2025年11月09日インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会説教 神谷光一 牧師

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説教題『果たしてそのとおりかどうか』使徒の働き17章1~15節
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1 パウロとシラスは、アンピポリスとアポロニアを通って、テサロニケに行った。そこにはユダヤ人の会堂があった。

2 パウロは、いつものように、人々のところに入って行き、三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。

3 そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそ、キリストです」と説明し、また論証した。


4彼らのうちのある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。神を敬う大勢のギリシア人たちや、かなりの数の有力な婦人たちも同様であった。


5 ところが、ユダヤ人たちはねたみに駆られ広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。

6 しかし、二人が見つからないので、ヤソンと兄弟たち何人かを、町の役人たちのところに引いて行き、大声で言った。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも来ています。

7 ヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、「イエスという別の王がいる」と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」


8 これを聞いた群集と町の役人たちは動揺した。

9 、役人たちは、ヤソンとそのほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。

10 兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。

11 この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

12 それで彼らのうちの多くの人たちが信じた。また、ギリシアの貴婦人たち、そして男たちも少なくなかった。

13 ところが、テサロニケのユダヤ人たちが、ベレアでも

パウロによって神のことばが伝えられていることを知り、そこにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした。

14 そこで兄弟たちは、すぐにパウロを送り出して海岸まで行かせたが、シラスとテモテはベレアにとどまった。

15 パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そして、できるだけ早く

彼のところに来るようにという、シラスとテモテに対する指示を受けて、その人たちは帰途についた。

 

神谷牧師による説教の要約
 キリストが登場してから書かれた新約聖書の中で「聖書」と言えば、旧約聖書を指している。
 パウロの語るキリストの十字架と復活に対して、行く先々で反対するユダヤ人がいる中、ベレアの町の人々が「はたしてそのとおりかどうか」と、それを聖書が示しているか調べ、確信をもって信仰に立っていった。
 現代、私たちの周りにいる、聖書を知らない人にとって、それを調べる方法は、聖書を信じている人々の生き方を通してであり、そのようにしてキリストがどのような方であり、何を与えることができるかを知ることができる。
 日々祈りつつ、喜びをもって主にお仕えし、そのことを証ししたい。


ブログ管理人のひとりごと
 すばらしい秋晴れが続いている。見晴るかす山並みの錦。ドングリや栗の実が枝に打ちあたり澄んだ音を響かせる木立を、ゆっくりと歩いてみたい気もするのだけれども、クマとの鉢合わせは避けたい。
 教会で不思議なことがあった。誰もが想像も予測もできなかった展開があった。これは人にはできないこと、これは神さまにしかできないこと。そういったある成り行きがあったのだ。人の一生は主の導きによる、私はそう思った。そのような不思議が自分に起こらないとしても、神がこの一事例を私にも見せてくださったことで十分。確かに神さまはいらっしゃる。

 

 

 

以下のURLを辿りますと、それぞれの教会のHPに入ることができます。

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20時07分更新

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2025年11月2日召天者記念礼拝説教 インマヌエル秋田・盛岡教会牧師 神谷光一牧師

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『真夜中ごろ~祈りつつ~歌を
使徒の働き16章16~34節
説教題をクリックしてお聞きください。
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16さて、祈り場に行く途中のことであった。私たちは占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。

17 彼女はパウロや私たちの後について来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び続けた。

18 何日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り向いてその霊に、「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と言った。すると、ただちに霊は出て行った。

19 彼女の主人たちは、金儲けする望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人たちのところに引き立てて行った。

20 そして、二人の長官たちの前に引き出して言った。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町をかき乱し、

21 ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも赦されていない風習を宣伝しております。

22 群集も二人に反対して立ったので、長官たちは、彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた。

23 そして何度もむちで打たせてから、二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。

24 この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた。

25 真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。

26すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。

27 目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。

28 パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。

29 看守は明かりを求めてから、老の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。

30 そして二人を外に連れ出して、「先生方、救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。

31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

32 そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。

33 看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。

34 それから二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ。



神谷牧師による説教の要約
 パウロたちは捕らえられた夜、獄中で賛美と祈りの中にあった。その時、地震のために牢獄の扉が開いてしまい、看守が死のうとしたのは、囚人を逃した自分が処刑されると思ったからである。
 他の囚人と共に牢獄に留まっていたパウロは、声をかけてその看守の死を止めた。看守は、今や命の恩人となった囚人パウロとシラスの前にひれ伏し、その夜のうちに彼とその家族は救いに与ることができた。
 パウロたちが真夜中の牢獄で祈り、賛美を歌うことができたのは、神が彼らをそこに導かれたことを信じて、これから神がなさることに期待することができたからといえる。
 神は私たちの人生を、目的をもって導かれる。それは私たちの思いを超えたものである。

 

<ブログ管理人のひとりごと>
 この教会からも多くの方々が先に天国に帰ってゆかれた。私も余生ともいうべき人生の終わりの一部に生かされている。このトシまで生きたのだから多少は賢くなっているかと思えばさにあらず。相も変わらず神さまの御前には足りないことばかり。けれども、主の十字架を仰ぎ、神さまのお約束を思い出すときに、理屈の無い安堵と納得を当たり前のように受け取っている。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」 (ヨハネによる福音書 3章16節)
 悔い改めと信仰。神さまはこのことを私に命じておられる。いつでもイエスさまの十字架を仰ぎ、神さまに立ち返ることを、神さまは私に命じておられる。


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2025年10月26日の神谷光一牧師の日曜礼拝説教 教団創立記念礼拝

 

『主イエスの恵みによって救われ』使徒の働き15章1~21節
説教題をクリックしてお聞きください。
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1
さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。

2 それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

3 こうして彼らは教会の人々に送り出され、フェニキアとサマリアを通って行った。道々、異邦人の回心について詳しく伝えたので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。

4 エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した。

5 ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。

6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を協議するために集まった。

7 多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。

8 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。

9 私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

10 そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。

11 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」

12 すると、全会衆は静かになった。そして、バルナバとパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話すのに、耳を傾けた。

13 二人が話し終えると、ヤコブが応じて言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。

14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについては、シメオンが説明しました。

15 預言者たちのことばもこれと一致していて、次のように書かれています。

16 『その後、わたしは
倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。
その廃墟を建て直し、
それを堅く建てる。
17 それは、人々のうちの残りの者と
わたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、
主を求めるようになるためだ。
18 —昔か知らされていたこと、
それを行う主のことば。』

19 ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。

20 ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。

21モーセの律法は、 昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸教会で読まれているからです。」


神谷牧師による説教の要約
 異邦人に向かって「割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべき」と、エルサレム教会の人々が言ったのは、異邦人も自分たちユダヤ人と同じようになることが正しいと考えていたからである。
 その討議の中で、パウロと言い争っていた人たちが沈黙し、静かになったのは、自らもまたキリストの十字架によって救われたことの大切さに気付かされたからだといえる。
 そこで人々が理解したのは、キリストの十字架の前に立つとき、それぞれ違いを持つ人同士でも、神の前には平等だということである。
 互いの違いが大きく見えるとき、共に大きな恵みの中に生かされていることを思い起こし、違いを創造の豊かさとして理解したい。


<ブログ管理人のひとりごと>
 前にも書いたかと思うけれども、私の場合には教団の中の一個人という意識はそれほどつよくはない。こういった教団記念礼拝と明記されて礼拝に与るときには、教団の初代蔦田二雄先生を思い起こし、「聖宣」を貫かんとイエスさまを見上げ続けた諸先生方、私に洗礼を授けてくださった河村襄牧師、そして50年間、牧会を通して導いてくださった國光勝美・ひろ子牧師、そして現在お世話になっている神谷光一・美津子牧師への感謝の念を新たにしたことである。諭し、導いてくださった存在は大きい。教団への帰属意識はそれほど強くはないと言ってはみたものの、お世話になった先生方はどの方もみな初代の蔦田先生の薫陶を直接、間接的に受けた先生方であってみれば、やはりその影響下にあるといえるだろう。それ以上に大きいのは、私が神に不従順であったときに、神がどのように私に関わってくださったか。このことを思い出す時に、今自分があるのはただイエスさまの十字架の赦しによる、ただそれだけである。となれば、きょうの説教にもあった「違い」によって人を区別したり、疎んだりする資格はないのだ。私は人をばかにしたことはない。当たり前のことだけれども。そして、これまで相対した方々みなさまが、自分よりは優れていると思っている。ただ在りようの違いに対しては、自分の分限をこえた対応、思いやりに欠けた在りようで応対してしまっていたという苦い思いがある。今から誤ることが出来る方もあれば、今となっては何ともなしようがない方もいらっしゃる。そして最後には、イエスさまのご忍耐ととんでもないご愛に深甚させられる。それを自覚すればするほど、大したことのない自分が見えて来、そこにこそ十字架の御血潮を注いでいただく必要を覚え祈っている自分がある。
 




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⏰19時55分更新

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神谷光一牧師の2025年10月15日の説教

 

 毎日ごはんを食べて命をつないでいるように、私は毎週教会に行き、聖書からの解き明かしからの栄養で、霊的な命の調整や刷新をいただいている。毎週の〝ごはん〟で補われるのは、日ごろ足りていない〝蛋白〟だったり〝ビタミン〟だったり。或いはビシッとくる訓戒だったり。やはりいちばん心がやわらかくなるのは、あたたかい霊的なものに満たされたとき。説教がましい説教には、心はなかなか素直に解かされ溶かされはしないもの。霊的な作用が及ぶとき、そうだな、そのとおりだ、私がまちがっている。自ずとそんな心境になっているのは不思議だ。「きよさ」が死語になりつつあると思ったことも。しかしだいじなのはそれだ。霊的作用が及ぶにはそれが必須。きよくあること。やはり十字架だ。イエスさまだ。信じると十字架の血によってすべての罪が赦されきよくせられるという十字架。「キリストにはかえられません」、こういうこと。それで、聖書直結のおはなしにきょうもつながり、つなげてしまうのだ。

『主の前に、心を注ぎだし』第一サムエル1:9~20
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説教題をクリックしてお聞きください。

9 シロでの飲食が終わった後、ハンナは立ち上がった。ちょうどそのとき、祭司エリは主の神殿の門柱のそばで、椅子にすわっていた。

10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。

11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡します。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」

12 ハンナが主の前で長く祈っている間、エリは彼女の口もとをじっと見ていた。

13 ハンナは心のうちで祈っていたので、唇だけが動いて、声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのだと思った。

14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」

15 ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、心を注ぎ出していたのです。

16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」

17 エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたが願ったその願いをかなえてくださるように。」

18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。

19彼らは 翌朝早く起きて、主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家に帰って来た。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。

20 年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして「私がこの子を主にお願いしたのだから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。

 


神谷牧師による説教の要約
 不妊の女性ハンナが、子どもが与えられない苦しみと苛立ちから心を注ぎだして祈る中に「男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします」という祈りに導かれた。それは、神のみ前で心を注ぎだすうちに思わず生まれたものだといえる。
 また、その後、誕生した幼子を祭司に預ける際の祈りは、この世界に対する神の支配と権威への賛美が表されていた。
 自分の心にある本音をそのまま告白して祈る中に辿り着くのは、自分の側からのものの見方から、神さまが見ておられるように人や物事を理解できるようになることである。
 問題課題に際して、心にある思いを神の前にありのままに注ぎだすとき、神の視点で物事を受け止め、取り組むことが可能となる。



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⏰19時44分更新

 

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神谷光一牧師の10月16日の祈祷会メッセージ

 いつもは日曜礼拝説教をおつなぎしていますが、きょうは、この週の16日の祈祷会メッセージ、毎週木曜日の夜7時半からは、誰でもが自宅で聴くことが出来るように祈祷会メッセージが配信されていますが、その祈祷会メッセージをおつなぎします。疲れぎみだったのですが、気持ちが一気に明るくなりました。

16日の説教 ←クリック  へブル人への手紙12章1~13節

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1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
3 あなたがたは、罪人たちの、ご自分にたいするこうような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。
4 あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。
5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。
「わが子よ。主の訓練を軽んじてはならない。
主に叱られて気落ちしてはならない。
6 主はその愛する者を訓練し、
受け入れるすべての子に、
むちを加えられるのだから。」
7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。
8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生時児であって、本当の子ではありません。
9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10 肉の父はわずかの間、自分の良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は、私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。
11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の義の実を結ばせます。
12 ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。
13 また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒されるためです。
きょうは大谷のひと試合中に3本のホームラン。GDPがもはやドイツに抜かれ次はインドにも抜かれるか、和平の条件が満たされていない、こんどはどことどこが連立する? ガタガタする真最中に、三度のスカーンにスカッ! そんなこんなのところに、神との平和あるところに心の平和あり。主よどうかお導きください。 21時32分更新

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きょうのことばー『必要なものを知って』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

10月5日(日)「必要なものを知って」マタイ6:5~15

きょうはS姉のお証しも入っています。


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 神さまは私が神さまに求める前から、私に必要なものを知っておられる。だから祈るときには次のように祈りなさいと掲げられたのが、「毎日曜教会でお捧げしている「主の祈り」の内容。時としてどう祈ったらよいかわからない時に、聖書のこの箇所を繰り返している。

主の祈り

天にまします我らの父よ、ねがわくは、
み名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、きょうも与えたまえ。
我らに負い目ある者を、我らがゆるすごとく、
我らの負い目をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせないで、悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなく、なんじのものなればなり。
アーメン。

主の祈りだけで一日が終わる、そんな日があってもいいんじゃない、近頃はそうおもう。

⏰更新時間遅すぎと思いつつ更新22時9分

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きょうのことばー『心を痛めて主の前にへりくだり』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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 教会へは、毎週日曜日、私が運転し、途中でK姉と一緒に行くのがパターンになっていたけれども、初めて、手術後に私が運転することを心配したT姉が、家に迎えに来てくださった。それが9月14日。21日と28日は私が運転し、K姉とともに。今は統一教会が問題となっており、昔ながらに聖書を土台として正統的な信仰に歩む教会までが、新興宗教と一括りにされてしまっている向きもないではない。日曜日なぜ教会に行くのか。日曜ばかりも家でゆったりしたらいいじゃないの。お説はさまざま。
 ある方がおっしゃった。「私は家の跡取りという役目があるから、クリスチャンにはなれない。だけど、教会に行くと気持ちが洗われ、何か清々しい気持ちになるのよね。クリスチャンにはなれないけど、教会は反対しないし、何かイベントがあったらまた教えてちょうだいね」。そうなんです。私自身、教会を休んだりすると、休むのは年に一回あるかないかなんですが、気持ちが荒むとまではいかないにしても、何か落ち着かない。ふと気づくとマイナス思考に捕らえられ、目線が下向きになっている。まさしく「罪は聖書からあなたを遠ざけ、聖書はあなたを罪から遠ざける」。教会を離れ、聖書から遠ざかったときに、私は私の形相がどんなふうになるか、簡単に予測が付くのです。ですから、健康が許され、状況が許される限りは、私の場合は教会に行かなければならない。行きたいというよりも行かなければならない。そう思っています。
 入院中にも神がおられることへの疑念はなく、もしこのまま逝っても文句はないと思いながら、けっこうMLBやふだん見てる音楽番組、真夜中のオペラや朝ドラも楽しんでいました。病室の窓から秋の四辺形、ぺガスス、アンドロメダ等の星座も感動的でした。窓の向こうに6階でしたが、けっこうトンボが過っていくのも面白く、そして飛行機、雲は天才である天才君たちの流れ移ろいもなかなか。神さまはすばらしいものをたくさんたくさん見せてくださいました。

9月28日の礼拝説教は「心を痛めて主の前にへりくだり」Ⅱ列王22:1~20。是非お聞きください。

 

 

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🚩21時31分更新

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きょうのことばー『惜しまないでいられるだろうか』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

 しばらくお休みしておりました更新、心臓に活力を付加するべく手術を受けました。手術前にネットで術後のことをあれこれ検索したところ、パソコンを思うように使えなくなるかもしれないと危惧しました。何でもパソコンで用を足していることから、これは一大事。しかし驚きもしませんでした。こうなれば手書き。まだこの手がある。手が残ってるではないか。しかしこの年で嵩張る文書の置き換え一つも重労働になるだろう。それが無理なら、何もできなくなるとしても、生きられないことはない。そう腹を括っていたところ、術後に渡された注意事項にはパソコンの使用は可とあった。7日に退院してきて2週間は経った。すこし重苦しくもあったが、今日から使い始めてみている。大丈夫なようだ。

 このブログ、音楽ブログだったはずが、いつの間にか毎週説教をつなぐために更新するようになっていた。できるだけ日曜日朝の7時までにアップ。これは、自分に負荷をかけることでもない。そう思ってきた。しかし今回病気がわかり、それなりの治療を必要とした段階に至って、やり方を一考しなければなりません。何も日曜と限定せず、7時までにとシャカリキにならずとも、自分のペースに合わせてゆるくゆるくやっていいのだと。誰から命じられているわけではない。それこそ強制されているわけでもない。やりやすい時間にマイペースでやっていこう。教会は眠ってないよ。敬愛する牧師先生方のイエス様に根差したお働き、信徒方の愛と祈り。14日には岩渕まことさん由美子夫妻のコンサートが行われましたが、今回は、私は何一つ手伝いもしていない。ラインで、ああ、あの準備をしてくださった、これも、それも、これも、それも、牧師夫妻と兄弟姉妹方が次つぎに準備くださる様子を、入院のベッドの上でグループラインで見ておりました。準備万端整い、あとは岩渕夫妻をお迎えするだけとなっている当日に、私はのこのこと参上。みなさま心から喜んでくださいました。小さな者をもまことに祈っていてくださったことに深く感謝したことです。20日ぶりのパソコンですこし疲れました。そろそろ切り上げた方が良さそうです。

 
著作権か何かの関係で感動的な岩渕さんのコンサートのユーチューブはアップできませんが、9月14日の神谷光一牧師の説教「惜しまないでいられるだろうか」をおつなぎしたく思います。是非お聞き下さい。
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⏰21時7分更新

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すこしのあいだブログ更新をおやすみいたします。

 病気治療のため、一定期間、更新をおやすみいたします。あければ実りの秋。主はいったいどんな実りの数々を見せてくださるでしょうか、楽しみです。
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♪キリストにはかえられません

1.キリストには
かえられません
 世のたからも また富も
  このお方が わたしに
 代わって死んだゆえです
 
※世の楽しみよ 去れ
 世の誉れよ 行け
 キリストには
かえられません
 世のなにものも
 
2.キリストには
かえられません
 有名なひとになることも
 ひとのほめる 言葉も
 この心を惹(ひ)きません
 
♪ 世の楽しみよ 去れ
 世の誉れよ 行け
 キリストには
かえられません
 世のなにものも
 
3.キリストには
かえられません
 いかに美しいものも
 このお方で 心の
 満たされてある 今は
 
♪ 世の楽しみよ 去れ
 世の誉れよ 行け
 キリストには
かえられません
世のなにものも

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きょうのことばー『主の前で力の限り跳ね』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教をおつなぎしております。
2025
年8月10日(日)
説教題 『主の前で力の限り跳ね』 (←クリック)
聖書朗読 サムエル記第二6章12~23節

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12「 主が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された」という知らせがダビデ王にあった。ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上げた。
13 主の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。
14 ダビデは、主の前で力の限り跳ねまわった。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。
15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上げた。
16 主の箱がダビデの町に入ろうとしていたとき、サウルの娘ミカルは窓から見おろしていた。彼女はダビデ王が主の前で跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼を蔑んだ。
17人々は主の箱を運び込んで、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の定められた場所にそれを置いた。ダビデは主の前に、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。
18 ダビデは全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ終えて、万軍の主の御名によって民を祝福した。
19 そしてすべての民、イスラエルのすべての群集に、男にも女にも、それぞれ、輪型パン一つ、なつめ椰子の菓子一つ、干しぶどうの菓子一つを分け与えた。民はみな、それぞれ自分の家に帰った。
20 ダビデが自分の家族を祝福しようと戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、今日、本当に威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日、あなたは自分の家来の女奴隷の目の前で裸になられて。」
21 ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで、主の民イスラエルの君主に任じられた主の前だ。私はその主の前で喜び踊るのだ。
22 私はこれより、もっと卑しめられ、自分の目に卑しくなるだろう。しかし、その女奴隷たちに、敬われるのだ。」
23 サウルの娘ミカルには、死ぬまで子がなかった。

 

【神谷牧師による説教の要約】
 サウル王に代わって、ダビデが神の箱を荷車に載せて運ぼうとしたとき、箱に触れた人が神に打たれたのは、祭司やレビ人以外に神の箱に触れてはいけないというルールが忘れられるほど、それらが軽んじられていたことを示している。
 ダビデが祭司やレビ人たちを神の前に賛美をささげる人として奉仕を与えたのは、サウル王のように力で国を守ろうとするのではなく、神がこの国を支えてくださると考えていたからである。
 また、サウルの娘であるミカルが、民の前で喜び踊るダビデを見下ろし、心の中で蔑んだのは、神よりも権力にすがり、周りからどう見られるかが大事だったサウル王と同じである。
 見えない神の視点に重きを置く人は、周囲の評価から自由にされて生きることができる。

―ブログ管理 人のひとりごとー
 この日の説教、人の目より、神の視点に立って行動すべきであること。顧みると、神がどうご覧になるかよりも、人がどう思って見るか、人の視点の方を計算に入れて行動することが多かった自分であったなと思う。
 一人暮らしの実家の母の介護をしていたときのこと、特に母が人工透析になってからは、週3回、母が病院へ行くときには介護タクシーをお願いしていた。驚くほど安かった。今負担割合を「盛岡市の介護タクシーの負担割合は?」と入れてみると、1~3割と出ている。何れそんな金額であったと思う。福祉って有難いと思った最初だった。4時間の透析の後、迎えに行って、買い物をし、簡単に身の回りを片付けて帰るのが私の役目。時には気晴らしにクルマで郊外の景色を見せに連れていったこともある。母は小岩井が好きだった。ほかはヘルパーさんに来ていただいていた。ヘルパーさんが来る日は、何か母が動く。「今日はヘルパーさんが来るからきたなくしておくと恥ずかしい」というのだった。そんな母の気持ちも分からないではなかったが。
 夕方になって私が帰ろうとすると、「あっち(嫁ぎ先)でも待ってるだろうしね」とポツリ。本音は泊ってゆっくり母と過ごしてやりたかった。しかし毎日のように母のところには来ているのだし、同じ市内に居ながら泊るまではしなくともいいだろうと思った。それと、私は、外泊には抵抗感がある。これには世間体が悪いという意識がないではない。
 今朝母の夢を見ていた。デパートの人混みの向こうに母が歩いている。夢の中で、あら、母は死んだはずなのに。母は平成19年に88歳で亡くなっている。ただ単純にそんな夢だったけれども。しかし思った。あの時、泊ってやればよかった。勿論、年越しの日は泊りに行った。兄弟たちが連れていったときもあったが、本人が家にいる方がいいと言うので、こんな日に一人にしてはおけないと私が行っていた。舅は「我が家の年とりは30日である」と明言。「31日はそれぞれ好きなようにしなさい」。それで30日は小姑さん一家と共に〝年越し〟ができ、31日は私は実家に泊りに行くことができたのだった。
 しかし今になって、もっと泊ってあげればよかったという思いがのこっている。母は私が帰るときに、それを言いたかっただろうと思う。母が亡くなってから私は気づいた。母は、死ぬことは覚悟していたなと。叔父(母の弟)が母を「天才的な忍耐力の持ち主」と言ったことがある。まさしくそうだった。 
 嫁ぎ先の思惑と人目を気にして動いていた自分。「今日は泊っていきます」と電話を入れたとしても、主人も舅姑も「ああ、そう」と言っただろう。ダメだと言う人はいない。今思えば家に帰った方がいいと思っていたのは私だけだった。
 結局母は病院で最期は弟と私に見守られながら息を引き取った。私はあのとき、心肺停止の前に人の霊魂は先に出て行っているのではないかと思った。心肺停止の前に、母の明るい顔が中空に見えるように浮かんだからだ。「ほら、ここにいるよ」、母はそう言っているようだった。

 15日には、主人の病院もあったが、お盆という事で、午後は両親の仏壇を預る兄のところに、私の兄弟、甥、姪らが集まった。やはり日本は仏事で人が集まることになる。両親は仏式で葬られている。そして午後の2時ごろには孫が誕生。16日は夕食に息子たちを呼ぶ。孫が窓から遠くに上がる花火を見ていた。あれこれ取り混ぜて、この先まだまだ忙しくなりそう。

 

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