2026/04/12聖日礼拝 説教 インマヌエル綜合伝道団秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『これらの出来事すべてについて話し合って』 ルカの福音書 24章13~35節
(説教題をクリックしてお聞きください)
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13
ところで、 ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エオマという村に向かっていた。
14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることがわからなかった。
17 イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。
18 そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけがご存じないのですか。」
19 イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
21 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、
22 仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、
23 イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。
24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずではなかったのではありませんか。」
27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに解き明かされた。
28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
29 彼らが、「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いております」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
33二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、
34 「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。
35そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。



神谷牧師による説教の要約
 キリストの墓に来た女の人たちに、まばゆい衣を着た二人の人が語った「主がお話しになったこと」とは、キリストが十字架につけられて三日目によみがえることである。
 よみがえったキリストは、どこでも自由に出入りできるのに、わざわざその墓の入り口の石が転がされていたのは、そのよみがえりの証拠を誰もが確かめられるようにされたからである。
 また、よみがえったキリストが、以前のように弟子たちといつも一緒にいるようにしないのは、これからは見えるかたちではなく、キリストの語った約束の言葉により頼むためであった。
 聖書を通して語られる約束に心を留めるとき、よみがえりの主は、時空を超えて、今もなお信ずる者のうちに働かれるのである。

 

<ブログ管理人のひとりごと>
 復活のエネルギー、それは靈に届く、靈を強めるエネルギーであると後で分かったところがある。確かにそのエネルギーを知覚して元気になってどんどん動きすぎた結果、やはり肉体的な疲労が来てしまい、先週などは意識的に休息をしなければならなかった。張り切ることはいいけれど、自らの今の年代の体力に相応しい働きを注意深くこなすことの方を、神さまは安心して見ておられるのでは。霊的な共感、感動はこの土の器に溜め満ちたところで、臨機応変に注意深く慎重にその力に与るのが良いと思われる。


 道々に咲いているスイセンやアネモネ。よく咲いてくれたね、ありがとう、よく咲いてくれたね、ありがとうと言いながらのぞきこむ。コンクリートの隙間に覗くハコベに目がとまった。よくよく見ると小粒のマーガレットのような花が笑っていると書くのはあまりに稚拙で単純かもしれない。にんまりとしているようでもあり、微笑んでいるようでもある。のほほんとしているようでもありしっかりと緻密な視線を送って来るようでもある。ああ、そうだね、おおきな色鮮やかな花よりも、人に踏まれたこともあるだろう、蔑まれたこともあるだろう。価値ないもののようにあっさりと引き抜かれた打ち捨てられたこともあるだろう。だけど、だからこそ、たぶん、おまえには、おまえにこそ、虐げられているものの気持ちがわかるだろう。力で踏みにじられ、締め付けられるってどんなことかを知っている。一人が踏めば二人目が踏む。そして踏みなれた足が幾度も蹴散らす。何人もがあたりまえのように蹴散らす。弱いと見れば蹴散らす。強い者にはその強さにあやかりたいものが加担する。
 ハコベがいいな。高慢ちきじゃない。人の痛みを知っている。力に屈することもない。権威に追随することもない。ハコベはハコベのまま。ほら、神さまの目がおまえに注がれている。

 

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2026/04/05 聖日礼拝 説教 インマヌエル綜合伝道団秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

 

『主がお話しになったことを思い出し』 ルカの福音書 24章1~12節
(説教題をクリックしてお聞きください)

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1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
4 そのため途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。
10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
11 この話はたわごとのように思われたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
12 しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。

 

神谷牧師による説教の要約
 キリストの墓に来た女の人たちに、まばゆい衣を着た二人の人が語った「主がお話しになったこと」とは、キリストが十字架につけられて三日目によみがえることである。
 よみがえったキリストは、どこでも自由に出入りできるのに、わざわざその墓の入り口の石が転がされていたのは、そのよみがえりの証拠を誰もが確かめられるようにされたからである。
また、よみがえったキリストが、以前のように弟子たちといつも一緒にいるようにしないのは、これからは見えるようなかたちではなく、キリストの語った約束の言葉により頼むためであった。
 聖書を通して語られる約束に心を留めるとき、よみがえりの主は、時空を超えて、今もなお信ずる者のうちに働かれるのである。

<ブログ管理人のひとりごと>
 この日5日はイースター礼拝でした。ちょっと私の不手際で只今動画を掲載しかねております。
 朝はやくから週報を印刷くださったり、玄関前を整えたり、受付に立ってくださったり、また愛餐会のカレーを作って下さった方、添える野菜料理をお持ちくださった方々がいらっしゃいました。ズームで参加し近況を報告いただいたり。何よりも神谷先生方がいらしてくださり、直接に説教をいただいて心が刷新されました。また午後にはこの教会から昇天された方々のお墓参りも皆さまとご一緒にしてくださいました。
 これからのいのちが長くとも短くとも、主にお任せです。明日なら明日でもいいかなと思いもします。でもまだやりのこしていることもあると思うと、主よ、あともうすこし、今暫くご猶予ください。復活の力を着せてくださる主よ、感謝します。あなたのお力で今を歩ませてください。
 お花の写真も、ほんとうはお墓の写真も今しがたまで手間取っていたのですが、無理はしません。ゆとりをもってできる範囲で更新といたします。


 

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2026/03/29 聖日礼拝 第81次教団年会合同礼拝説教 岩上祝仁代表

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『わたしに従いなさい』マタイの福音書16章24~28節
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、そしてわたしに従って来なさい。
25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見いだすのです。
26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれの行いに応じて報います。
28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

 

 

ブログ管理人のひとりごとー
  さて、去年の年会の合同礼拝説教のときには、いったい自分は何を書いていたかしらんとググると、以下(黒い文字部分)のように書き留めていた。う~ん、ことしもこのとおりの心境だなと思う。どこも変更したいところはない。80年を81年と改めるだけ。
 そしてこの、ことしの合同礼拝説教「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、そしてわたしに従って来なさい。」、受難週に入ってから、ずっとイエスさまのお苦しみに思いを寄せてきた。さまざまなケースを浮かべるうちに、はたと気づくと、それが自己愛から発したものであることもあった。イエスさまならではの純然たるお苦しみは自分には分かりようがないという気もする。なぜなら自分は、自分のありようを悔い改めることが日常で、人様の犯した罪を引き受けるゆとりや場面はまったくなく、そういった経験はしていないからだ。まっとうな市民として生きた方が冤罪を着せられたまま刑が執行される苦しみがどれほどのものであるか。そのような例が主のお苦しみに近いかと考えたり。
 イエスさまは「自分の十字架を負って、そしてわたしに従って来なさい」と。「自分の十字架」、この時点に立って、この状況にあって、「自分の十字架」が何かを問われている。


昨年書いたことをそのまま今年またここに転載しておきます。
 この30日は、イムマヌエル綜合伝道団の第80次年会の礼拝でした。盛岡教会から上京した方々もいらっしゃいましたが、私は盛岡教会で盛岡教会の皆さまがたとともに配信を受け礼拝をまもりました。長い間、自分がこの教団に連なる者であるという意識は、私の場合決して高くはなかったといえます。盛岡教会にあってイエスさまを信じる一信徒という感覚でした。しかしこの教団、80年。この教団の創設者初代の蔦田二雄先生のテープにのこされたメッセージを今思い出しています。摩耗したSPレコードのように聞き取るのに苦心しましたが、しかし、その中には「義の火」が耀いている。今そのことに気づきました。戦争で、災害で、ウィルスで、犯罪で、事故で、あまりに無造作にひとのいのちが奪われ、厳しくなる経済、暮らしのしめつけで、人の価値観、在りようががらりと豹変するのではないかという危惧の只中、また目には隠されているけれども、そのようなあり方が水面下にじわじわと〝市民権〟を獲得しつつある今に、この「義の火」はこの世に、この社会に掲げられていなければならない。何か、なぜか、あの蔦田二雄先生の説教にある神の義、義の松明は掲げられ続けなければならないと、この教団のいわば末端にいる凡そ社会的な名誉、権勢からは遠いこの小さき者の眼からも涙が落ちるのです。
 教団を担われる多くの牧師先生方、これまで担われて来られた多くの牧師先生方、多くの真実な信徒の方々に、その自覚が乏しかった時期があったことを、心からお詫びし、このインマヌエルの義の火が、神の義が高く掲げられ続けることを心から祈るのもです。

 明日4月5日はイースターですが、きょう午前中にイースタ―エッグづくりをしました。これにカードを添えラッピングして完成、明日教会でみなさまにお配りします。

 

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2026/03/22 聖日礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『律法によれば、この人は死に当り』 ヨハネの福音書 19章1~16節
(説教題をクリックしてお聞きください)

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1 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。
2 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせて、紫色の衣を着せた。
3 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様。万歳」と言って、顔を平手でたたいた。
4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私はあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」
5 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ。この人だ。」
6 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」
7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」
8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。
9 そして、再び総督官邸に入り、イエスに「あなたはどこから来たのか」と言った。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。
10 そこで、ピラトはイエスに言った。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」
11 イエスは答えられた。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」
12 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」
13 ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」
15 彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるの。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」
16 ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。

 

神谷牧師による説教の要約
 キリストを訴えるユダヤ人に対して裁判をする総督ピラトは、キリストにはローマの法律に触れる罪が何も見当たらず、困惑した。
しかし、ユダヤ人が彼らの律法によりキリストが「自分を神の子(神と同一視)」としたことが死に当たると訴えたのは、「神の子」だと偽ったことが神への冒涜であると思ったからである。
 しかし、それが偽りなき事実であることを知るキリスト自身にとって、律法が明らかにするすべての人の罪を背負い、十字架で死ぬことが、神の子(救い主キリスト)の役目であると知っていた。
 律法(聖書)が目指すのはキリストであり、心に罪を意識したすべての人の終着点は、この十字架の贖い(罪の赦し)にある。


<ブログ管理人のひとりごと>
  聖書的に罪とは?と問えば、罪について考える時、人にはみな原罪があり、そしてその罪は肉の働きであると述べられている。
「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである」(ガラテヤ第5章19~21節)とある。耳が痛くもある。今どきそんな~と思われもする。しかし、真理だと思う。罪は意識上にも無意識の内にも、誰の心にも内在し、何らかのきっかけがあれば吹き出る溶岩のようにその姿をあらわし留める術がないかだ。神は実にそのことをようく知っておられる。キリストの贖いがどれほどに人間に必要であることか。神はそれを知っておられる。すべてを白日に晒すように神は見ておられる。
  罪に対する情状酌量といったものがあるのかないのか、あるとしたらその詳細はどうであるのか、私は知らない。ただ、そのことは、神が愛であること、愛そのものであられることに望みを置いていいかと考えてもいる。たとえばお腹を空かせた子どものために母親が盗みをしてしまったとか。こうして挙げて行くと、凡そ通常では考えられないこと、いったい誰がそれを責めることができるだろうといったことも多くあるだろう。何れ罪の種類がどうであれ、贖罪の血が既にある。備えられている。嗤う者には愚かであっても、これこそまことの命に通じる門であると私は信じる。
 
 今日も平凡な一日。近くに住んでらっしゃる教会の姉妹にちょっとお会いして、帰りに日用品、牛乳を買って、まずまず順調に自転車をこぎ、途中でクロッカス、あれは梅の花だろうか、それにしてはピンクが強すぎるように思ったが、きれいに咲いていた。
 今7時のニュース。戦地に行くことを強いられ、いやが応にも罪を犯すことを強いられる兵士たちに胸が痛む。戦争の犠牲者。訴える悲しみ苦しみはどこに届いていますか、神さま!

 

 

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⏰17時31分更新。19時8分再更新。

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2026/03/015 聖日礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『父がわたしに下さった杯を』 ヨハネの福音書 18章1~11節
(説教題をクリックしてお聞きください)
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1
これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。
2 一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。
3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。
4 イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。
5 彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。
6 イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らはあとずさりし、地に倒れた。
7 イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。
8 イエスは答えられた。「それはわたしだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせなさい。」
9 これは、「あなたが下さった者のうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。
10 シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
11 イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、飲まずにいられるだろうか。」

 

神谷牧師による説教の要約
  キリストの言う「父がわたしに下さった杯」とは、これから向かう十字架の苦しみを意味しており、それゆえキリストは、人から受ける苦しみを、私たちの罪の解決のために、父なる神が用意されたこととして、理不尽な扱いを受け入れ、それらを耐え忍ばれた。
  私たちもまた、今、自分が経験していることをそのように受け止めるとき、今後を神に期待して、置かれた状況を前向きに考えることができる。


<ブログ管理人のひとりごと>
 「父がわたしに下さった杯」、これを自らに重ねるとき、背筋に何か金属めいた冷たさに似た緊張が走る。そして顔をあげないまでも、はるか前方に、しかしすぐ眼前に脅迫的でもない、威圧的でもない、まして強制的でもない、十字架が示される。私の隅々、心をも隈なく知りたもう十字架、イエスさまのおすがただ。そして私は時の間、逡巡し、右往左往することがあても、この差し出された杯を飲み干す道が私の道であることを幾つかの経験からすでに知らされた者としてその前に立っている。この日は聖餐式があった。私は神妙な想いでパンと葡萄液に与った。琴線が何ものかに触れ、涙が伝った。神さまの聖きに与るとき、拘り、棘が解かされ溶け落ち、間隙に静かな納得が満ちる。
  この日は若いS兄がパンと葡萄液をもって皆さまを回ってくださった。
 お花はS姉。お花の後ろの方に聖餐式に使うパンと葡萄液を入れる漆塗りの器が見えますが、これは故人となられたT兄が製作してくださったものです。

 

 

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2026/03/08 聖日礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『わたしはぶどうの木』 ヨハネの福音書 15章1~11節
(説教題をクリックしてお聞きください)

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1
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみなすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。
9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。
10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように。あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。
11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。



 

神谷牧師による説教の要約
 キリストがぶどうの木で、わたしたちが枝であると言われた時、そのぶどうの実とは、わたしたちがキリストに似た者として生きることを意味している。
 また、わたしたちがぶどうの木であるキリストにつながる時、目に見えないキリストのいのちである真理の御霊が、私たちのうちに働かれ、自分がそれまで大切にしてきたことから、キリストへの思いに、より心の焦点が合わせられ、それが見える形に現れてくるのである。
 信仰によって日々キリストにつながる時、このお方のいのちに生かされて歩むことができる。


<ブログ管理人のひとりごと>
 この日は神谷美津子先生のお証しがありました。美津子先生は鹿児島県出身。それがなぜに遠いこの岩手に?と思いきや、先ず東京に出られ大手電機会社の経理の仕事に携わられ、次第に教会へと導かれたようです。先生の信仰のお証しを是非お聞きください。
 皆様方と共にいつものように礼拝をまもり、そして昼のお食事。A兄姉が作ってくださったカレーを感謝しながら楽しくいただきました。何とK姉もサラダを作ってくださいました。KはKでも、この方はlarge・Kさん,、私はsmall・Kの方です。
詩篇133・1、3「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは。…主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」
 
 30分でも毎日歩いたほうがいいということで、久しぶりに盛岡地方気象台に上がってきました。いつの間にかクロッカス、フクジュソウ、オオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウが咲いていました。フキノトウも。遠くから見ていたときにはまったく気づきませんでしたが、道端には多くの草花たちがそれぞれの色彩、形状でいのちを輝かせておりました。 

 

 

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⏰19時50分更新

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3・11

 今朝のクラシック倶楽部、釜石市出身のピアニスト小井土文哉さんがスクリャービンを弾いてくださった。番組視聴の最中に、「小井戸さんがTVに出ている」と教えてくださった方がある。「ついでに今朝の月もいいから見てください」と。半月が美しく磨かれた貝殻の光沢を帯びて、直に明けようとする空にくっきりとかかっている。なかなか。
 公開収録があると知って行きたかったのだがそれは家人にも言わないでおいた。番組に映っていた観客席の方々、これはもう釜石の方々ばかりではなく、遠くから近くから駆け付けた方々もいらっしゃるのだろう。
 釜石新生教会の柳谷雄介牧師、3・11以降、どれほどのご苦労を担って来られたことか。直接に面識はないが、お元気なお姿を拝見できたことは嬉しかった。小井土さんは子どもの頃、どうもこの辺りで遊んでいたものらしい。
 スクリャービン、小井土さんの釜石の3・11の想い出に親和性をもって鳴り響くのがこの曲なのかもしれない。最後の「星めぐりの歌」はスクリャービン風というか、スクリャービン調。小井土さんの編曲だった。
 演奏を聴きながら、15年前のあの凄まじい写真の数々、福島の原発事故を知った時、「日本はもう終わりだ!」と恐怖したことがまざまざとよみがえった。
 
 
 

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2026/03/01 聖日礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『わたしがあなたを洗わなければ』 ヨハネの福音書 13章1~15節
(説教題をクリックしてお聞きください)
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1
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分のものたちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後でわかるようになります。」
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか、わかりますか。
13 あなたがたはわたしを「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなけでばなりません。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

 

神谷牧師による説教の要約
 十字架を前にした最後の晩餐の席で、キリストが自分たちの足を洗い始めたことが理解できない弟子たちに向かって「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」と語られたことは「この中で誰が一番偉いか」を言い争う弟子たちが、自分が何者であるかを知り、彼らへのキリストの愛を知ることが意味されていた。
 また、キリストがペテロに向かって「わたしがあなたを洗わなければ、あなたは私と関係ない」と言われたのは、どうしようもない自分が主に愛されたことを知っているかが、その関係のカギであることを示している。
 私たちが「互いに足を洗い合い~愛し合うため」に必要なのは、聖霊を通して、キリストによって自分が罪洗われ、愛されたことが分かることである。


<ブログ管理人のひとりごと>
 このメッセージを聞きながら、私はついわらってしまった。この説教を聞くまでもなく、教会の方々がみな自分よりは偉い方々だという納得した思いがある。私の中ではそれはもう至極あたりまえのこと、そんな意識である。やはりそれは、自分は罪人であり、今に至っても欠けがある。けれども、キリストが私に代わって十字架に架かってくださり、そこで流された血を信じることで、自分は赦されて今ここにあるという自覚が基となっている。イエスさまは「確かにお前は不完全であるが、私の十字架の贖いの力を信じているのでお前を赦す」、そう言っておられる、そう思うのだ。私を訴える人々、あげつらう人々は少なからずあるだろう、しかし神は断言してくださる「主文 被告人は無罪!」。悔い改めイエス・キリストを信じる者には「被告人は無罪!」こう言ってくださる。
 今週は現実的に奥歯3本の治療、そしてこれとはまた別に、免疫力が低下したかで、花粉症がけっこう重い。ちょっと対応が遅れてしまったからだ。花粉情報に「多い」と見た時点で即座に対応すればよいものを、あれこれしている間に遅れてしまった。
 そして今朝見た夢もちょっと滑稽だった。クルマでどこかの講演か何かに来ているのだが、それが終わって駐車場を捜したが、どこにもクルマがなかったという夢。自分はいったいどこにクルマを置いたのだろう。今来ているこの場所さえどこなのかわからない。さてどこからどうやって調べ探したらよいものやら、思いあぐねるうちに、私は夢の中で、むむ、これは夢じゃないのか、これが夢ならクルマはある。この家の駐車場に。心配ない。ここで目が覚めたのだった。そして私は思った。必ず身分証明書、そしてクルマの車種、ナンバーぐらいは書いた手帳を持ち歩いた方がいいかな。万一クルマが行方不明になっても、これなら警察に探してもらえるかも、などなど。な~んだ、これは認知症になったときの対策じゃないの。
 そんなこんなの一週間であった。失敗しようと、何が何だかわけがわからなくなっても「主文 被告人は無罪」に感謝しつつ、やがてさしかかるであろう孤独のトンネルをも主と共に潜り、生き抜いていけるならと思う。


 ほんとうは1日に秋田から神谷牧師夫妻がいらっしゃる予定だったのが、事情で8日に変更になった。それで明日が楽しみ! 明日はM兄の信仰の体験談や、礼拝後にはA兄姉が皆様のためにカレーを準備してくださる。
 今日の写真はS姉のフラワーアレンジメントです。

 

 

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2026/02/22 聖日礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

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『わたしの家は祈りの家』 マタイの福音書 21章12~17節
(説教題をクリックしてお聞きください)
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12
それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」
14 また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。
15 ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、
16 イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。
17 イエスは彼らを後に残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。


 

神谷牧師による説教の要約
 キリストが神殿から商売をしている人たちを追い出したとき「わたしの家は祈りの家」と語ったのは、ユダヤ人からは汚れているとみなされていた異邦人の祈りの場が、不当に占拠されていることへの憤りが背景にあった。
 また商売人を追い出した後、キリストのもとにやって来た、目の見えない人や足の不自由な人、また子どもたちに共通しているのは、当時の社会から何ら顧みられることなく、大切にされていないことであった。
 私たちがキリストのように、謙って下に、下に向かう心を頂くとき、周りで私たちを必要とする、弱さを抱え、困っている人たちのもとに行き、親切にすることで、キリストの願う、神のみこころを行うことができる。

<ブログ管理人のひとりごと>
 17
時に15分前、明るい夕景がまるでこぞり立ち上がったかに活き活きと輝いている。閉め切ったへやの通気口から花粉が侵入しているらしく、鼻水が出る。私の自宅のこの辺りは杉が多い。今しがた光がトーンダウン。夕暮れの気配が幾分濃くなって、気分の反転を企てているようでもある。
 ほんとうは先週のことは先週に書かなければ、記憶のモザイクのいくつかが欠け落ちるか剥げ落ちるかしてしまっている。惜しいことだ。余生幾許かを数える身にはどれかが欠け落ちてしまうのは悔しい。
 三日間は孫たちと過ごす時間があったことは至福だった。自分もまだ何かの役に立つことができるという満足感。教会の牧師夫人は、自分が今後どの程度の事ができるかの不安を述べたときに、「何が出来なくてもいてくれるだけでいい」と仰ってくださったのは有難かった。しかしできないよりは何かができる方がやはり自分自身の張り合いが違うというものだ。そして今日も一通りの家事、買い物、またこのように書きとめることができている。余力があれば、もうちょっと書き物というほどのものかどうか、少しは書いて、何かを書けたという満足が欲しいところだ。
 そして書きとめておきたいのはさまざまあるが、ここは、教会のこと。これは兼牧の牧者に支えられているともいえるのだが、信徒の方々が、だからできない、ではなく、しかし何かができるはず、という視点に立っておられるということ。誰かがこうした方がいいと提案すると、もう誰かがそれを製作してくるという具合。この日、教会の礼拝を知らせるポスターか何かを掲示した方が良いという意見に応じ、早速お若い方のS兄が写真のような立て看板を作って持ってきてくださった。ポスティングのチラシは遠慮していただきたいねとの意見には、M兄がすでにテプラを作ってくださった。
 何とか讃美歌のピアノ伴奏をしたいとM姉が、朝教会に行くと、練習をしておられた。もっとも学校時代にある時期ピアノを習っておられたようでもある。ほんとうはこの方、ギターが得意、近頃はサキソフォンもなさっている。教会で音楽練習をと。平日にも教会に讃美歌が流れていたならどんなにすばらしいだろう。
 レジェンドというにはまだまだお若いS姉、冬のお花を私に代わって続けてくださっている。そして今朝も朝いちばんに会堂を温め、水道を開栓し皆を迎えてくれたT兄姉。帰りは火の始末、施錠までを引き受けて下さっている。そして休日出勤でもいつも教会を忘れず、注意を払ってくださっているY姉。夫妻で目立たない奉仕を陰でやってくださるK兄姉。いつもリモートで集会に参加くださっている方々。健康上の理由ですこしの間お休み、しかし教会の管理のことではこれまで十分にご奉仕くださったお若いI姉。昔はオルガンの塗装をしてくださったり多くの貢献をくださったそれこそレジェンドT兄。来週にはご活躍くださる予定のA兄姉。「そして何ができなくてもいるだけ」となりつつある私の良きアドバイザーK姉、A姉。そして何かに心配して教会に駆け付けてくださるT姉。挙げればきりもない感謝、感謝のオンパレード。教会は生きている。
 朝起きる事ができた感謝、こうして一日を締めくくることができる感謝と、ほんとうに神さまありがとうございます。
そろそろ夕食の支度をしなければならない。こうして予め書いておけば、遅くとも21時前にはブログ更新できるだろう。


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 写真はS姉のお花、そしてお若い方のS兄製作の立て看板。

 

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2026/02/15 聖日礼拝 説教 インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師

『王があなたのところに』 マタイの福音書 21章1~11節
(説教題をクリックしてお聞きください)

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1
さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たそのとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。
2「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」
4 このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。
5 「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』
6 そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
7 ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。
8 すると非常に多くの群集が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。
9 群集は、イエスの前を行く者たちも、後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」
10 こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。
11 群集は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。

 

神谷牧師による説教の要約
 キリストがエルサレムの町にやってくるのを見て人々が「ホサナ」(お救いください)と叫んだのは、死人をよみがえらせる力を、持った方が、当時自分たちを支配していたローマから解放することを期待したからである。しかし、そのキリストが子ろばに乗って進むことは柔和と謙りを表しており、それは十字架での最期へと向かう行進であった。
 十字架のキリストが、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、死後三日目に復活されたことは、究極の絶望である死を打ち破り、それまでに受けたすべての悪に対する静かな勝利を示す。
 このお方を受け入れ、心の王座に迎えるとき、私たちの歩みもまた、それに倣うものとなる。


<ブログ管理人のひとりごと>
 この日は、説教の前に、インマヌエル秋田教会のI姉の信仰の体験談をお聞きできました。
I姉は東京出身。インマヌエル深川教会に所属するクリスチャンホームの三女として育たれた方。小学校1年のとき、姉妹から「(あなたは)救われてないから天国へは行けない」と言われ、教会に行き、Y先生に個人伝道により救いに導かれる。その後、人生の分岐点に差し掛かるたびに助言者が与えられ、聖書のおことばに立ち返りながら、信仰の道を真実に歩み続けておられます。
 クリスチャンの若者たちの集いが必要であることを重荷とされ、その後にユースステーションが立ち上げられています。
 米農家の嫁として信仰によって幾多を乗り越えられ良き証しをたてておられます。どうぞお聞きください。

 礼拝が始まる前も、礼拝を終えてからも、それぞれの方々が準備、そしてあと片付けを淡々とこなしていてくださる。A姉が御手洗いの掃除をなさっていたが、これなら自分もできるなと思い拝見。眼に見える奉仕、見えない奉仕と常に陰に回ってもこなしていてくださる方々。まだ受洗していない方もが会員以上に動いてくださる。感謝は尽きない。


「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず」このようなキリストのお姿に倣うことができるかどうか、これが深刻な人権がらみのことである場合にも忍従と寡黙であるべきなのか、神さまの前に、 これもまた一生の課題であるように思う。
 

 

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