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2008年1月

日記

 いつの間にか居眠りしてしまい、誤って消去のキーを押していたらしく、気づいたら800字ほどの全文が消えていました。依頼原稿など来る筈もないおばちゃんですから、800字すっぽりと消えていても、ちっとも困らないのです。う~ん、ここから抜け出して地球の裏側のお花畑でも散歩してるかな、などとあっさり諦めもつきます。

 28日は検診。某医院に8時半まで入って。9時20分から2時間かけて2リットルの薬液を飲むのです。1リットルまでは難なく飲めました。2リットル目はきつかったです。これに紅茶500㏄プラス。ぜんぶで2500㏄飲みました。これだけ飲めることに驚きました。検査結果は異常なし。夕方5時に医院を出て6時帰宅。

 
29日は、4時半起床。ここのところずっと4時半です。お弁当を作るのです。8時半にゴミを出すと、カラスがゆとりの表情で、ゴミをそれとなく狙っています。
「ささ、そこに置いて置いて。置いたら早く行ってくれないかな」といっているみたいでした。

 ひところは、「おはよう」と話せるカラスがいました。以前近くに住んでいた方が、毎朝カラスに向かって、「おはよう」と根気よく話しかけるうちに、はっきりと「おはよう」とではないのですが、「おあよう」というようになりました。それからというもの、おばちゃんは、このカラスを「おはようカラス」と呼んでいました。ところが、話しかけていた方が引っ越したのと時を同じくして、このカラスも見かけなくなってしまいました。
 

 午前中いっぱいダンボールをたたんだり、古紙を整理したり、家回りを片付けたりしました。最寄りの某医院へ薬を取りに行くついでに生協で買い物。昼は、朝の残り物で済ませました。残り物を食べるように強制される訳ではなく、自分で勝手にそうしているのですが、とても有り難いと思って食べました。食べられない人たちが沢山いる現実。東南アジアでもホテルの残飯を待って居る人たちがあり、またその人たちの残飯を待って居る人たちがあると聞きました。飢餓をあげればアフリカなども。枚挙にいとまがないほどと。屋根があり3食がある。贅沢なことです。

 午後は、亡き母関係の書類の書き込み発送、連絡。洗濯を干し、しているうちに姉から電話。元気かどうか確かめる電話でした。ちょっと話し込み、15時ごろだったか、慌ててクリーニング店を経由し、中三まえからバスに乗り、盛岡駅で降り、エスカレーターで2階へ。マリオスの受付でパイプオルガンのパンフを貰ってすぐにアイーナの県立図書館へ。12月末で期限の切れた本一冊を返却。熱心に読書している年配の、おばちゃんも年配ですが、同じく年配の婦人の姿に感激。ああ、自分もこうなりたいな、と思ったことでした。何を読んでいるのか気になりました。いまは視覚聴覚で精神衛生をと考え、DVD2枚。ビデオ1本借りて、駅前から水道橋行きに乗ると、近所の方にバッタリ。聞くとやはりいま介護の真っ最中で実家との間を往復しているとのこと。おばちゃんが6年間やってきた介護よりもっと大変そうです。気持ちがとてもよく分かりました。同じ停留所で下車。自宅前まで話しながら帰宅夕方5時。

 こうして書きだしてみると、あ、今日は、動いて働いていた、無駄ではなかったと実感することができます。買い置いた備忘録も何やかやでつけ忘れていましたが、こう忘れやすくなってみると、いつどこで何をしていたかを時間とともにできるだけ細かに書き付けて、読み返しては、動いた、生きたを実感したいものです。おばちゃんの場合は、もっと掃除をやるべきかもしれません。これまでは、実家の母の介護もあるからと大目に見られてきました。けれどその役目はもう無くなったのですから。

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ズデネク・マカル再び

 11月27日付けで、21日のズデネク率いる チェコフィルin盛岡 の感激をこのブログに書きました。この前後母の入院先に通ったりなど忙しく、雑誌を広げるゆとりもありませんでしたが、やっとレコード芸術の11月号を開けてみると、ズデネクがバッチリ笑顔で19頁いっぱいに。

 「あのときは、どうも」。おもわずおばちゃんはご挨拶。

 読んでいるうちに、CDにサインしてくれた直前のジェスチャーが、すこし分かったのです。あのとき、ズデネクは、「ベルトの穴はあと一個でおわりさ」(通訳は倅)とお腹をぺこぺこさせながらベルトを緩めてみせたのでした。
 記事の中で、ズデネクは、欧米での演奏ーホテルー空港の繰り返しパターン旅行がきつくなってきたと言ってます。空港での待ち時間、荷物検査、身体検査に辟易しており、殊に、「今はズボンのベルトまではずされます。このわたしがテロリストに見えますか?と抗議したくなる」と嘆いてます。ズデネクは、空港検査での、やれやれまたかい、といった気分をあのときユーモアに転じてサービスしてくれたのかなと読んだわけですが、どうでしょうか?


 音の響きとは関係ない、というよりやっぱりあるかな? こんな人柄も楽団員とのコミュニケーション、意思疎通には関係するはずですもんね。それはともかく、ズデネクのちょっとした仕草を、解き明かしというほどではないけれど、記事からそんなふうに想ってみました。

  2003年からチェコフィルの主席指揮者となって、10年前のチェコフィルとはまったく違う音になったと批評家に確認させたズデネク。
 「こんど出る全集を楽しみにしててね」と岩手県民会館の階段のところで言ってましたが、そのマーラーの交響曲全集録音も、あとは1,2,8番を残すのみとなっているらしいのです。

 

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いわて人の心

   雪掻きをしました。いっぺんに片付けようとすると、足腰が痛むかと4回に分けてしました。玄関先の路ばかりもとタイヤに踏み固められた雪を砕きました。大きな白い陶器の破片のような形がざくざくできました。

 
ぐるりの山の尾根も冷たく尖ってカンカンと鳴り
 滝は凍てて太い柱と川底に突き刺さり
 湖は巨大な氷の落としぶたを浮かせ
 樹林は細かな幾千もの氷柱を垂らしていますが
 あたたかなのは
 いわて人の心です

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メンテナンス予約

 ガソリンも電気も要らない“自家用車”のメンテナンスの予約に行ってきました。速さは秒速0、3メートル。年式は195?年代製。我ながら随分と長い間乗り回したものです。そんなわけで塗料が剥げるは傷はつくはネジは緩むは部品がそちこち抜け落ちるはで、点検をくぐることに。こんな便利な乗り物ですから、少なくともあと2、30年は持たせたいのです。
 受付に申し出てみると、修理工場の予約に駆けつけた人で混み合っていました。検査の予約もいっぱいです。管などは、空っぽの状態で点検するために、それなりの説明、指示を受け、改めて点検日時を決めました。それだけでも一日がかりでした。

 一世紀を生きる方がいます。超人的です。凡人並の気力、体力そして凡人というには少々危うい知力のおばちゃんは、やはりメンテナンスが要ります。
 亡き母は、介護師さんに随分とお世話になりました。おばちゃんの足りない分をいつも助けて貰ったものです。ただおばちゃんが母の年齢になったとき、こういった恩恵が受けられるかどうか。真剣に健康維持に取り組むときと思いました。

 某医院の帰りは歩きました。明治橋から北上川に憩うたくさんの白鳥。その向こうにはマンション群。さらにその向こうには雪を被った美しい岩手山が端座。冷たく澄んだ大気が川面にやすんでいるようでした。

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続 新風舎

 破産手続き前に新風舎に、メールで本の注文をしていたわけですが、正常営業のときには、了解いついつ発送します、と返事がきたものです。非常事態ですから、返信は無くて当然ともいえます。
 そこで新風舎から届いた書面に記されていた代理人弁護士事務所に電話をかけてみました。すると窓口に女性の声。本の購入について訊きますと、驚いたことには、ほどなく代理人弁護士本人が電話口に出て言いました。
「保全管理人であるS事務所にファックスしてくだされば確実です。メールの注文と重複しても大丈夫ですから」
きちんと今の新風舎の事態を簡潔に説明し、ファックス番号と電話番号を教えてくれました。「電話は繋がらないかもしれません」、と付け加えました。
 どんな場合でも、訴訟の再発を極力避けるために、冷静な対応をしているのでしょう。そして、保全管理人弁護士事務所のほうでも、同じように相次ぐ問い合わせに、終始冷静な判断、対応を繰り返している光景が浮かびました。
 初めて破産に巻き込まれたわけですが、巻き込まれてみてやっと、現場に直にある人々の懊悩、苦慮、忍耐、知恵、繁忙、煩雑、不安などなど、人生の苦悩を一挙に凝縮したかの苦悩をかいま見た気がしました。

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新風舎

 きのう新風舎が破産手続きに入ったらしい。継承を申し出ている出版社がいくつかあるようなので、どのような形でか保全が図られるといいのですが。
 このブログでも書きましたが、新風舎からは、おばちゃんも「光炎に響く」 中ぶんな 著 を一昨年12月に出版しています。過去に出した15,000人の一人なのです。

 左前になると、もうとにかく誹謗中傷の電話が殺到し、叩け叩けの大合唱となるのが常。そこで逆バージョン、おばちゃんがここは良かったと思う点を先に書くことにします。
 新風舎出版賞。会社がわの経常利益の為と言えばその通りなのですが、できるだけ多くの入選者をだしてそこから出版を勧める方法は、誰が思いついたか、画期的企画だったと思います。それとクリエイターズワールドのデザインもまずまずでした。松崎氏の構想なる「未来創作」も形式に捕われず野性的な自由さを掬い上げようとする面白さを感じました。新聞、広告を上手く使っていたとも思います。ただこれはみなクリエイターに跳ね返っているわけで、これを良しというわけにも。

 おばちゃんの本の制作中に感じたことは、編集者が超多忙にオーバーヒートぎみなのが伝わってきました。会社拡大、支社開設などの末端にあって、一冊一冊にじっくり関わってはいられないようでした。おばちゃんも、たった一冊の本ですし中央から出したい夢の具現を図った訳ですが、むにゃむにゃでした。
書店に本を並べる契約不履行は、やはり訴えられても仕方なかったと思います。おばちゃんも、入れて貰ったのは岩手の一店舗にだけでした。あとは、おばちゃんが自分の足で回って入れて頂いたのでした。コネでも流し目でも買収でもありません。もうこれは真剣勝負でした。
 ただね、やっぱり我慢できん!許せん!という人たちは、「弁護士だ。訴えてやる!」ということになったのですね。

 何冊か本を買っておこうと新風舎にメールしましたが、受け付けられているかどうかも分からず、今朝も朝10時から電話しているのですが、話し中でいっこうに繋がりません。社員の方々が、いまどんなに大変かが分かります。過去の15,000人と現在制作中の著者の総決起に、フル回転で対応しているに違いありません。そして訴えた側も、とことん勝つまでやり抜くに違いありません。

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ばあちゃんOK!ばあさんもOK!

 

  ばあちゃんと呼ばれても
 それでいいんです
 ばあさんでも

 いっこうにかまいません

 孫はまだいません
 夫は名前を呼びます
 上の倅は母さんと呼びます
 下の倅は母ちゃんと呼びます
 
 でも
 ばあちゃんとか
 ばあさんと呼ばれてもいいんです
 はいそのとおり
 はいわたしはそうですよと
 喜んで返事をします
 

  けれどもお願いします
 ほかの方たちには
 どんなに齢を重ねているとしても
 そんなふうには呼ばないでね
  
 

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代筆

 母が生きていたとき、手がしびれるようになってからは、よく母に来た手紙の代筆をしていました。「娘の私が代わって書いています」などと書くと文章が長くややこしくなるので、わたしが母になりきって書いていました。母は、まったく任せきって、横に座って見ておりました。
 母になりきって書いた手紙に返信が届きました。自分に届いたような錯覚がありました。またその手紙に、母の意向を聞きながらですが、便りを書くのです。何だか母の友人が自分の友達になったような気持ちになりました。
 母が亡くなりました。亡くなった母に色々な手紙やら書面やら年賀状が届きました。役所関係は感情があまり入らずに処理できます。
  ーもう夜10時半ですね、はやいですね。でも考えようによっては、いまが一番いい時間なのでしょうー
 年賀状などは、母が生きているものとして安否を気遣ってくださる文面でした。それに対し、今度は、書いているのは実は私です、という感じでしたが、じつはこれこれしかじかで、と母の死をお知らせしました。
 代筆。ふと、わたしも代筆の手紙、代筆の葉書、もしかすれば、こんなOA時代ですから、代筆のメールを貰っていることがあるかもしれない、いやそういうこともあり得る、これは面白いぞ、と思ったことでした。
 ともあれ、母が亡くなったことで、代筆の役目は当分お休みとなりそうです。いまのところ、私の手は自由に動きますので、相手に無断で、わたしの手紙を誰かに代筆させるというような事は無くて済んでいます。
 

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ヴァイオリン制作者宮本金八

 さっき宮本金八のことをちょっと書きました。もうそんなのとっくに知ってるという方もいれば、えっ、いったい誰なの? と思った方もいるかもしれないので。
 宮本金八は1878(明治11)年西洋建築の大工の家に生まれたそうです。多くの日本のヴァイオリン演奏家を育てたヴァイオリンニスト、アレクサンダー・モギレフスキーも彼の楽器を愛好し3挺も所有していました。かの偉大なヴァイオリン製作者ストラディバリウスに匹敵するという方もいるようですが、おばちゃんには分かりません。
 宮本は、自作のヴァイオリンを高く売ったことで有名らしい。
 岩手との関係では、大正時代の岩手初の弦楽四重奏団太田カルテットのメンバーだった赤沢長五郎が、彼の「倅」(宮本が自分の息子のために、特に精魂こめて製作したヴァイオリン)を買い取ったことや、赤沢が、自分のヴァイオリンを、ちょくちょく彼のもとに修理に出していた事実があります。自作のヴァイオリンを高く売っていたところから、音にはかなりの自信を持っていたのですね。してみると、修理を依頼したなら、どれほどに高額であったかも分かります。代金を書いた葉書などもありますが、いまちょっと取り出すのが億劫なので、ごめんなさい。
 ついでに、太田カルテットですが、演奏が上手かったかというと、? となるのです。ただ、太田カルテットの果たした文化貢献、そうです、この文化貢献が大きかったのです。この文化華やかなりし頃のことを、拙書
「光炎に響く」 中ぶんな著 新風舎刊 に書いておきました。
 

 ついでにというか、 おばちゃんが出版した新風舎が、ニュースに大々的に。新風舎がこんな形で、こうも有名になるとは思ってもみませんでした。ついに落城。何ともドラマチック です。
 おばちゃんが出版した時点では、文芸社をじきに追い越すかもというのが、おばちゃんの観測でした。が、大きく外れました。実はね、刊行後おばちゃん も訴えたいくらいの気分はありましたよ。いまだから言うわけじゃありませんけどね。待っても本屋さんに本が並ばないので、自分の足でせっせと本屋さんを 回って頭を下げてお願いして歩いたのでした。新風舎が言ってる事とちと違うなあ、と思いましたが、無名の新人じゃ仕方がないという自覚もありましたから。でもまあ、それもこれもいまでは楽しい思い出となっています。よーし、セールスマンになりき
って頑張るぞ! と決めてからは、がんがんと歩きました。読んでくださった店長さんの判断で、平積みにしていただいたときは感激しました。

 ただ、今はね、本への執着はあまりありません。それを失ったからってどうだろ、という心境です。人を失ったわけじゃありませんからね。 

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成人式

 「俺のことは書かないでね」といつも言う下の倅。そんなわけで、書きそびれていたわけだけど、やっぱり、やっぱり、これを書かずして何を書くという思いが消えず、書くことに。
 1月13日は、モリーオに育てられた若者たちの成人式がありました。北上山系や奥羽山脈を遠くに配した真っ白な雪景色の中、色とりどりに華やかに着飾った新成人が、渋滞の中、会場のアイスアリーナを目指したわけですが、我が倅もこの中に。
 親としては、背広の一着もプレゼントし、清々しいネクタイ姿の写真の一枚もと描いておりました。ところが、倅が選んだのは羽織袴でした。ずいぶん早くから自分で予約していたらしく、当日は5時半起きで、食事洗面を済ませ、6時半には、友人との待ち合わせに間に合ったようでした。
 3時頃帰ってきた倅を玄関に出迎え、「ちょっと、写真を撮らせて頂戴」というと、これまでカメラを拒否してきた倅が、すんなりと応じてくれました。おばちゃんも、すっかり嬉しい母親の顔になって、息子の隣に並び、2、3枚写してもらいました。息子の身長が、やけに高く感じられました。
 じきに長方形の中に収った、しゃっきっと背筋をのばし真っ直ぐに前を見た倅の写真と、身長にはっきりと段差を見せて倅とおばちゃんが並んだ写真が、プリントアウトされたのでした。


     
倅よ、成人お
めでとう!

おばちゃんは、息子を倅と書くのだけれど、なぜかというと、昔むかし、宮本金八というヴァイオリン制作者がいました。金八は日本を代表する制作者でしたが、息子のために美しく音もきれいなヴァイオリンを作ったのですが、その息子は死んでしまったのです。そのときに、金八が、「このヴァイオリンは倅(せがれ)だ」と言ったことから、おばちゃんは息子を倅というようになりました。

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滝凍てて

        滝凍てて 落下のさまを 止め居り

 誰の句だったでしょうか、葛丸渓谷(石鳥谷町)にある、たろし滝の映像に、こんな句を思い出しました。ここ数日で玉山区藪川も-30、1度をマークしたようです。盛岡は、-11、12でしょうか。さっき家の前のてかてかの路地で、つるりと滑り転倒してしまいました。激痛が走りましたが、幸いケガはありません。
 世界で最も寒い地域にあるヤクーツクの一月は、-42。-70以下になることも。してみれば、さらに冷え込んでも大丈夫暮らしてゆく術はあるのでしょう。今朝の盛岡は-9。いまは陽が明るくさしています。

  
 

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冷え込み

  主人が散歩に行こうというので、少々億劫ではあったが、近頃家にこもりっきりで運動不足になっているのと、そのせいかいまいち気力が出ないので、とにかく気分転換と運動が必要と出かけてみた。
 富士見橋から白鳥一羽と鴨が見えた。だいぶ前に鴨の童話を思い巡らせたが書かないでしまった。ちょっと悲しい鴨の話だ。もう忘れてしまっている。
 それはともかく、白鳥が来るとパンを持って人がやってくる。鴨は白鳥のお陰でお相伴にあずかる。いったん渡りとなれば、荒れ狂う嵐の最中、羽がぼろぼろになろうとも飛び続けなければならない白鳥。その苛酷さに、当地を訪れたときにはせめて温かく遇してとも思うが、なぜか鴨が気になって仕方がない。鴨に自分を重ねているからかもしれない。
 カキツバタの池を薄氷が覆っている。本州で一番寒い地、岩手の藪川は今朝の最低気温-22、8と聞いた。さほど遠くないこの盛岡市は何度であったか。藪川は過去に-35も記録している。-35では、吐く息がすぐに凍る。極寒のシベリアあたりでは、家屋から立ち上る水蒸気や人や馬の吐く息や、車の排気ガスまでが空中でたちどころに凍ってしまう。大気中にはそんな微細な氷の粒が靄のように漂うという。大凡人が生きるところではない地にも、人はあらゆる方法で暖を取りながら生きている。
 まだまだ冷えそうだ。一匹の黒い犬が雪に脚を潜らせながら遊んでいる。広い雪野の真ん中を、川底の冷えた石の色をして水が流れていく。
 
 

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消費者センター

 静かな午後です。
 こうして、外回りの木々を見ると、それぞれに木の趣が違っています。
というのでしょう。
 いまさっき友達が立ち寄ってくれました。息子さんが、とある車屋から車を買ったところ「支払いは4、5日中にしてください。キャンセル料は5パーセントです」と強引に迫られ、
消費者センターに相談したそうです。すると直に車屋に話を付けてくれたということでした。以後支払い強要はしなくなったということでした。消費者センターもけっこう頼りになるのですね。
 ご主人に先立たれた方ですが、
千の風になったときの様子などをしみじみと話しおえると、「じゃ」と風のように帰ってゆかれました。

 夕方からはまた冷え込むのでしょうか。消費者センターで燃えていたペレットストーブのが温かく思い出されます。

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静謐・祈り

 

何か一行でもと思い、椅子に座りました。

「静謐・祈り」と思いめぐらすうちに、真っ暗闇に凝ってゆく雪に灯りが点りました。冷たい雪の中に火が燃えています。氷点下でも燃えています。
 往々にして課題があるときに祈りたくなります。これが闇に相当するのかもしれません。祈るうちに何かが何処かが突き抜けるのです。このときの平常心が灯りが点った状態なのかもしれません。


    亡き母に賀状七葉届きけり
母の危篤は身内はみな知っていたわけで、まさか暮れに逝くだろうと思いもしなかった方々の下さった七通の年賀状でした。


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窓の外

 もう夜の11時に。カーテンをちょっとあけると戸のガラスに結露が流れて、それを透かして、窓枠に収っているのが夜の雪景色。石の下や木の中に隠れた虫たちはどうしてるいるかな。今頃眠っているのかな、などと考えていたのだけれど
 いやいや、待てよ、虫といえどもこの温暖化の影響はあるはず。じっとしていられず、何かで退屈を紛らわしているかも。もしかすれば、それぞれの個室には、一台一台パソコンが備え付けられて、ほんとうに人間という輩が、どこまで本気になって環境に取り組んでるかを、光ファイバーからしっかりと手繰り寄せているに違いない。
「あれ、君のパソコンはあっちでしょ」
「うんわかってるけどさ、君のからのぞかせてよ」
「いいとも。こうやって二匹で見るのもなかなかいいね」
「意見交換もできるしね」
などと言いながら、和気藹々、
「へー、人間ってやつは、こんなこと言ってんだ」
「驚いたね、呆れたね、ぞっとするね」
などとコミュニケーションしながら、砂漠化だの極の氷が解けただのに不安を抱きながらも、啓蟄にはまだ間がありそうなので、寄り集まっては、このときばかりもと、けっこう楽しく過ごしているのかもしれない。

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ア・ラ・カ・ル・ト

 近所のTさんの初メール着信。正月5日間腸炎で苦しまれ、病院で点滴も受けたとのこと。これまで腸炎と聞いても正露丸で治ると簡単に考えていましたが、ウィルス性であれば侮れないようね。やはり正月、腸にトラブルがきた倅の方は、正露丸3錠で回復でした。おばちゃんは、12月、おじいちゃんの病院に一緒したときについでにインフルエンザの予防接種を受けました。腸炎の事前対策はないものなのでしょうか。

 きのうは11時に迎えに来てくれた弟に乗せられて、お墓参りでした。深々と積もっている雪。石段のところは雪がなく、登り切ると、墓の前に折れた大きな木の幹が落ち、墓前がかなり広範囲に見事に伸びた枝に覆われていました。弟が手際よく取り片付けました。墓の上にも雪がたまっています。29日に、納骨堂が開かれ、骨ががらがらと落ちていった光景が浮かび、声が詰まりました。花を飾り、合掌。母が生前、周囲の墓碑銘も消えた墓に必ず線香と花を手向けていたのを思いだし、合掌。
 真冬の菩提寺はきれいです。このようにどの墓石にも雪が積もっていると、家の格差を誇示するかの墓の大小の差もあまり感じられず、寺独特の陰鬱さも、雪ですっかり清められ明るいのです。階段を下り振り返ると、雪の中に花が美しく映えていました。 
 弟が「どっかで飯でも喰おう」というので付き合い、午後は病院へ挨拶に。そのあと亡き母の家に。故人の生活形態がそのまま残っているのを目の当たりにしたとき、一人の人間がこの世から消えることが不思議でした。母の椅子はいまでも母が座るのを待っているようでしたし、母の湯飲み茶碗は、いまでも母が急須を傾けるのを待っているようでした。

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ぼちぼち原稿を

 七草がゆの夕食が終わり、一段落してから、といっても9時過ぎ、ぼちぼち原稿を書き始めました。これ(葛巻の酪農)を書いたのは、平成11年「北の文学賞」を頂いた38号の次号39号の50枚原稿が最初で、それを100枚あまりに詳しく書き残しておいたのでした。ちょうどワープロからパソコンに変えようとしていた時期で、四苦八苦したのでした。けっこう、というよりも、自分としては大変な難儀をした原稿であり、そのまま捨て置くのは惜しい気がして、形にしようと今になって取り出したのです。ところがどういう訳か、パソコンで出した筈の原稿が見つからず、やむなくワープロで出したものをもとに推敲し始めています。
 こうしてまた書ける日が来るとは思わなかったので、とても嬉しいです。とかく時間があると、情けないことに、ろくなことを考えない。小人中の小人を自認するおばちゃんです。小人閑居して不善を為すということにもなりかねないのです。書きたいものさえあれば、それに向かっている限り、気分が安定します。結果はどうなろうと関係ないのです。おばちゃんの詩がいつか落選したように、また落選したっていいのです。ただ書く、それだけのことです。そして精神衛生をはかりたい、このことが、おばちゃんにとっては重要なのです。

 明日は、弟と共に、亡き母の墓参、後の整理などがあります。午後は結構ゆっくりと休んでしまったのですが、時間の無駄遣いだったかもしれません。

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霊は肉体を離れる?

 「容態が急変しました。すぐ来てください」
 「きょうだい達にも連絡したほうがいいでしょうか」
 「それがいいでしょう」
 26日、おばちゃんが病院から帰って間もなくでした。兄弟二人に連絡し、タクシーで急行しました。

 母は、眼を開いたまま苦しそうというよりも、静かな中に、呼吸が次第に間遠になってくるというふうでした。母は弟を一番愛しているはずと思っていましたので、大きな声で弟の名前を繰り返しました。そして兄や自分のことも。聞こえたかもしれません。聞こえなかったかもしれません。ただそのときはもう、そんなことはどうでもよかったのです。いま一人じゃないんだよ、ちゃんとここにいるからね、一緒にいるからね、そう知らせたかったのです。

 ずっと手を握って、脈打つのを確かめていました。次第に脈が弱くなってきました。看護師さんがやってきて、「呼吸が止まっている」と言いました。もう瞳孔が開いているのは分かっていました。まだ脈があるので、また息をしてくれるかも知れないとおもいました。しかしもう息を吹き返すことはなく、夜9時おばちゃんの手の中で、母の脈はついに停止しました。

 これはおばちゃんが実感として、感覚が捕らえたこととして言うのですが。「あっ、母さんは、いま肉体を離れたんだ」と思った瞬間がありました。それは呼吸、脈が停止する前のことです。そのとき、明るい母の顔がはっきりと心に見えたのです。母の肉体はいま呼吸がひどく間遠になっているけれど、母は、肉体とは別に、いまあるように存在している。母は笑って生きている、そう感じたのです。これは詩の表現ではありません。今はこうだと思ったことをそのまま言っているのです。体外離脱だったかもしれません。そのことがあったので、おばちゃんは、母の遺体にはそのときは悲しみを持ちませんでした。母は死んだけれど、母は霊として生きているという確信があったからです。

 ただ母の遺体を「ありがとう」と抱きしめたときは、さすがに涙が出ました。美しい花に埋もれての納棺、出棺のときもそうでした。
 おばちゃんは今でも、母さんは霊的には死んでいないと思っています。人はやはり霊的な生き物なのだと信じています。
 肉体があるうちは、病気も怪我もする、肉体の死も潜らなければならない。けれど霊的な存在となったときには、すべての苦しみから解放され長らえる存在となる、そう思わせられました。

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介護師さん看護師さん、お世話になりました

  yuusyoku  no   sitaku   mo  totonoi   
tyotto  no  jikan  ni

 
今日は朝から良いお天気でした。
午前中、舅がスーパーに行きたいというので、一時間ばかり一緒に出かけた他は、おばちゃんは、家にじっとしていました。車中で大正8年生まれの舅が言いました「婆さん(おばちゃんの母)が死んでしまって、は、面白ぐねな。次は自分だど思うがらさ」。「大丈夫、おじいちゃんは、百歳まで保証付ですよ」と言いながら、おばちゃんは、舅が、一つ年下の母の死をこんなに悼んでくれていることが意外でした。いつも、「婆さんが先か、俺が先か」と言っていたからです。母に勝ったという感じはなく、同年代の死がひしと堪えているようでした。


 今朝、こんな夢を見ていました。
おばちゃんが、就寝中に粗相をしたのです。気持ち悪いな、と感じないのは、やっぱり夢だからなんでしょう。どうしようか、どうすれば、と考えていたとき、知らないうちにやってきていた看護師さん介護師さんたちが、すっと、シーツを変えて、すたすたと去っていったのです。何てありがたいんだろうと、おばちゃんは夢の中で心から感謝していました。そこで眼が醒めたのです。すぐに、亡くなった母さんのお世話をして下さった看護師さん介護師さんたちが浮かびました。どれほどお世話になったことか。その姿が、おばちゃんの無意識層の中にまでしっかりと焼き付いていたようでした。


 

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出せなかった年賀状

 道路はカチンコチン。
 
運動不足のおばちゃんは、どこか動作も鈍くなってるはず。そんなわけで、こんな日は、どこそれで初売りと聞いても、家の中でじっとしています。滑って骨折したら大変ですし、まだそんな気分にもなれません。
 遠いところに行ってしまった母さんのことも書きたいけれど、まだ正月の三日。年賀状は、昨年出すばかりに印刷もしてあったのだけれど、とうとう出せなくなったのでした。
 元旦からはテレビも見てません。音楽も聴いていません。いったい世の中がどうなっているのかも分かりません。
 庭の木たちが、てっぺんに積もった雪があまりに重たそうだったので、雪ベラで落として回りました。何だか雪をすっぽりと被って、手脚を縮めてじっと木に並んでいたくなりました。ふとんのような屋根の雪が、ずり落ちてきています。裾には小さな氷柱がいっぱい垂れ下がっています。
 いつもおばちゃんを大目にみてくれている友達や知り合いの方々に随分と不義理をしてきたことなどを一つ一つ反省したりもしました。大晦日に思うべきことを今頃考えたりしています。いつもどこかがずれていて、修正してもまた少しずつどこかがずれてしまう困ったおばちゃんです。神様がトンカチでピコピコと諫めなくても済むようにはしたいです。
  二階にきていた7人のお客さんがいま帰りました。二人の倅も一緒にどこかへ出かけたようです。
 
静かになりました。ストーブが燃えているほかには、物音はありません。
 
朝までには、また凍るでしょう。積もった雪はざらざらに。道路はもっとつるつるに。

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真っ白な世界

 

   イーハトーブは真っ白です。
    けさのイーハトーブは
  ぶかぶかの純白の晴着を着ています。


  

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2008に向かって

 朝から雪となった大晦日。
 朝のうちは、書棚の硝子戸には、雪に埋もれて互いの距離感を無くした木々が、垂直な一平面となって、雪崩が起きかねないかに映っていました。

 
 
夜9時には、おばちゃんロボットの家事も一段落。

 紅白も見たかったけど今年はちょっと自重。第九を聴きました。角田祐子の安定したソプラノに耳を澄ませました。

 そのあと、なりゆきで、2枚のDVDで、「マーラーよ今一度」となったの。またまた「復活」です。長くて大変だから第5楽章のみ。
クラウディオ・アバド/ルツェルン祝祭管弦楽団/2003年ルツェルン音楽祭コンサートホール
レナード・バーンスタイン/ロンドン交響楽団/1973年イギリス/イーリー大聖堂ライヴ収録

 何れも、オケ、ソリスト、合唱団ともに妙齢の音楽家たちなのだけれど、ほんとうに格調の高さを感じさせられました。ルツェルン、イーリーの器は、そこに響く音楽の故にいよいよ素晴らしくなってました。
 
「鼓動が止まるとともに甦るという訳詞は慰めですね。
 

  2008年の強く確かな足音が聞こえてきました。
新年を指揮するのは、アバド?バーンスタイン?いいえ。

   あなたです。

      
 コ ツ   
             コツ  コツ

               
コツ  コツ

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