撮り損ねた写真

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紅葉しているブルーベリーに、一昨日、雪が。

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  そのブルーベリーの木に、5月には白い花が咲いていた。

  ☆

 撮っておきたかったもの、けれども撮らないでしまったものがたくさんある。カメラを取りにいくのが面倒だった、取りに行っているうちに被写体が消えていた、出かけられなかった、技術的に無理だとあきらめた、許可がでないだろう、など、理由はさまざま。
 枝にとまったトンボ。命つきて砂利に落ちていたトンボ。青空が広がった午前の岩手山。星。奇跡的に大きく育ったキアゲハの幼虫。石のあいだに力尽き死んでいたスズメバチの雄姿。葡萄。トマト。雨ふる街。野良仕事すがたのお爺さんが内緒で孫にソフトクリームを食べさせている案山子。真っ赤に紅葉した大きなカエデ。公園で見かけた子どもたち。教会のお子さんたち、と、ごく日常的なものばかりだ。
 撮るなら今だ、とわかっていても、手足が即座に動かなかったり動けなかったり、動くまでに時間がかかったり、戸惑ったり。これが齢をとったということなのだろう。確かに忙しくもある。
 キアゲハの幼虫は、すがたを消した。鳥に食べられたか、蛹になるべくどこかに移動してしまったかだ。近年に見たなかでは、一まわり大きく重みを感じさせた。来春に羽化して、或いは、それがあの幼虫だなとわからなくとも、目の前に現れるかもしれない。食べられてしまったとしたら、これも自然に還っていったことには違いない。食べられないで羽化できたキアゲハ、いきのこれたものは、奇跡の一頭だ。食樹であるサンショウの木は何本もあるが、それについた幼虫はまだ大きくなりきらないうちに、ほとんど姿が消えている。餌食となってしまっている。どんな理由で生きのこるものは生きのこるのか、わたしにとっては謎だ。生きのこらなかった理由も謎だ。
 写真に撮ったものを考えずに、なぜ撮らなかったものにこだわり、いま思いめぐらしているのか、これも可笑しなことなのかもしれない。

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いよいよ冬

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 白いベゴニヤと赤いビオラが雪に咲いていた今朝。身近にもいよいよ本格的な冬。

それを感じさせないかに、青空には、隣家の樹木の真っ赤な実が掛かっていた。

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    ☆

ふるさとの訛なつかし停車場の
人ごみの中にそを聴きにゆく    啄木 

 刈屋に取材に行ったときに、わたしは、刈屋独特のことば、方言を聞くのも楽しみにしていた。ところが、お会いした方々は、どなたも標準語、聞きたかった訛に出会うことはなかった。そういうわたし自身も、いつの間にか、立派な標準語とはいかないが、それに近いことば遣いをするようになっている。文化の平均化、画一化だ。ことば一つで一概に決めつけることはできないけれども。果たして今の若い方々のうちに、訛が生きていることばで話せる方がどれぐらいいるだろう。たまに自信に満ちた大阪弁が飛び込んでくる事はある。なぜか東北弁は、列車の中や駅構内、雑踏の中でも聞こえては来ない。たまたまわたしが、そういう機会に恵まれないだけなのだろうか。
 近代という時代の東北本線のような下り列車には、幾通りもの方言が蒸れかえるように交わされていただろうか。

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はじめにことばありき

 夜明けが遅い。朝日を待つときが長い。冬至、ことしは12月22日頃、このいちばん夜が長い日をこえ、クリスマスを迎えると、厳しい冬はあるけれども、心にはまた明るみが兆してくる。
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 先週、インマヌエル盛岡キリスト教会に、ギデオン教会の方がいらっしゃいました。各方面に聖書をお配りしています。

 引証されたおことばは、ローマ1:16~17、『神の言・聖書』と題し、国光牧師からメッセージがありました。

1:16私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 1:17なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

  

 

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 植えた球根が掘り返されて、逆さまに転がっているのを見つけるたびに、また土を掘って植えなおしている。のら猫がトイレにしているのだ。土を掘るか、かけるときに、球根まで吹っ飛ばしている。猫は、球根を掘り返して困らせようとしているのではない。むしろ、ちゃんと穴を掘って用を足し、土をかけて汚物が見えないようにして去るのだ。行儀がいい。それで腹をたてる気にはならないのだ。これが猫の単なる習性なのかどうかは知らない。猫が庭に入れるようになっているのだから、入ってきても文句をいう筋合いではない。入ってきたからといって、別に腹も立たない。日当たりのよい枯草の上で昼寝をしているときには、できるだけそっとしておいている。時々やって来ては、樹の下や、草の繁みを探訪し、いつの間にかどこかへ帰っていくらしい。猫はふと立ち止まって住人を窺っている。住人は、この猫がつぎにはどう動くかを見ている。この距離が縮まりもせず遠くもなっていない。こんな一定の距離を置いて、猫のこの庭の散歩をずっと許容してきている。

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無題

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 とぶように過ぎていく日々。

      ☆

 いまの人を書きかね、ずっとむかしに生きたひとたちのことばかりを書いている。昔はよかったか、いまはどうなのか、近ごろわからなくなっているけれども、人の願い、望み、想いは、太古の昔もいまもさほど変わってはいないように思われる。

 

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はじめにことばありき

 今朝6時ごろには、東の空に黒い雲母のような雲が居座っていましたが、なかに空洞があり、そこに暁を知らせるかのような薄明かりがのぞいていました。6時40分、雲母の縁が茜色に照らされて白銀と輝いています。

 先週、インマヌエル盛岡キリスト教会では、この教会で亡くなられた方々の記念礼拝がありました。

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 『永遠の住まい』と題し、ヨハネ黙示録21:1~7から、国光牧師の説教でした。

21:1また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 21:2私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 21:3そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 21:4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 21:5すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」 21:6また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。 21:7勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

 説教によると、この世の次元で見ることが不可能であるものを、神は特別な使命のあるものには、瞬時的に見せてくださることがあり、ここに書かれているのがその一例である。このような天のエルサレム(神の平和)は、たしかに別次元にいま存在していると。
 

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朽ちてゆくこと

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 枯葉を花器に心をこめて生ける映像を見た。生ききった潔さとでもいうのだろうか。枯れることは還っていくこと、ネットにはそうもあった。枯葉を踏みしだく音をしずかに受け容れ、朽ちてゆくものに素直に親和しながら、そう遠くはない道を時にゆだねて、味わいゆっくりと歩む。

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友だちの絵画ー青の会展からー

 絵画、写真となると、実物とは趣が変わってしまうので、作品に申し訳なく、ためらいもあるのですが、ご紹介させていただきます。

 

 大信田時子さんの作品。4点出ていたのですが、写真がうまくいかず、2点だけをアップ。花、力強さもこもっていて素敵でした。

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 佐藤由紀子さん、あたたかいお人柄がそのまま彩色に出ていて、ほっとさせられます。4点ありましたが、やはり写真どりが難しく、2点だけのご紹介です。

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 青の会の方々の継続的な創作によって醸造された画風を感心して拝見しながら、自らの気まぐれで、状況や気分によって創作活動をあっさりと引っ込め、引き下がってしまいがちな実態を、これでは、まあ、と一矢受けとめたかたちとなりました。

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お茶の木と十六羅漢

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 お茶の木の写真を撮ろうと、十六羅漢公園にはいって、振りかえり仰ぐと、有明の月がすっきりと見えていました。


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花は10-12月初旬ごろに咲く。そのため「茶の花」は日本においては初冬立冬11月8日ごろ〕から大雪の前日〔12月7日ごろ〕)の季語とされている[3]。花は枝の途中の葉柄基部から1つずつつき、短い柄でぶら下がるように下を向く。花冠は白く、径2-2.5センチメートル、ツバキの花に似るが、花弁が抱え込むように丸っこく開く。ツバキ科ツバキ属
                      -wikipedia.org/wiki/チャノキ から転載ー

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江戸時代,盛岡藩の四大飢饉といわれる元禄・宝暦・天明・天保の大凶作によって,領内には多くの餓死者がでました。祗陀寺14世天然和尚は,その悲惨な餓死者を供養するために,十六羅漢と五智如来の合計21体の石仏建立を発願しました。そして領内から浄財の喜捨を募って,1837年(天保8年)工事に着手しました。

下絵は藩の御絵師狩野林泉が描き,石材は市内の飯岡山から切り出し,藩の御用職人の石工7人が3年かかって荒刻みを行い,北上川を舟で渡して,建設場所の祗陀寺末寺の宗龍寺境内に運び入れ.最後の仕上げをしたものといわれています。

こうして,起工から13年目の1849年(嘉永2年),発願した天然和尚の孫弟子にあたる長松寺13世泰恩和尚のときに,ようやく竣工しました。

しかし,宗龍寺は明治維新後に廃寺となり,1884年(明治17年)の大火で寺院も焼失しました。現在は21体の石仏群を残す,市の公園となっています。

                           -以上、盛岡市のHPから転載ー

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   ☆  ☆  ☆

 いまの時季、花は、フラワーショップにはたくさんありますが、自然界にはすくなくなります。
庭には菊、ホトトギス、ベルケア、辛うじて四季咲きの薔薇、ビオラ、鉢ではゼラニウムが咲いています。しかし、樹木に咲く花はありません。チャノキの花ははじめて見ました。
 帰りに途で出会った隣の町で世話役として頑張っていらっしゃる方に話すと、この方が、茶道を本格的になさっているということで、今すぐ行って見てくると仰っていました。

 茶の花が、ここにある十六体の祈り、発案した、刻んだ方々の祈りと共に、餓死された方々に手向けられ、また時を超えて、来年に摘まれるはずの茶も併せて、献茶されているようにも感じられたこの朝でした。
 

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茶の花咲く

 きょうは、八幡宮方向に進路をとる。さらに茶畑に進むと、石造十六羅漢がある。江戸の四大飢饉の餓死者の供養に造られたという。盛岡市指定の有形文化財だ。この公園にあるお茶の木に、いま花が咲いているのに気づいた。白い5弁の花びらに、おしべが黄色い花粉をまとっている。お茶の木に花が咲くことは考えてみたこともなかった。カメラを持ってこなかったことが残念だった。

 撮りためた写真の中から一枚を。

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