには基礎ができていたかもしれないと思ったわけです。
 見た目の麗しさも備わっているとなれば、(もしかするとそれは逆で、彼女の音楽的理解が深まると共にそれがいよいよ備わってきたのかもしれませんが)、彼女を是非スターダムに乗せようという意思が周囲に起こるわけなのでしょう。ここからもウィキペディアからで恐縮ですが、2006年にチャイコフスキーの未完の交響曲第7番「人生」の補筆版演奏のときは、「誰も聞いたことのないチャイコフスキーが世界で初めて西本智実の手によって甦る」と華々しく世間を煽ったらしいのです。本人は「研究的価値はある」と極めて冷静であり、賞賛にも苦笑いしていたらしいのですが。
 美人は何かとお得なのかも。これは勿論ひがみです(ほんのちょこっとですけれど)。
 おばちゃんは、すこしは文章も書きます。けれども才能もあやしく、しかも鼻は低く、目も細いとなれば。しかもしかも○○となれば、う~ん。世に出ないのはそれが原因とは言いませんが、まあ、とほほほ、な感じはするわけです。はい。
 それはそれとして、西本さんの演奏もDVDで観て、聞きました。まさしく男装の麗人。「はい、ホルンさん。はいチェロさん」と作品に息を吹き込んでいる姿も見えた気が。彼女の師ムーシンのように95歳まで生き、そして振りつづけてほしい。これ、夢叶わずトーンダウン中のおばちゃんの本音です。

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イリヤ・ムーシン最後の弟子は?

 インターネットで、多くの方が、西本智実は「イリヤ・ムーシン最後の弟子」と書き込んでいますが、おばちゃんもそうあって欲しいとは思いました。しかし、レコード芸術3月号には、77年生まれのV・ペトレンコやソヒエフも西本のあとのムーシンの弟子であると書かれています。ここのところは、どうなのでしょう?この記事を書いた方は増田良介氏。失礼ながらその世界に無知なのでまったく知らない方であります。ペトレンコやソヒエフも調べたくなりましたが、ここでやめます。もう際限もありません。

 このインターネットで調べるというのも善し悪しで、間違った情報が肥大化し、あまりに広範囲に世を席捲し定着してしまうことがあるために、地道に正確な書物にあたったり、自らの足で掴んだ知識や情報が埋没してしまうという、何とも、理不尽というか、とんでもないというか、どういう言葉で言ったらよいのか分からないような事態にもなっているらしい。おばちゃんもいつもこの手軽さに負けてしまっています。申し訳ないこととはおもいつつです。次の言葉がでないので、ここで終わります。

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栄子さん創立の幼稚園

 九時半頃でしたでしょうか、近所のT子さんが、拙いブログを読んでくださり、「老いてなお、こころ愉しく美しく」長岡輝子著 を届けてくださいました。ほんとうに有り難いことです。T子さんの義理の叔母さんが、長岡栄子さんと何かご縁があったらしく、よく話題にし、関係図書も読まれていたようです。
 お借りした著書によれば、輝子さんのお父さんは長岡擴(ひろむ)といい、盛岡中学の英語教師でしたが、賢治と啄木に教える機会はなかったようです。ただ「啄木の借金メモ」には、お父さんの名が載っていたとのことです。

  栄子さんは、盛岡県立第一高等女学校の先生で、自分の子どもが幼稚園の入学年齢になっても、盛岡にはなかったので、自分が教えてる学校の中に保育所をつくり矯風会のボランティアを手伝いとして保育していたのが、幼児三十人にもなり、学校の片隅というわけにもいかなくなり、校長が代わり許されなくなり、困っていたところ、タッピング夫人が引き受けてくれたとありました。この幼稚園には輝子さんの兄光一さん、姉妙子さん、姉百合子さんが入ったとあります。
 長岡栄子さんは九十五歳まで生きたよう。輝子さんの八十歳過ぎてからの仕事にも目を見張りました。賢治のCDブック刊行、朗読会、水野源三の朗読CD、「夫からの贈りもの」「老いてなお心愉しく美しく」出版などなど。すごいことです。自分には遠い人ではありますけれど、「どうぞ益々お元気でどんどんご活躍ください!」と申し上げたくなります。  

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カラス

 可燃ゴミの日、近くにあるゴミ集積所に、カラスが二羽現れる。網を取り付けているブロック塀に並んでとまり、ゴミを出しにくる人間を観察しているようすだ。人気がなくなると網の穴から袋をつついてゴミを引っ張り出し、残飯や紙くずを散らかしている。以前は四、五羽は来ていた。それがいまは決まって二羽並んで待機している。
 このゴミ集積所の地主に雇われている掃除の方に話を聞いたところ、このカラスは、つがいであるらしい。先に一羽やってきて、高い樹の上から、連れ合いを呼ぶのだという。そろったところで悪戯をするらしい。悪戯といっても、カラスにとっては生き残りをかけた戦いだ。ただちょっと怖いなと思ったのは、以前は頭上高くを飛んでいたカラスが、近頃低空飛行をものにし、人の頭上近くを飛ぶようになったことだ。この方が言うに「頭すれすれに飛ばれてさ、かぶってた帽子がずり落ちそうになって慌てて手で押さえだった」。
 どうやら二羽のカラスは、人間と戦ってでもこの集積所を餌場にしようと決めている気配でもある。ヒッチコックの映画「鳥」の襲撃直前の不気味さが思い出された。

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長岡輝子さんに受け継がれていたものー聖書ー

 「えっ、どうして女優の長岡輝子さんが聖書ものがたりを?」
 大した読書もしないおばちゃんですが、図書館の新刊コーナーに置かれていた長岡輝子著「長岡輝子の聖書ものがたり」一麦出版社 を見てすこし意外でした。そんなわけで、長岡輝子さんってどんな人かな? 生まれた背景はどうだったかな? とすこしだけそちこちを見てみたわけです。

 長岡輝子さんは明治41(1908)年盛岡生まれです。演劇のためパリに留学。1939年には文学座に参加。「アテルイ」「おしん」「遠野物語」「女の一生」など数々の映画に出演。2003年菊池寛賞受賞。宮沢賢治の作品や聖書の朗読で知られていたんですね。賢治作品の朗読は聞いたことがありますが、聖書の朗読もしていたことは知りませんでした。
 おばちゃんもちょっとは詩を書きます。おばちゃんの「雨ぁ降るども」は岩手県芸術祭の詩部門で芸術祭賞でした。何しろ賢治さんのイーハトーブで賞をいただいたので、もう嬉しくて仕方がありません。この詩をいつか輝子さんに朗読して貰いたい、それがおばちゃんの夢だったのです。でもおばちゃんには遠い存在。近づくのは無理。とても叶いそうにありません。まあ、それはいいんですけれどもね。

 どうも長岡輝子さんのお父さんとお母さんがクリスチャンだったらしい。物心ついたときから、聖書が身近だったのね。輝子さんは8人兄弟姉妹の4番目。3女でした。輝子さんのお母さんの長岡栄子さんはどんな人だったのでしょ。
 長岡栄子さんは、明治のころ、岩手の県立高等女学校の先生でした。キリスト教婦人矯風会(1886年に56人のクリスチャン女性が結成。平和、性、人権の尊重、酒・タバコの害防止などを目標とする。日本初の女性団体)に入っており、その会員の幼児を集めて保育指導を始めたのです。明治40年にはバプテスト教会宣教師タッピング婦人、そう宮沢賢治が聖書を教わったあのバイブルクラスをご主人とやっていたタッピング婦人が、この保育のために牧師館(牧師の住居)を開放して私立盛岡幼稚園を開設。これが明治42年岩手県知事から認可され県内第一号の幼稚園となったのだそうです。

 栄子さんは、岩手で初めて子どもたちを集めての保育に着手し、幼稚園の土台を据えた女性だったのでした。栄子さんは、日曜日の礼拝ばかりでなく、保育所として提供された牧師館においても、賛美歌を歌ったり聖書についての語らいのときを多く持つ機会に恵まれていたはずです。輝子さんのお姉さんの妙子さん(長女)は、盛岡幼稚園の第一回の卒業生でした。
 妙子さんも歌い、妙子さんの兄弟姉妹、そして輝子さんもきっと歌ったかもしれない子ども賛美歌「七日のうち一日」の歌詞で、きょうのブログをしめくくります。
 
   
七日のうち一日
    あそぶことも忘れて
    神さまの家にきて
    聖書まなぶたのしさ

  イエスさまもこの世で
    おまもりなされた
    この日をばわたしも
    まもりましょう   
 

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映画「母べえ」

 午後、主人が久しぶりに映画に行こうというので、慌てて台所を片付けました。上映時間までに時間があまりないというので、とにかくひたすらルミエールまで歩きました。
 観ました観ました「母べえ」。山田洋次監督、主演は反戦、平和の人吉永小百合。
 吉永小百合の、人生の雨風にもまったく損なわれていない明るくピュアな美しさ。ほんとうに輝いてました。主人も水泳をやってますが、吉永小百合も水泳をしているとか。金槌の山ちゃんが海で溺れそうになるシーンでは、颯爽と飛び込み助けにかかるのですが、洋服をきたまま飛び込む姿もまた強くひたむきでスマートでした。

 小百合扮するは野上佳代。板東三津五郎扮する佳代の夫滋は文学者。滋が治安維持法違反で検挙されてから、二人の娘の初子(志田未来)、照子(佐藤未来)を守り励まし、山崎徹(浅野忠信)、滋の妹久子(檀れい)、佳代の叔父仙吉(笑福亭鶴瓶)の助けを得て乗りこえていくのです。鼻持ちならないようだけれども正直であけっぴろげな仙吉への佳代の受容、温かさ。また片耳が聞こえず徴兵を免れ、恩師滋の家族の助けとなる山崎のホットな誠実さが印象的でした。

 教職に就く母べえ。式典のたびに持ち出される「御真影」に、なぜか北朝鮮の金成日が重なりました。
 滋の恩師が体制の誤りを悟りつつも、体制に立ち向かえない自らの矛盾を「法は法、悪法も法」と濁してしまうくだりで、自らの権威を大きく強く見せながら、人間の持つ弱さを瞬時に明確に演じ分けてくれてました。滋の反省文を突き返す検察側となって現れる滋の教え子も、体制の権威を着たばかりに、矛盾に服従せざるを得ない弱さを、強がりにかいま見せて好演してました。

 滋は検挙されたのちも、不本意な状況に荒々しい言動もなく、苦しく狂おしい葛藤を露骨に見せることもなく、むしろ殉教者の様相で嵌ってゆきます。遺体で家族のもとに帰るのですが、冷たく硬直した足に、やつれた面差しに涙がでました。
 ついに山崎にも召集令状が。爆撃で海の藻屑と消えゆく兵士ら。山崎は友人に佳代宛てのメッセージを託するのです。「死んでも魂となり傍にあって守る」と。これも感動でした。
 最後に朗読される佳代への滋の心情、これもまた切々と胸を打ちました。佳代の臨終のとき、あの世で懐かしい人たちに会えることを娘がいったとき、佳代は、消えゆきそうな息のなかで、この世でこそ会いたいのだと言います。この最後の言葉のなかには、
今だよ、あなたが生きているいま声をあげなさい、あなたの家族のために、あなたの友人のために、すべての人々のために」というメッセージがこめられていると思いました。

戦時下にあって、冷静に時代を見つめる澄んだ目、人を見る、人を見守る温かな目、そして人と人とのあいだに絆がはっきりと見える、心に染みる映画でした。 

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プチ・ストーリー ートランプー 

今朝方目を醒ますと、驚いたことに見知らぬ何処かの部屋の中にいました。それもおばちゃんは、天井に浮いてるんですね~。それはもうびっくりしました。無重力圏に出たかと見下ろすと、床には子どもが向かい合って、とても行儀良く安定して座っているので、無重力の世界ではないなと思いました。これは、ひょっとして体外離脱しちゃったかな。
 二人ともとっても賢そうな子どもたちです。おばちゃんの息子たちではありませんよ。部屋の壁という壁には本がぎっしり。どこかで会ったような、どこかで見たような顔の子どもたちです。可愛らしい笑い声。ほんとうに楽しそう。おばちゃんは、真上から何がそんなに楽しいのか見てみました。すると、カードを引きっこして・・・トランプしてたんですね~。


 おばちゃんもまだ小さかったころ、二人の弟とおばちゃんと姉とで、遅くまでトランプに興じたものです。ブリッジをして点数をつけて、最下位は玄関の鍵を掛けるとかその次はマグカップを片付けるなどと罰を科するのです。ほんとうに楽しかった。

 それはともかく、子どもたちのゲームが、ブリッチなのかポーカーなのか七並べなのかを確かめると、まあ! ばば抜きだったんです。これも楽しいのね。最後にばばであるジョーカーが手元に残らないように、ずらして縦にもってみたり。念じたのに、相手がジョーカーではないカードを抜こうとしたときの無念さは!
 おばちゃんは宙に浮いたまま、こどもたちの回りを行ったり来たりしました。不思議に、こどもたちには、おばちゃんの姿は見えていません。とうとう最後にジョーカーを抜いてしまった子が、カードをポイと投げ捨てました。

 あれれれ、おばちゃんまでが一緒に別な世界にポイッ・・・投げ出されて無様にごろん、と・・・腰をひどく打っちゃって・・・。骨折はしなかったけれど、痛みが治るまでには、まだまだ時間がかかりそう。
 うん?してみると、夢から醒めたと思いこんでいたときも、実はまだ夢の中だったのかな。何がなんだか分からなくなっちゃった。ただ、この痛みと、いま息してること、ここに存在してること、それだけは、紛れもない確かなことのようです。

自分がこうなってみると、やっぱりおばあちゃんを介護しておいてよかったな。ばば抜きしなくてよかったな。 

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雉(きじ) ー雉も鳴かずばー

 故事ことわざ事典に、

 雉子も鳴かずば打たれまい

 は、無用の発言をしたばかりに禍を招くこと、とありました。これをもじって川柳を3句詠んでみました。

   一度鳴き二度鳴き打たれつ三度鳴く

   鳴かずとも打たれ打たれて雉笑う

   打たるるも鳴かずにおれぬ質もある

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雉(きじ)  ーそのとき親鳥はー  

 花巻市に住んでいたとき、Oさんから畑を借りていました。まだ幼かった子どもたちに、トマトやジャガイモ、豆などを植えさせ、土になじませたかったのです。雑木林を背中に小屋があり、それがOさんの家でした。普通の家を建てると税金がかかるので、小屋を住処にしているのだそうです。草がぼうぼうの休耕田と林と小屋の前の大きな二つのビニールハウスがOさんの支配領域でした。
 小型のトラックを持っていて、春になると土に入れる籾殻と堆肥をどこからか調達してくるのです。それを分けて貰っていました。そんなわけで、借りた小さな畑の作物はいつも鈴なりで、どれも活き活きぴかぴかでした。
 この近くによく雉がきていました。
 一帯に草が生い茂ったある日、Oさんは草刈をしていました。潜んでいた鳥や虫たちが慌てて飛び去り、跳ね去ってゆきました。どんどん苅り進むうちに突然、何か大きな鳥が、もの凄いスピードで回転する歯に弾き飛ばされ、むしれた羽が飛び散りました。雉でした。みるとすぐそこに卵があったのです。雉は卵を抱いていたのでした。危険が迫るなか、卵を守るために逃げなかったことを知ったOさんは心を痛め、この卵を何とか雛にしようと某学校の温度を一定に保つことのできる機器を借りていれましたが、とうとう卵は孵らなかったそうです。
 雉をみるたびに、Oさんは、こんな話をしてくれました。

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雉(きじ)

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 わが家の庭に雉が訪れています。どこから飛んで来るのかはわかりません。カメラを構えたところでいつも逃げられているのを見かねた主人が撮ってくれました。
 キジは人里近くに住むといいますし、廃村になり人が住まなくなると、いなくなるそうです。

  
父母のしきりに恋し雉の声    芭蕉

 ここ3、4日、亡くなった母のことがしきりに想われていました。今夕、母が、ストーブのまえに座っているわたしの傍に来て、「ここに来てるよ」と言っているような気がしました。

 

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“レコードコンサートのご案内” ー川と銀行木のみどり  宮沢賢治ー

レコードコンサートのご案内を申し上げます。

参加ご希望の方は、お手数でも、銀河鉄道の乗車券をお求めください。列車は1分ほどでその昔にタイムスリップいたします。

   期日 昭和3年4月21日(土)     
   時間 午后7時開催
   会場 中ノ橋通り盛岡銀行倶楽部


曲目  (現存のプログラム通り) 

1、舞踏への招待          ストコウスキー指揮
2、ザバテアド(提琴独奏)         ハイフェッツ
3、カンパネラ(ピアノ独奏)        レヴィッキー
4、ノクタン(セロ独奏)             カサルス
5、プリンスイコール、カザンの町の歌(バス独唱)
                        シャリアピン
6、第六交響楽 ベートーベン作品  フェリックス指揮

        (休憩十分)

7、ヴァイオリンコンチェルト
   メンデルスゾーン作品六十四    クライスラー
8、ヘブリーユー、メロデー(提琴独奏)  ハイフェッツ
9、プレリュート(チェロ独奏)         カサルス
10、ボリスゴトノフの悪僧の歌(バス独唱)
                          シャリアピン
11、カブリユース、ヴィノア(提琴独奏)   クライスラー
12、オーケストラ  組曲胡桃割   ストコウスキー指揮                             

 このレコードコンサートのプログラムは、赤沢長五郎が残した音楽柔道関係の資料の詰まったダンボールから出てきました。
 盛岡銀行は、明治44年4月に完成。設計者は東京駅を作った辰野金吾。明治文化の気品ある赤レンガの洋館です。

宮沢賢治の詩の中にもでてきます。

    弧光燈(アークライト)にめくるめき
    羽虫の群のあつまりつ
    川と銀行木のみどり
    まちはしづかにたそがるる


 盛岡銀行のすぐ傍を、美しい中津川が流れていますが、瑞々しい若葉のとき、日も落ちた土曜日の7時に、こんなレコードコンサートが開かれたのです。映画「オーケストラの少女」に出てくるストコフスキーや、ヴァイオリンの音色が華やかな当時の花形ヴァイオリニストであるヤッシャ・ハイフェッツ、「鳥の歌」を愛した世紀のチェリストであるバブロ・カザルス、ロシアの多くのオペラの主役だったバス歌手フョードル・シャリアピン、甘美な音色のヴァイオリンニストであるクライスラーらのレコードです。賢治童話に出てくるゴーシュや三毛猫やタヌキたちと一緒に蓄音機にかけたSPレコードに耳を傾けながら、この頁を締めくくるといたします。

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言葉

 今朝5時ごろはぴとぴとと雨が降っていました。いまはまた雪です。車がシャーベット状の雪をまるで皮のコートのように着ていたところをみると、一晩中、雪と雨が交替しながら降ったかもしれません。このようなお天気で三月一日は明けたようです。
 
 朝の忙しさを乗りきり、ほっと一息ついて雑誌を捲ると、特集は「指揮者最前線2008」。錚々たる指揮者群が大方尽きるあたりで登場したのが、イリヤ・ムーシン。詳しい経歴はともかく、ピアノ専攻したけれども、極寒のため手を痛め、指揮に方向転換。ああやっぱりロシアだな、と一瞬ヤクーツクのダイヤモンドダストの中でピアノを弾くシルエットを思い浮かべて感慨にふけったわけですが。それはともかく、ムーシンは、肉体的な技術の指導をし、指揮者の手の動きを理論化した最初の指導者だったようです。50代前半で指揮者を退き、教育に専念するのですが。ムーシンに指示したヤコフ・クライツベルクは、「
ムーシンは、誰にでも、彼の教えようとすることを、まったく誤解の余地のない言葉で教えることのできる人だった」と言っています。
 
 前置きがだらだらしましたが、すごいな、とおもったのは、「
まったく誤解の余地のないことば」、これです。
 おばちゃんの場合、失言は枚挙にいとまがないほどです。説明を省き結論だけを言ったために人様の心を傷つけてしまい取り返しがつかなかったり、そうこれが一番の問題なのですが。あげくの果てにはよく分かりもしないことを「分かりました」なぞと尤もらしく言ってしまい、後でとんだ誤解をされたり、秘密でもないことを秘密なぞと言ってしまったりと、要するに口から出る言葉に大凡知恵というものが働かないのです。こんなタイプは、黙っているのが最善の策なのでしょうが、何かは喋らなくちゃ変、悪い、と思って喋って益々おかしくなってしまうというパターンの繰り返しとなっています。

 まったく誤解の余地のない言葉を駆使できるムーシンの教育は大いに捗ったらしい。記憶の良さもあるだろうし、単刀直入、直裁、率直といった他には、不必要な感情、思惑、先入観、戸惑い、を入れる余地を持たないことも肝心かもしれない。と、このように考察はしてみたものの、果たしてそうゆくかどうか。

 あの女性指揮者、男装の麗人とも慕われる西本智実もムーシンの弟子でした。たしかに指揮台の上の彼女の身のこなし、手の動きには理論を感じます。全体的にムーシンを彷彿とさせるところがあります。自分もああなりたい!だけどなれない!!だってこの××が、だってこの△△が。ここではたと気づくのは、何だってわたしは、自分を西本と比較してるの?そうでした。そうでした。自分は自分でいいんです。これが自分で、こうじゃなくちゃ自分じゃない。ただやっぱり、言葉にはもうすこし気をつけるようにしようかな。

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