宮沢賢治の地で ーその4ーバイオリン
三陸の港町宮古市に住んでいたときには、倅とともに梅村バイオリン教室に通っていました。原彬(原敬の甥)が寄贈した時計のある音楽室や、夕陽のきらめきを宮古湾に押しだす閉伊川を右に見ながらの帰りが懐かしく思い出されます。また8月の第一週に、この教室が主宰する宮古ジュニアオーケストラ恒例の発表会は「キラキラ星」で幕が開きます。助っ人に駆けつけてくれたコントラバスやチェロの低音をぼんぼんと力強く聴きながら、2、3歳のこどもたちまでが、16分の1の大きさのおもちゃのようなバイオリンを弾くのです。
花巻市に転居してからは、予科練だったという気骨ある佐久間バイオリン教室でした。「お母さんもやれば子どもたちもやります」。これは梅村バイオリン教室でも聞いたことでしたが、そんなわけで子どものレッスンの残り時間でおばちゃんもレッスンを。けれどなかなか巧くはなりません。指が思い通りに動いてはくれません。おばちゃんが弾くことに四苦八苦して、子どもたちがやる気を出したかと言えば、上の倅は小6でやめました。ただ基礎的なことは一通りやったので、またいつか楽器を取り出すことがあるかもしれません(というのは親の希望的観測で、もはや取り出すことはないかもしれないのですが)。下の倅はそれから間もなくやめてしまいました。下の倅には今思うと、スポーツこそをやらせるべきだったかもしれません。それを親の好みで楽器を押しつけてしまったかもしれないと。いまでも倅に申し訳ないような気持ちです。
ただおばちゃんはこう考えたのでした。音楽家になって欲しいとは思わない。ステージでライトを浴びて欲しいわけではない。遠い将来大人になって孤独になったときに、楽器の一つも弾けたなら心を慰めることもできるだろうと。アンサンブルにでも入れてもらえば、仲間だってできるはず。ピアノはでかいから持ち運びができない。チェロもでかい。そうだバイオリンだったらどこへでも持っていけるじゃないの。
う~ん、ところがなかなか。いまは二人とも楽器からは遠いところに。楽器は待っていてくれるらしいのですが、倅たちが近づきたがらない。残念!
その後のことです。「アンサンブルを結成します。あなたももうメンバーに入ってます」という電話が突然かかってきたのです。「ええ?」とびっくり。「もうメンバーに入ってる!こんなに弾けないわたしが!」ともかく子どもがお世話になっている先生の奥様からとあれば、断わるわけにもいかず、おそるおそる楽器を下げていってみると、何とこれが楽しかった。何が楽しかったか。練習後のお茶のひとときが。おしゃべりが。メンバーはやはりお母さん方で、いつも4、5人。ティータイム目当てに通ううちにちょっとだけ鳴らせるようになりました。
賢治に因んで葛丸ダムサイトで弾いたこともあります。楽譜が風に煽られ譜面台が倒れかけるという、風の又三郎の悪戯のなかでの演奏でした。最後の舞台は花巻市民会館でアイネクライネナハトムジーク。他の合奏団の中に入れて貰っての発表でした。このときです。おばちゃんが後にも先にも一度きりの超絶技巧をやってのけたのは。それは・・・バイオリンの先生にも仲間たちにもいまだに明かしたことはないのですが、次の小節は聴かせどころ絶対ミスちゃならない、だが完璧に弾くのは無理と、そこの数小節だけ他の巧く弾ける人たちにバトンタッチしちゃったのです。つまり弓だけを動かして音を出さないようにしたのです。みんながせっかく美しく奏でた音に、おばちゃんが雑音をいれることは絶対に許されない、瞬間的にそう思ったおばちゃんは、こんな超絶技巧を用いてしまったのでした。
賢治さんが音楽を楽しんだその地で、すこしでも音楽にあやかれた有り難さを思います。賢治さんもあの藤原嘉籐治らといっしょにレコードコンサートをしたりセロを弾いたり、また嘉籐治は音楽の教師でしたから、当然楽の音を論じ合ってもいたのでしょう。
何やら賢治さんの好きだったベートーベン、シューベルト、ブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルジャークが、蓄音器にかけたSPレコードの音で聞こえてきたような気がします。
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)
最近のコメント