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2008年2月

   雨です
   三月のカレンダーを
   そっとめくりあげて
   雨が降っています
   落ち重なった屋根雪やら
   日陰にかたくなな氷やら
   落ちかねていた木の枝の雪を
   ぴとぴとと解かしています
   椿や木蓮の蕾の
   笑くぼがきゅんと鳴りました
   福寿草やはこべが
   明るい空をあおいでいます  
   かぐわしい春のエッセンス
   トライアングルを微かに響かせながら
   あたたかな雨が降っています

   
 

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ハイドンとハイドン・カルテット、そして梅村

 初めてハイドンの「皇帝」を聴いたのは、中学校の音楽の時間でした。M先生がレコードをかけてくれたのです。バス会社の歌を吹き込んだことがあるという先生の声は細いソプラノでした。「皇帝」を、「厳かな感じがするな」と聴いたのですが、先生は「この曲には気品があります」と言いました。なるほど!納得でした。
 「驚愕」はヴァイオリンの練習曲の一部を弾いたことがあります。「楽しい」「まじめ」「弾きやすい」「はっきりしてる」「端正」「律儀」といった感じがしました。弾けるといっても、へたっぴー、なのでステージではとても弾けません。
 こんな曲を作った人って?

 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン。1732年オーストリアに貧しい車大工の親方の11人の子どもの一人として生まれたようです。貧しい中に生まれたというところはヴェルディと同じ、おばちゃんと同じです。もっとも、おばちゃんが大作曲家と同じところはそこだけです。音楽との出会い、音楽人生のきっかけは、ウィーンの聖シュテファン教会の合唱児童となったことに始まるようです。多くの音楽家の生涯は、キリスト教会の門をくぐることからだったよう。教会が才能を守り育てるという側面を果たしていたんですね。後には西部ハンガリー屈指の貴族エステルハージ家に就職。生活も安定し、創作が充実したようです。

 ハイドンは交響曲約104曲+α、弦楽四重奏68曲、オラトリオ6曲、ピアノ三重奏曲41曲、ピアノソナタ60曲、バリトン三重奏126曲、その他・・・・を作曲。すごい!と思ったら、バッハは1000曲、ヴィヴァルディ2000曲、テレマン5000曲、ヘンデルはバッハと同じくらいかそれ以上なそうです。
 ハイドンはオラトリオ「天地創造」「四季」を60代で作曲したようなので、もう歳だ~、としょげていたおばちゃんは、すこし元気がでました。

 こんなにこんなに作曲したハイドンですが、20世紀前半はあまりもてはやされなかったようです。プロテスタント的な価値観にも通じる「まじめ」「高尚」な数々の曲は、むしろ20世紀後半になってから、ーウィキペディアはいっているのですがー「価値観が多様化し音楽のフィールドが無際限に拡大したいまにこそハイドンの音楽の存在意義がある」のだそうです。

 昔むか~し、岩手に来たことのある弦楽四重奏団ハイドン・カルテットが、ハイドンの名を冠した理由は?とか、太田カルテットの主宰者梅村保の謹厳実直さ、まじめさが、どこかハイドンの曲に通じるように思い、ちょとばかり、ハイドンに擦ってみました。おばちゃん流ハイドンになってたら、ハイドンに悪いんですけれども。

 

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ハイドン ー梅村保周辺の楽の音ー

 このところ出不精となり、音楽会にもすっかりご無沙汰です。していたところ、どうも24日盛岡市のマリオスで、当地を中心に活動している薫弦楽四重奏団と水原良子さん(ピアノ)がハイドン、チャイコフスキーを演奏したようでした。今日の夕刊に載ってました。そこで思い出すのは、大正時代の音楽家梅村保の主宰する弦楽四重奏団太田カルテットです。

 梅村がハイドンを意識した背景には、帝室雅楽部ハイドン・カルテットの存在があったからだと思われます。ハイドン・カルテットは盛岡に3回来ています。大正12年7月1日と大正13年10月5日は何れも太田カルテット主催の「音楽大演奏会」に、またひとたびは、昭和4年の「赤沢長五郎氏独奏会」に出演のためでした。第一ヴァイオリン芝よし猛、第二ヴァイオリン多忠直、ヴィオラ杉山長谷夫(「花嫁人形」「出船」作曲)、セロ多基永です。
ハイドン・カルテットのコンサートは宮沢賢治も聴いたと証言する方もいます。第1回か2回来盛のときだとおもいますが、特定はしかねます。ただ、第二回は、盛岡高等農林学校の講堂が会場でした。

 太田カルテットは、ハイドン・カルテットのメンバーとも交流があります。太田村にも来ていました。太田カルテットもまたハイドンを練習したと聞いています。

 梅村は、ニュートリオというピアノトリオでも演奏していました。メンバーは、ヴァイオリン原彬、セロ梅村保、ピアノ下総覚三(後の下総晥一。後に東京芸術大学音楽部学部長)でした。大正12年10月14日、桜城尋常小学校での音楽会で、ハイドンの「パウケンシュラーグのシンフォニーより・・・アンダンテ」、「三部合奏曲ト長調」(現存のプログラム通り)を演奏しています。

 平成の音楽から遡れば、岩手では、このような黎明期を持っているわけです。ハイドン・カルテットはハイドンの「皇帝」をプログラムに「皇帝賛歌」と題して演奏していますが、天皇が絶対だった時代、「天皇賛歌」とも聞こえます。天皇礼賛ではありませんが、皇室付きの音楽家たちが、太田カルテットの肝いりで、この岩手に来ていたのですから驚きです。

 薫弦楽四重奏団、ハイドンから、こんな一時代があったことを思いだし、ここに記してみました。

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よーい、どん!

よーい、どん!
わき目もふらずに走りました
先に何人走っているか
後から何人走ってくるか
たしかめもせず
右に畑が広がっているか
左に家がつづいているか
たしかめもせず
どんどん走って
走って
走っているうちに
へとへとになり
立ち止まり
辺りを見回すと
どうやら
小さな円のうえを
ただぐるぐると
回っていたようです

遠く前の方には
ゴールインする何人もの背中が
小さく見えました

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冬の旬

  横須賀に住む亡き姑の親戚から、朝早くに宅急便で生若布が届きました。午後から大鍋に湯を煮立たせ、湯通ししました。いっぺん熱湯をくぐらせただけで一瞬にして美しい緑色に!思えば不思議な食べ物です。

 収穫時期は1月中旬から3月下旬。いまが最盛期。
 今晩は当地盛岡は-マイナス10度まで冷え込むらしいですが、横須賀は最低が0度となるらしい。こんな冬に食べられる美味しい旬の味というのはみな、浜の方たちが寒風と冷え込みのなかでの仕事から、提供してくれているものなのね。冬の味覚は他にも色々。カニ、牡蠣、フグ.....となるのでしょうが、おばちゃんとしては、若布がいちばん。その次は牡蠣かな。カニやらフグはいったいどこの誰がたべるのかな。

 凍り付きそうな潮の中で収穫する人たちの姿を思い浮かべながら、熱い味噌汁に入れたり、酢味噌和えにして頂きました。青々とした若布の香りが生きていました。

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少女 ー14歳の青き唇ー

    金髪の生えぎわからは
   きれいな黒い髪の毛が
   さっくりと見えている
   生まれもった美しい黒髪はかくして
   すっかり金色に染めたんだね
   
   ネールを落とした指先の爪は
   艶やかで透明な肌色
   紅がうっすらと透きとおって見える
   これでいいのに
   またネールを嵌め直す
   穏やかな爪の色をこばみ
   尖った仮の爪に
   米粒ほどの金色の星だの
   割れた真っ赤なハートを浮き出させる

   マスカラのすだれの影
   あどけなく投げやりで
   狡さと好奇心とをないまぜに
   平気さを装って
   小さな茶色の輪の中に
   大きな瞳が笑っている
 
   「どうしてそんなふうに飾るの?」
   「みんなが私をそう見てるからよ
   こうじゃなくちゃ私じゃないの」 
   
   この春14歳の少女は
   化粧台をにらむと
   青い口べにをたっぷりとぬった


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まえに進めば

       雪のくぼみに芝生がのぞく公園に
   大きな木が思い思いに突っ立って
   青く澄みきった空をあおいでいる
   太いけやきを過ぎると
   てっきり誰もいないと思っていた木の下に 
   しょんぼりと立っていた女の子
   木があんまり太いから
   向こうからは見えなかったんだね
   いったいどうしたの?
   まぶたに溜った大粒の涙が
   ぷちんとはじけた 
   ほら、目をあげて見ようよ
   今日の空は端から端まで
   青いクレヨンでぴっちりと塗ったみたいだね
   裸んぼに見える枝にだって
   もう数えきれないほどの花の芽が
   咲くのは今かいまかと待ちかねている
   悲しかったのかな
   つらかったのかな
   さびしかったのかな
   だけど
   思いきって
   ここから踏みだそう
   一歩あるけば
   二歩目はしぶしぶついてくる
   二十歩、百歩とあるくうちには
   こんどは
   希望がいっしょに歩いてくれるよ
     

     
   

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鬼の撹乱

  18日(月)は未明に体調を崩し、食欲はなく、昼に軽く食べた蕎麦も、胃には拒否されました。だるく力が湧かずまる一日やすみました。鬼の撹乱です。

 不妊で悩んでいたある方が、10日間断食して懐妊した話や、とある教会の牧師は、一週間断食して祈ることを聞いていたので、食欲がないことには不安はありません。ただし、ある方は、県外にある某病院に入院したとき、患者からの謝礼があるかないかで医師の待遇が違っていると入院ベッドの上でハンガーストライキをしているうちに、視力に異常を来したという例もあります。そこで断食を軽々しく考えることはできませんが、おばちゃんの場合は、体型からすると、むしろ数日食べない方が好ましいのです。

 19日(火)は、もしかして故障があるかもしれないと、またまた血液検査、エコー、CT、MRIで調べていたのですが、その検査の結果が出る日でした。付き添ってくれたのが葛巻町のTさんでした。肝機能が若干低下しているものの、他はまたまた異常なしでした。Tさんが自宅まで送ってくれました。一休みして、夕方からは、またおばちゃんの生業である家事に従事できたのでした。

 20日は元気復活。午前中に息子と同級生のお嬢さんのいる呉服店さんから電話があり、「ブログが止まっているけど、どうしたかなと思って」と心配を頂きました。午後は、この呉服店さん経由で、買い物にでかけました。ひさしぶりにウインドウ・ショッピングをして気分転換をしました。

 おばちゃんの実家に昔下宿していたことがある、R・I さんから電話を頂いたのも、今日の特筆事項です。岩大の植物園の話をしたところ、在学中はあまり観ていなかったとのこと。たまに実家のお母さんの様子を見ながら、旅行などをし楽しく暮らしているもようです。弟と同世代。もっか仙台で活躍中です。

  

 

 

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写真

 春を見つけ、写真を撮ろうと家回りをうろついてみました。積み上げた雪があらかた解けた下から、ニゲラが覗いていました。ここで一枚。椿の蕾がもう1、5㌢とふくらんでいます。ここでまた一枚。わくわくとパソコンにとりいれてみると、あららら、とてもブログに載せられそうにありません。いきなりこちらの都合の良いときにこちらの目的に見合う写真を撮ろうとしても、そう巧くはいかないようです。
 逆にカメラを持たずに出かけたときに、ここだ! 今だ! という場面に出会うことがあります。撮らないで言うのもおかしなことですが、いいな、と思いながら撮れなかった場面、光景というのは・・・

☆お母さんが、生まれて間もない赤ちゃんを、もう可愛くて仕方がない、いくら見ても見飽きないと見つめる表情。
☆ホームレスの方がベンチに置いた全財産を右腕に抱えながら、眩しい木漏れ日を見つめていた姿。
☆工事現場や漁業や農業に汗している方々の姿。
☆嵐のあとに、大地の疲弊を尻目に、のんのんと大空を流れゆく雲。

☆朝明けに植物の花弁や葉っぱにきらきらと輝くしずく。
☆青空に樹上を揺らす木々。

 と、言葉は連ねましたが、技術が伴わないわけで、どれだけ実現できるか怪しいのです。一度は、何日もかけて集中的に被写体を追いかけてみたい気もしますが、そこまではもう、おばちゃんのする事ではないでしょうね。
  

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今がいちばんいい時間

 家事も終え、ほっと一息ついたこの10時半からが、いちばんくつろげる時間なのかもしれない。
 一週間のあれこれをぽいぽいと投げ込んだ箱の中で、まだ納得しないでいるあれもこれもがひしめき合う。けれどこの土曜の夜更けともなれば、まるで一つ一つが立場を心得たように、自分のありかに収まっていく。
 「こんなもんだろ」
 「これでいいのさ」
 
 すべての配置は、おそらく、いま夜空に輝いている大三角形の、あのシリウスの輝きほどに確かなものなのだろう。

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ゆったり

 今日は良いお天気でした。めずらしくさしたる用事もなく、夕方最寄りの商店に買い物に出かけただけで、あとは一日中家で過ごしました。金曜というと火曜とともに、透析の母の迎えに病院へ行っていたものです。3年続きました。それがなくなって、きょう初めて気持ちにゆとりを取り戻したという実感を得ました。


 腎不全の患者さんたちの延命治療が人工透析です。普通週3回。3時間から4時間血液の老廃物を濾過するために、太い注射針の先の管に繋がれなければなりません。60㌔離れた町から朝5時起きで盛岡に通院している方は、「透析のために生きているようなもの」と本当に疲れた表情でした。私の場合は、朝はどうしても行けないので、母を介護タクシーにお願いしていました。これを週3回の往復を送迎し介助している家族の方もいるのです。患者にとっても家族にとっても忍耐を要するところです。
 透析自体が、体に相当負担がかかるものなので、若い方でも終わった直後は更衣室で横になっている姿をよく見かけました。顔見知りになったあの方は今時間は帰り支度だなとか、あの方はまだ迎えを待ってるなとか。そして押し車に捕まって車に移動する母が浮かぶのです。透析が延命治療とは言うものの、20年以上続けているという方を知ったときは、希望を貰ったのでした。

 何れにしろポテトチップスカップラーメン筋子たらこ漬け物の食べ過ぎなど、塩分の取りすぎは禁物です。

 そんなことを思い出しながら、洗濯やトイレ掃除などの家事の合間に、倅の愛蔵版である五嶋龍くんのヴァイオリンをバックにゆっくりと自分の趣味に没頭した一日でした。

 気づいたら時計が0時を回っていました秒針の音だけがチッチッチッチッチ..........


 

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バレンタインデーって?

 チョコ、チョコ、チョコ、チョコ。
スーパーもデパートも、フロアーの一角はチョコの山。どうしてこんなに、いつからこんなに。本命から義理まで、是非ともあげたい、あげなくちゃ悪いかな、知らんぷりしようっと、馬鹿げてる、と想いは様々。おばちゃんも聖バレンタインの日ということは知ってるけど、何が何だか…そこでちょっと検索してみました。すると、

  ときは西暦3世紀。ローマのクラウディウス二世は若者たちが戦争に出たがらないので結婚を禁止したそうです。そこで可愛そうにと内緒で兵士に結婚させたのが、キリスト教司祭のバレンタイン。ローマの宗教に改宗することも拒否し、罪を認め、逮捕投獄されたそうです。獄中でも布教し、目の不自由な看守の娘の為に祈ったところ奇跡的に目が開いたらしい。それでもついに270年2月14日に処刑されてしまいました。何と、2月14日は聖バレンタインの命日だったんですね。
 
 チョコレートを女性から男性に送るのは日本独特の習慣だということですが、これも1958年東京のデパートで、チョコレート業者が、キャンペーンを行ったのが始まりとか。それがいつの間にか、こんなふうに日本中に定着したものらしいのね。いちばんこの日を待っているのは、チョコレート業者?

 むしろチョコレート騒ぎから遠くにあって、チョコを貰おうが貰うまいが、静かに聖バレンタインを悼み偲んだ方が、神様からのほんとうの祝福が来るのかもしれない。

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アンダンテ・カンタービレ

 アンダンテ・カンタービレは、チャイコフスキーの弦楽四重奏曲第一番の第2楽章です。拙書「光炎に響く」に登場する岩手のセロの草分け梅村保は、昭和12年一家で満州に渡りました。満鉄厚生会館での第一回音楽会のとき、梅村は、長男重光(第一ヴァイオリン)、二男功二(ヴィオラ)、長女郁子(第二ヴァイオリン)と四人で、この曲を演奏しました。そんなわけで、おばちゃんにとっても、特別な曲なのです。今聴きながらこれを書いています。
 梅村親子カルテットは、満州でも異色でした。恐らく当時の日本でも希有だったでしょう。彼の地で練習を毎晩聴いていた斎藤直次氏は、いまは東京で奥様と共に穏やかな毎日を過ごされていますが、「あのメロディーの華麗さは例えようもなく、50年近く経ったいまでも脳裡に残っております」と振り返っておられます。

 
 チャイコフスキーは、毎年キエフから300㌔南にあるカーメンカにある妹の館に滞在していました。たまたま館の窓越しに聞こえた、左官職人が口ずさんでいた曲に心惹かれ、休憩のときに呼んで書き採ったのが、このアンダンテ・カンタービレだったといいます。有名な話です。

 文豪トルストイが48歳の時、これを聴いて感動し涙を流したらしいのですが、これがチャイコフスキーの創作にいよいよ弾みをつけたことは、容易に想像できます。ラフマニノフが歌曲をトルストイに酷評され、心まで病んでいますが、ラフマニノフにももうすこし温かい言葉をかけられなかったのかと、込入った文学も音楽も論評も知らないおばちゃんは、単純にそう思ったことでした。偉い人ほど、影響力の強い人ほど言葉には気をつけなくちゃいけないんですね。人一人を奮い立たせるか、自信をなくさせ絶望に陥れるかほどの影響があるんですね。その点、おばちゃんほど気楽なひとも無いのですが。

 もともとは左官さんのメロディーだったアンダンテ・カンタービレです。梅村親子カルテットのシルエットを浮かべ、またまた雄渾な満州の落日を浮かべながら今一度聴くとします。

 

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わが谷は緑なりき

 図書館からDVDを借りました。お目当てのものはなかったので、ある中から3本。うち2本は途中で止めました。引き込まれたのは、この「わが谷は緑なりき」。1941年もの。ジョン・フォード監督。「今更言うまでもない」と、どこからか聞こえてきそうですが、前にも断片的に観たことはあるのですが、やはり素晴らしいものは時を超えてすばらしい!
 19世紀末英国ウェールズの炭坑町が舞台。不幸を乗り越えて成長し谷を出る少年の脳裡には緑の谷に生きる人々の姿、炭坑の不況、兄の事故死、姉の不本意な結婚、父の落盤での死が鮮明に。
 炭坑の子どもだと許し難い扱いを受けながらも、
家族と炭坑の人々の温かさに支えられ乗り切って成長する少年の姿が感動的でした。
 画面から流れ出す音楽、民謡。A、ニューマンの演出だそうです。
 カラーではありません。けれども
不思議に温かな緑が谷の町に潤っているのが見えるのです。光と影の織りなすドラマのすべてが大きな慈愛に包まれて、痛みや悲しみが溶かされ癒される、そんな映画でした。
 

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母の指輪

 母の死より二ヶ月前、脳梗塞で右半身不随となり、言語を失ったとき、手にむくみが来れば外せなくなるという看護師さんの判断で、弟が指輪をはずしました。弟が、あなたに預けるのがふさわしい、といって私に預けました。大きな翡翠の指輪です。父に嫁ぐときに持ってきたのでした。母が持っているアクセサリーのうちでは最も、というより、これだけが宝石としての価値のあるものでした。それ以上に、母はこれを一番気に入っていたということです。入浴のときも洗濯のときも調理のときも外したことがありません。

 小康にはいったとき、母はよく、きっちりと五本指をそろえた左手を、仰向く顔に近づけてじっと見つめるのでした。最初はどうして手を翳すのかが分かりませんでした。が、とっさに、あっ、指輪だ、と気づきました。指輪が無いというよりも、いつもとは何かが違っているがはて何だったか、といった認識だったと思います。母は耳が遠いので、大声で「必ず元気になるから、そうなったらまた嵌めましょ。なくさないように、ちゃんとしまってあるからね」。母が手を翳すたびにそう繰り返しました。内心、母がお棺に入るときには、指に嵌めなければならない、そう思っていました。

 しかしその日が来て、お棺に貴金属を入れてはならないことが分かりました。

 後日兄弟の総意で、私が指輪を受けることになりました。母が指を見ている姿が思い出されました。この指輪をいったい誰に渡したなら、母がもっとも喜ぶかを考えました。そういえば、孫ほど可愛いものはない、そうか、孫、弔辞を読んでくれた孫、その子に渡そう。四十九日に。私はそう決めたのでした。

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16分の15の酪農家は今?

  9日付の某新聞、そう、めったに新聞も読まなかったおばちゃんも、すこしゆとりができたかな、で、読んだの。牛を飼ってるところの話です。
 63年には約41万7600戸あった酪農家が6年には約2万6600戸となり、16分の1に減ったらしい。酪農家平均規模の30倍で、生乳年産1.4万㌧の成功した酪農家の例がバッチリ紹介されてました。嬉しいことです。夢があります。ただ、おばちゃんが知りたかったのは、あとの
16分の15の酪農家が、どういう経過を辿り、いまどうなっているのか、そのことでした。
 だって、ほら、酪農をやってるTさんは、おばちゃんの友達ですもんね。どうしたってそういうことが気になります。友達の苦労の因果を知りたいのです。
 いまは高品質と効率が酪農界のキーワードだそうです。


 自動販売機に怖ろしいばかりに幾種類も並んでいる、
砂糖水に等しい清涼飲料を飲むよりも、牛乳を飲んだ方が健康には優しいのでしょうけれど。
 と書いていたら、もう、そんなこと分かってる!何だ月並みだな!という声がどこからか聞こえたような気が。

 それにしても牛乳は安い。1リットルの値段が、ただの砂糖水と変わらない。これじゃ牛さんも、も~、いやになっちゃう?

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到着

 新風舎に注文した自著が、夕方に届きました。確かに届きました。二段重ねのダンボールを抱えた運送屋さんが玄関に入ったとき、「助かった!」と思いました。やっと本を救い出しました。
 忙しく苦しい中を、ともかくも調べ書き上げた本です。プロに比べる必要もありません。私は私なりに精一杯書いたのです。本は飾り物でも置物でもありませんが、ダンボールに入れたまま自分の傍に置いておくだけでも気持ちの何処かが納得します。自分の一部である分身57冊全員が、本日帰還しました。
 新風舎が厳しさに晒される中で、最後まで業務に当たってくださった有志の方々、ご苦労様でした。有難う!

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手書き

 OA機器全盛とあって、年賀状、招待状、ちょっとした町内会の案内までがパソコンで打ち出されています。PCには好きな絵、デザイン、色彩、文字等々が内蔵され、操作一つで画面の好きなところに嵌ってくれます。正確です。きれいです。美しいです。整ってます。けれど何かが足りない。 

 ある日、某スーパーに入ったところ、天井と直角に長々と続く壁に、3歳児から小学校高学年の絵が展示されていました。目に入ったとき、ほっとしました。「ああ血が通ってる」と思いました。線にも色彩にも形にも手の温もり心のありかが感じられ癒されました。
 書家榊莫山の筆に成る文字には、何人をも唸らせる気魄があります。文字も、ガリ版で原紙を切ったころの方が、人の汗も滲んで見えました。どんなにPCが優れているとしても、一人の直筆に敵う文字、線、形はないと感じます。

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活性化

 とある呉服店さんに立ち寄ったのは5日でした。
「あなたがテレビに映ってたよ」という。はて何だったかな…そうか31日に中の橋通りにあるNデパートの入り口で地元のテレビ局にインタビューを受けたんだっけ。あ~あ、髪ボーボー頭が映っちゃったんだ。 
 夕方のニュースをすっかり忘れていました。知らないでいるうち巷に流れていたとは。買い物客の中からですから、まあ誰でも良かったわけなのです。

 「Nデパートが改装になりますが、どう思いますか?」
 商業圏はすっかり南と西に。ショッピングモールの休日は若者で溢れ、盆暮れの買い物は菜園の某百貨店に殺到。これに対抗すべく闘っているアーケードの商店街の入り口N百貨店です。

 楽しく美しいビルにして、立ち並ぶ商店にこのビルに入って貰って、周囲に腰丈の緑の空間と憩いの場を設け、何か優しさ潤いをもたらす工夫を凝らしてみたらどうかな、などと考えてみました。高齢者が家の中に籠もっているのではなく、出てきたいとおもうような気軽にくつろげるカフェテラスなどもいいかな。ただ、どこからどう資金を捻出するかには考えが及びません。何とかショッピングモール商圏から若者たちをも呼び戻せたらとおもうのですが。

 地方の利潤を東京、大阪に持ち去られない手だてはないのかな。どうもおばちゃんの小さな頭では、考えつきそうにもありません。

 街の活性化も大事だけれど、今は、おばちゃん自身の活性化のほうが緊急項目だったかな。

 

 

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中途半端

 九日は亡き母の四十九日です。兄弟姉妹の中で、私が地理的に近いこともあり、よく母に接してきました。とくに3年前に人工透析が始まってからは、月、金の午後は、昼頃に病院に迎えに出向き、買い物、身の回りの介助で午後は終わりでした。この他に眼科や耳鼻科、皮膚科、整形外科が入ることがあります。補聴器の故障とか、その他諸々。時間的には多くの時間を注ぎましたが、質的にはどうだったかというと、あまり自信がありません。実家に行くことで、自分の家の方も中途半端でした。家族のことも自分のこともしっかりと成し遂げたという実感がありません。介助した側がじっくりとした実感がないのであれば、介助されたほうもしっかりと介助して貰ったという実感は無かったかもしれません。
 では母が亡くなって、時間ができたという実感を得られたかというと、これも時間ができた筈でありながら、まだ心のゆとりとまではなっていません。ささやかなことでも、何か一つをじっくりと成し遂げ、達成感を得たいと思うこのごろです。

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新風舎  瓦解

 新風舎に自著「光炎に響く」を発注したが到着せずどうなっているかと思っていた。保全管理人宛にファックスし、一応の対応策は取ったつもりだった。ただこの非常事態、一夜で何が覆ろうとおかしくはない。していたところ新風舎から電話が入った。代金先払いである。銀行、関係業界との取引停止は分かっていたが、そうか運送業界とも。
 確かめるまでは、これも詐欺ではないかと即答は避けたのだが。
 本の値段が、会社が正常なときは70㌫での購入ができた。破産手続き時点では40㌫、そして今日の電話では20㌫となった。 
 拙書の在庫のデータは12月半ばまでで、出版当初新風舎側在庫400部のうち今は残部57冊だ。


 
「光炎に響く」の出版制作費は、高いめではあるが、法外な値段というほどではなかった。仙台市での出版説明会に行ったが、契約を取るために煽るように作品を持ち上げる態度もなかった。出版社が何とか出版して貰おうとする程度のほめ言葉だった。他に複数の出版社に原稿を持ち込もうにも疲れていた事情もあり、少々高い目とは思ったが、決めたのだった。
 だが、きょうネットで被害者Mさんの訴えを読んで悲しくなった。契約を取り付けるために、過剰に誉め持ち上げ、詐欺まがいの説得を複数の社員でやっていた事が残念だった。しかも全国の書店に本が並ばないことに対する抗議を繰り返した結果、新風舎のある社員が、ヤクザまがいの脅しともいえる言葉で黙らせようとしている。金融業者の取り立てのやり口にも似ている。社長松崎出てこい!となるも致し方ないだろう。


 「新風舎」、沈滞した風向きを変えてくれそうな社名だった。「文芸社」よりも清新だった。「熱風書房」、創造に新たな火が点きそうだった。だがこの結末だ。返す返すも残念でならない。

 いま新風舎は社屋に施錠し、西新宿のビルの二階で、全員解雇された中から有志が10~20人が出向き、保全管理人の下で、一ヶ月2000万で借りている倉庫の引き渡しに伴い、書籍の廃棄を目前に、在庫をクリエイターに引き渡すべく懸命に最後の業務に当たっている。
 

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遠方?より友来る

 昨日正午、寿司弁片手に、葛巻町のTさんが拙宅に現れた。でかいオフロードから笑顔で下りる。葛巻から出向いてくれたとばかり思っていたが、いつの間にか彼女だけが盛岡住まいとなっていた。仕事先を盛岡に求めたからだった。当初は片道67キロもの路を毎日往復していたという。
「牛の世話は誰がしてるの?」
「うちのひと(夫)」
葛巻の牛舎に鼻面を並べる漆黒の大きな眼が浮かんだ。いまは肉牛だけを置いている。
 サイロで、もめた昔もあったが、いまは家まわりにラッピングされた干し草が転がし置かれてあるはずだ。真っ白な雪を被った高原に延びる路を、車高の高い4WDを毎日疾駆させているはずの彼女がいつの間にか盛岡市に住み、盛岡市にある事業所に勤め、拙宅に現れるとは。
 牛に関わる負債の話になる。残高は聞いたがここには書かない。
「だけど今まで2億支払ったわよ。自分でもどうやって払ったかわかんないくらい」
 とある病院にも2年勤めたという。その体験も話してくれた。心痛む内容もあったが、彼女の率直な患者の応対には心温まる話もあった。
 国家プロジェクトの畜産に踏み込み、極限まで投げ出さずに奮闘してきた彼女たちの近況だ。


 中国の餃子が取りざたされていますが、このTさんたちこそ、日本の食の安全は自分たちの手でという気概に燃えて酪農に着手した人たちでした。それがいったいどうしてこういうことになっているのでしょう。
 一旦は大根、白菜作りにも挑戦したTさん。
「やればやるほど赤字が嵩んでいくだけで、もう止めたの」
 逆境をくぐり抜けたTさんは、明るくバイタリティーに溢れています。すこし気弱になっていたわたしに、エネルギーを分けて夕方帰ってゆかれました。
 しかし逆境を潜り続けっぱなしのこの国の農業はいったいどうなるのでしょうか。

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