2026/06/07 聖餐式礼拝説教 インマヌエル綜合伝道団秋田・盛岡キリスト教会(兼牧) 神谷光一牧師
『聖霊と火で~バプテスマを授け』 マタイの福音書3章1~17節
(説教題をクリックしてお聞きください)
1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言った。
3 この人は、預言者イザヤによって
「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」
と言われた人である。
4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。
11 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。
12 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。
14 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」
15しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせて欲しい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開けて、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
17そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
【神谷牧師による説教の要約】
ヨハネのもとにバプテスマ(洗礼)を受けに来られたキリストに向かって、ヨハネが「私こそあなたからバプテスマを受ける必要があるのに」と語ったのは、キリストが罪なくきよい方だと知っていたからである。
また、キリストがバプテスマを受けた時、神の御霊が鳩のように降り、天から「これはわたしの愛する子~」と声が聞こえたのは、キリストが神に受け入れられ、聖霊によって洗礼を授ける方であることを示す。
それは私たちにとって、キリストが私たちの罪を解決ことで、その名によって洗礼を受ける者にも聖霊が与えられ、愛されている神の子どもとしての自覚が与えられることを意味する。
この自覚をもとに、親しみを込めて「天の父なる神~」と祈りたい。
<ブログ管理人のひとりごと>
はなしはちょっと飛躍しますが、あちらには壮麗な教会が数々。一歩踏み入れたなら足がすくむのではないか。サン・ピエトロ、ケルン、ノートルダム大聖堂、ウェストミンスター、セントポール等々、見上げただけで身が引き締まるような。彫刻、絵画、柱一本にも驚嘆と溜息。このところよくメディアにはサグラダ・ファミリア。設計はガウディ。真夜中に目覚めたときにTVを見るとたまに流れている、ヨハネ騎士団の遺構や修道院、数々の教会。現地に行ってもこうは、この角度からこのように見ることはできないだろうと、空撮のすばらしさに引き込まれる。とにかく美しく立派な建物が次々に。その時は目を奪われていた。確かに。
ところがこの6月7日、聖餐式で心洗われ神さまへの感謝を新たにし、午後の一斉会堂清掃にのぞんだ。仕事や親戚の法事関係で他出の方があるなどして、作業人数はぎりぎり。月に一度盛岡に来てくださっている神谷牧師夫妻も加わって下さる。帰り、秋田までの運転が案じられたのだけれども。皆さまがほんとうに汗だくになって床のワックスがけをして下さったり、蛍光管を外して拭いてくださったり、草刈り機で一斉に雑草を始末してくださったり、ごみ袋に詰め込んだり。ガラスや桟を拭いたり。またもや私は簡単な作業の方。スミマセン。スリッパの底を拭いてくださったり。枝の剪定をしてくださったり。100%完璧にやりおおしたとはいかないが、しかし、誰一人大変ではあっても嫌な顔をせず、譲り合いいたわり合いながら行っている姿を、家に帰って一段落したころに思い起こし、じわりと来るものがあった。建物じゃない。教会はある意味ステンドグラスでもパイプオルガンでもない。ほんとうにキリストを愛し、その礼拝の場をまもり、その仲間たちを慈しみあう教会が教会。これがほんとうの教会だ。私の意識の中で壮麗な伽藍はあっさりとひっくり返り、このようなありようの教会が意識の中に穏やかで温かな光彩を放っていたのです。個々の問題課題はあっても、否、あるからこそ、祈り合い、上を仰ぎ歩むことを止めない兄弟姉妹がいる。
久しく忘れてましたが、イエスさまのおことば、「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイの福音書18章20節)
そこにイエスさまがいらっしゃるか、いらっしゃらないか、教会にとって最も重要なのはこのこと。キリストによって生かされた人々が集まっているならそこは立派な教会。ある意味、会堂が傾きかけたバラックでも。すばらしい建物があればそれはそれで感謝ではある。しかしそれがなくても主が耀き出でる場というものがある。ふしぎなことです。
写真は教会の案内板。國光牧師夫妻が引退されてからは、I姉が、そして今はK姉が、教会にはK姉が何人かいますが、large Kさんがいつのまにかやってくださっています。
この週は夜の祈祷会のために会堂に明りがつきました。ほとんどの方はズームでの参加、私も夜は自宅でズーム参加ですが。T兄が教会に出向き、明かり、これは私には松明のようにも思われましたが、灯りを点けて会堂で祈祷会をまもってくださいました。思えば画期的なことです。
それにしてもこの日の教会カレー、シェフも顔負け、というよりは、かつてはシェフも務まったA兄のカレーはやっぱり美味しかった。忙しい中を作り持参くださったM姉のサラダは今や我が家でも定番メニュー。感謝です。この日、教会に来られなかったY姉、T姉もいつも祈っていてくださる。あれもこれもそれも感謝です。「神が私たちとともにおられる」(マタイ1:23)
インマヌエル秋田キリスト教会 https://localplace.jp/t100303888/
インマヌエル盛岡キリスト教会 https://sites.google.com/view/igm-morioka/
⏰19時33分更新





















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