きょうのことば『すべてを新しく』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年6月1日(日)
説教題 
すべてを新しく』聖餐式礼拝説教(←クリック)
聖書朗読
 ヨハネの黙示録 21章1~8節
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1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。
神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から
涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
以前のものが、過ぎ去ったからである。」
5 すると、御座に座っておられる方が言われた。
「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
6 また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。
7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
8 しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」

 


【神谷師による説教の要約】
 黙示録は高齢となったヨハネが幻のうちに、キリストを信じているため迫害の中にある人を励まそうと、終末に訪れる新たなエルサレムの都についての預言を示すことで、直面する苦しみが必ず過ぎ去ることが語られている。
 また、勝利を得る者とは、迫害の中でも、終わりまでキリストへの信仰を失わないことである。
 そのためにキリストは、その妨げとなる生まれつきの性質を変えるために十字架でいのちを捨て、私たちに与えてくださり、やがて訪れる新しい天地の中で新たなエルサレムの都に入れるようにされた。

 

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 イエスの愛しておられた弟子「ヨハネ」は、殉教とならず、ほかの弟子たちよりも長く生きることをゆるされ、一時期はパトモス島に流される。パトモス島ってどんなところ?とネット上で飛んでみると、今は美しい観光地。景色の美しさはそのまま。ここでヨハネは主の幻、新しいエルサレムを見せていただいている。いざというときには必ずある神さまからの励まし。それがヨハネのように幻の提示ではないとしても、神さまは日常的なほんの小さなことをとおして、またご聖霊さまを通して、聖書のおことばを通して、ご自分の存在をあらわし励ましてくださる。この頃はイエスさまのご最期がよく心に通うけれども、最大限の苦痛をご自分の飲むべき杯として受けられた、敢えて、諄々とこの杯を干された主。人の声はさまざま。しかし今主は言われる「これが道なり、これを歩むべし」。
 

 

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きょうのことば『私の金を銀行に』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年5月25日(日)
説教題 私の金を銀行に』←クリック
聖書朗読
 マタイの福音書 25章14~30節
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14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで、財産を預ける人のようです。
15 彼はそれぞれの能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡して旅に出かけた。
16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
17 同じように、ニタラント預かった者も、ほかに二タラントをもうけた。
18一方、一タラント預かった者は出て行っって地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。
20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はほかに五タラントをもうけました。』
21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
22 二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。ほかに二タラントもうけました。』
23主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえは、わずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなた様の物です。』

26
しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。
27 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。
28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。
29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。
30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。

【神谷師による説教の要約】
 キリストが天国を語ったたとえの中で、主人が3人のしもべに別々に財産を預けた時に期待していたことは、各々が財産にたとえられた恵みを実際問題に対して活用することであった。

 私たちにとってキリストから一方的に与えられた恵みとは、罪から救われて聖霊によって神の愛を頂いていることであるが、与えられている愛を用いたいとの思いはあっても、直面する課題を前に、自分には難しいと感じる時、一人でそれらを抱えるのではなく、主にあって信頼できる人々と共有し、とりなしを依頼することを通しても、そのみわざの実現を見ることは可能である。

―ブログ管理人のひとりごとー
 このページの更新を、ほとんど習慣的に、サッサカ、サッサカと進めていた。ハイ、写真、ハイ、メッセージのおつなぎ、といった具合。それが次の瞬間、書いた画面が掻き消えた。まさかやり直し? そう、そのやり直しなのだ。不注意で誤ったキーを押してしまい、そんな事態に。恐ろしきは慣れ。こういう更新は慣れでやってよいものではないことを思い知らされた。復元にそう時間はかからなかったが、十字架より一歩下がって、やらせていただいているという聖なるものへの畏怖を忘れてはならないのだ。
 神さまは私にいかほどのタラントを預けてくださったものか。はっきりとしたところはいまだ掴みかねているのだけれども、少なくとも残された人生を「善且つ忠なるしもべ」と言っていただけるように歩みたい。
 近頃は散歩が楽しい。主人が心配なのでできるだけ同伴していることもあるが、これは自らの健康にも良い。平成までの家の庭には花がたくさんあった。よくもあれだけ植えたものと今になって呆れもしている。令和になってからは庭がないので、散歩がてら人様の庭を楽しませていただいている。これで十分。それがちょっと寂しいのは、柘榴の木、伐られてしまった。どんな花が咲くのかを楽しみにしていたところが、駐車場になったのだ。それと無花果の木。実のなり様を、通るたびに面白くみていたのだが、見る見るうちに更地となり、きれいなアパートになってしまった。近頃心惹かれるのが雑草、といっても個々に名があるのだけれども、草たちがしっかりとはびこり生きている。居たんだね、生きてるんだね。一つ一つに感動する。そして感動を覚えられることに感謝し、今、このいのちある事が感謝でならない。

 

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きょうのことば『用意ができていた娘たちは』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年5月18日(日)
説教題 用意ができていた娘たちは』(←クリック)
聖書朗読
 マタイの福音書 25章1~13節

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1 そこで、天の御国は、それぞれがともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持ってきていなかった。
4 賢い娘たちは、自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。
5 花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。
6 ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
7 そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。
8 愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あまたがたの油を分けてください。』
9 しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』
10 そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。
11 その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください。』と言った。
12 しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません』
13 ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。

【神谷師による説教の要約】
 キリストは世界の終わりに起きることを、花婿を迎える娘たちに例えて語られる中で、愚かな娘たちと賢い娘たちの違いは、ともしびのための油を持っていたかどうかであると指摘された。愚かな娘たちが「油を分けて」と賢い娘に頼んだ時「分けてあげるには足りません」と言われたのは、ともしびを持ち続けるための油はだれかに分けてもらうのではなく、自分で持つしかないからである。
 その油とは私たちの毎日の中で起きることを、神を計算に入れて、感謝したり、悲しいことや苦しいことを祈ることで、信仰が新しくされることを通して生まれてくる。
 この世界に必ず訪れる週末、また私たちがこの世界に別れを告げる人生の終わりが、やがて来ることを心に留めつつ、特別なことではなく、普段の生活の中に備えてゆきたい。

―ブログ管理人のひとりごとー
 「神にとっての想定外はなに一つない」。説教中この一言に気付かされた、というよりも気づき直した。かつて気づき、今に忘れ、けれどもまた新たに気づき直したというところ。ああかこうかと気をまわしあるときには疲れ、あるときには苦みを転がしているのは人の側で、神はすべて、平たくいえば、神はすべてご存じ。悩む、怯むことよりも神に信頼して、必ずや慮ってくださる神さまにお任せし、今できることを祈りつつ淡々と続けること。今神さまからいただきたいのは体力と気力です。あと5,6年。ぜいたくを言わせてもらえるなら、神さま、あと10年ばかりお願いします。

 

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きょうのことば『どうぞ披露宴においでください』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年5月11日(日)伝道礼拝
説教題 どうぞ披露宴においでください』(←クリック)
聖書朗読
 マタイの福音書 22章1~14節

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1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。

2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください』と。」
5ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
9 だから大通りに行って、出会った人をみな宴会に招きなさい。』
10しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
13 そこで、王は召使たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

【神谷師による説教の要約】
 キリストは天国についてたとえで語られた。最初に披露宴(結婚式のお祝い)に招かれた人々が来なかったことは、イスラエルの人々が救い主として来られたキリストを拒むことを指しており、そのために神の招きは全人類に広げられ、さらに「悪い人でも良い人でも」披露宴に来ることができたのは、受付で渡される「礼服」を着ることがその条件だからである。
 また、その礼服が意味するキリストを「着る」とはキリストが私たちのために十字架にかかってくださったことを信じることで披露宴である、天国に入るための資格を得ることを意味している。

―ブログ管理人のひとりごとー
 この日は伝道礼拝ということで、K姉の信仰の体験談をお聴きしました。K姉は教会に行くときには毎週ご一緒させていただいている方です。クリスチャンだから人生の困難を特別に免れられるのかというと、そうではない場合、そうである場合があり、それはひととおりではない。しかしその根底にイエスさまの存在があるかないか、その違いである、お聞きしてそう思われました。
 この日の説教、キリストを「着る」。どのような礼服にも勝って威儀をただせる着衣であると思いました。
5月に上京したとき、上野の奏楽堂へ行きました。この日まる一日付き合ってくれた息子が、主人と私を豊洲から上野に連れていってくれました。案内人がいると、どこをどう歩いたか確かめもしません。ただついて歩くだけ。小雨が降っていました。傘をさしました。帽子でしのぐには雨量があります。道端の縁石に、じっと地面に目を落として座っている人がいました。くたびれた身なり。この雨に帽子もかぶっていません。なぜか今鮮やかに思い出しました。ホームレスの方です。誰も気にとめていないかのように、いつもそこに人が流れているかに人が通り過ぎていきます。よし心が痛んだとしても、通り過ぎては忘れています。あの光景を思い起し、ああ、キリストのくださる着物があるものを、そう思いました。キリストの披露宴に招かれることができる〝礼服〟が備えられてあるものを。

 

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きょうのことば『福音を一緒に届ける同労者として』ー木山キリスト教会  松尾献牧師の説教ー

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2025
年5月4日(日)「 ビルド」(全国青年大会)にオンライン参加
説教題 『福音を一緒に届ける同動労者として』
木山キリスト教会 松尾献牧師説教
聖書朗読
 ヨハネの福音書 6章1~14節

1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。
2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。
3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。
4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。
5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとちが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。また、魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
14 人々はイエスのなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。

※ビルド20255 2025.5.3 [Sat] – 5.5 [Mon] Guest: 松尾献師(本山キリスト教会牧師/元KGK九州地区主事) Title: MY WAY 主の道を歩む私たち』 主催:イムマヌエル綜合伝道団青年課ビルド委員会 会場:イムマヌエル聖宣神学院教会

―ブログ管理人のひとりごとー
 今回はインマヌエル聖宣神学院で行われたビルドの日曜礼拝に、盛岡教会の皆様方とともにオンラインで参加いたしました。動画掲載はありませんが、若い方々の賛美、そして若いメッセンジャーによる説教をお聞きしました。未来を担われる方々のために祈りました。
 昨日は、老人施設を訪問。親戚筋に当たるご夫妻と歓談。実はお二人ともに認知症でらっしゃるのですが、一生をクリスチャンとして真実に全う。明るさと眼の輝きは失われてはおらず、それが何よりうれしく、30分の面会も短く感じられたことです。奥さんが口を耳に近づけてご主人に「何歳?」と話しかけられると「96歳」と答えておりました。

 

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きょうのことば『イエスは手と脇腹を彼らに示され』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年4月27日(日)
説教題 『イエスは手と脇腹を彼らに示され』
聖書朗読 ヨハネの福音書 20章19~31節
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19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい。」
28 トマスはイエスに答えた。「私の主。私の神よ。」
29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

【神谷師による説教の要約】
 よみがえりのキリストが、弟子たちのいる鍵のかかった部屋に現れたことは、その体をもってどこにでも自由に行ける存在になったことを意味する。
 また、キリストが弟子たちに手足を見せられたのは、ご自分がほんとうに十字架にかかられた当人であることを示し、さらにそのままのからだで生きて、もう死ぬことがないことを示すためといえる。
 それはわたしたちもまた、キリストと同じようになることができ、死を恐れる必要はなくなったことの宣言であり、確かな希望がそこにある。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 桜のつぼみはほらもう枝先にびっしりついて青空をこぞり仰いでいる。つぼみがふくらみ薄いピンクがつぼみの先にのぞいている、もうすぐもうすぐ。おお、いつのまにこんなに一気に花ひらいていたのか。どれもどれもまるで笑いをこらえきれないようにたわわにゆたかに咲ききそっている。そしてカメラを向けるゆとりもないうちに桜は散りゆき、いのち芳しい新緑が清冽な息をしている。
 イエスさま、おはようございます。イースターの記念の日は過ぎましたけれども、よみがえられたばかりの主が、今朝もここにおわし、そこにおわし、病めるものにも健やかなものにも、貧しきものにも富めるものにも、逆境にあるものにも順境にあるものにも、「平安があなたがたにあるように」とサイレントでしかしそれが澄明な響きを伴って聞こえるのです。どうぞ今日という一日を共に歩んでください。イエスさま、もしあなたがいらっしゃらなければ、この世の暗闇はどんなに深いことでしょう。人は人の力で灯りをともすことができません。どうかきょうの道筋を先立ち照らしてくださるようにお願いいたします。

 

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きょうのことば『聖書を、まだ理解していなかった』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年4月20日(日)
説教題 『聖書を、まだ理解していなかった』イースター講壇
(←クリック)
聖書朗読
 ヨハネの福音書 20章1~18節

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1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちにマグダラのマリアは墓にやって来て、そして、墓から石が取りのけられているのを見た。
2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子とのところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちにはわかりません。」
3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
5 そして、身をかがめるとてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
7 イエスの頭を包んでいた布は、亜麻布と一緒にはなく、離れた所に丸めてあった。
8 そのとき、先に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。
11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」」とイエスに言った。
17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

【神谷師による説教の要約】
マリアがキリストの墓に行ったのは埋葬されているキリストの亡骸に防腐剤としての薬を塗るためであった。
しかしそこで、墓石が取りのけられ、中は空になっている様子を見たマリアや弟子たちが「だれかが墓から主を取って~」と言ったのは、主のよみがえりについて語っている聖書をまだ理解していなかったからである。
墓の前で悲しみに暮れるマリアは復活のキリストを見て喜んだ。そのマリアに向かってキリストが「わたしにすがりついていてはいけません」と言われたのは、これ以後、キリストが昇天の後に遣わす助け主なる聖霊によって、弟子たちが主の十字架と復活の証人となるからで、これにより福音は、時代を超えて私たちにまで届いたのである。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 20日のイースタ―礼拝をまもり、そして、火曜日からは主人と松田順子先生と上京、私の上京は実に十数年ぶりかで、甥の結婚式で上京して以来のことです。豊洲シビックホールでの中館耕蔵氏に因んだコンサート(指揮中館伸一氏)に行きました。そのときはあまり分かっておりませんでしたが、その後の成り行きから、この一連の旅が私自身の復活、神の備えたもう復活であることに気づきました。
 甥が年末には蕎麦打ちをするのですが、叔父叔母が来るというので、手ずからの蕎麦でもてなしてくれました。
以下、訪問先の一部写真です。心から神さまに感謝いたしました。
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上野奏楽堂。出版物で知っていることと実際に目で見ることとの落差を思いつつ。階段を下りてゆくのは息子と主人。
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昔の国立駅。切符売り場に映っているのは、右が姉、左が甥の妻。大喜びで国立の案内を務めてくれました。



 

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きょうのことば『わたしとともにパラダイスに』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

イースター、おめでとうございます!


「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通してきたのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。」
(コリント第一15章20~22節)

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このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教を掲載しております。ですので、イースターメッセージは来週となります。
2025
年4月13日(日)
説教題 『わたしとともにパラダイスに』(←クリック)
聖書朗読
 ルカの福音書 23章33~46節

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33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42 そして言った。「イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
45 太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。
46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ。わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

【神谷師による説教の要約】
 キリストが十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、私たちの罪を代わりに背負って、神に見捨てられるさばきの苦しみを味わわれたのである。
 また、キリストの隣で十字架にかけられていた犯罪人が、キリストのことを「ユダヤ人の王」だとわかったのは、自分たちと同じ苦しみを味わっていながら、その態度が違うことから、十字架につけられていた罪状書きの通り「ユダヤ人の王」が本当だと信じた、と言える。
 また、キリストが犯罪人に「あなたは~わたしとともにパラダイス(天国)にいます」と約束されたとき、その犯罪人は、キリストが死の間際に祈られた「わたしの霊をあなたの御手に~」という、神のみこころと一つとされ、キリストと同じく平安な心を頂いて人生を終えることができた。
 今も、キリストを自らの救い主と信じる者は、誰もがこの心を頂くことができる。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 13日は伝道礼拝の日。秋田教会のM兄が、極度の疲労と結核がきっかけで宗教に向かい、イエス様を信じた体験談を聞くことができます。

 きのう19日イースターエッグをゆでたりラップがけをしたり、カードと小袋に詰めながら、このしごともいつまでできるかしらと思いました。できるところまで、です。ある作家がイエス伝を書くときに、キリストが葬られたところまでは書いてくれましたが、復活から先は書いてはおられませんでした。この先はそれぞれの信仰によるということだったでしょう。しかし、罪の贖罪である十字架、そしてこの復活こそがイエス様がこの世においでになった理由であり、この地上のご生涯33年の意味でもあることを、今年の聖書の通読からこれまでになく深く知らされました。キリストの復活はほんとうだとわたしは信じています。それが曖昧なうちは信仰者としての自分もほんとうの神のいのちを生きてはいない、どこか死んでいる。そしてそれはほんとうに死んでいる。だからこそ死と癒着しやすくなる。そうわかるのです。神のみ子イエスさまに癒着することによってこそ生きる、生き返ることができる、そう知らされました。

 

インマヌエル秋田キリスト教会  https://localplace.jp/t100303888/
インマヌエル盛岡キリスト教会 https://sites.google.com/view/igm-morioka/



⏰6時26分更新

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室内合唱団「日唱」の第40回定期演奏会があります。指揮は中館伸一氏。題して「受け継がれる魂~祖父・中館耕蔵の足跡をたどって~」

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4月22日(火)、東京の豊洲シビックセンターホールで室内合唱団「日唱」の第40回定期演奏会があります。指揮は中館伸一氏。題して「受け継がれる魂~祖父・中館耕蔵の足跡をたどって~」18時半開場、19時開演
 中館耕蔵は遠野市出身の日本初の音楽マネージャーであり、国立音楽大学の創立者です。
 音楽マネージャーというと興行師的に捕らえられる側面もありますが、大正という西洋音楽の黎明期における中館耕蔵の音楽マネージメントは、関東大震災で焼失を免れた資料を見ると、現代に一般的に語られる内容とはかなり違っています。
 当時の地方と中央との、日本と西洋との音楽較差を行く先々で説き、さらに上を目指し学ぶべきであることを勧め、啓蒙の役目を果たしています。また私費をもって、或いは支援の音楽会を全国的に展開して中央に出ての学び、或いは海外留学を支援しました。また演奏できる楽団の少なさを嘆き、自らが楽壇の結成の為に奔走し楽壇の創立に漕ぎつけました。音楽普及を果たしながら、教育目的のため、学校運営資金獲得のため、医療分野の支援のため、孤児院のため、社会主義団体のため、殊にもクリスチャンからの依頼であった白十字会のマネージメントには力を注ぎました。
 書き出してなお書き落してはいないかと危ぶみますが、そう、関東大震災の時には、日夜分かたずに、演奏先とそれまでマネージメントしてきた楽団を全国各地に結び、復興支援を果たしました。そして多くの慈善目的の音楽会は、それまで西洋音楽は主に上流社会のものでしたが、中館の企画によって、そのすそ野が一気に一般の人々にも広がったのです。
 書き落しがまだありました。中館は、ロシア革命、第一世界大戦を逃れ亡命してきた音楽家たちをステージに招き、無国籍で仕事に就くことが難しかった音楽家たちを窮乏から救う一助となりました。
 まだありますけれども。
 マネージメントのそもそもの初発も、音楽家の活動が経済的にも何とか保障されなければならないとの思いからであったことを、資料から読み取ることができます。
 そしてこの音楽マネージャー時代に築いた音楽界、政界、財界、教育界の人脈が、関東大震災で多くの学校が壊滅した後、東京高等音楽学院 (現・国立音楽大学)の創立に生かされていくのです。

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きょうのことば『立ち直ったら、兄弟たちを力づけ』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教を掲載しております。
2025
年4月6日(日)
説教題 『立ち直ったら、兄弟たちを力づけ』(←クリック)
聖書朗読
 ルカの福音書 22章31~34節

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31 シモン、シモン、見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
33 シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

【神谷師による説教の要約】
 キリストが、サタンの試みの中で信仰がなくならないようにと祈られたペテロに向かって、後にキリストを知らないと三度言う、と言われた時、ペテロは、絶対にそんなことはしないと宣言するが、その後、捕らえられて裁判にかけられるキリストの前で、事実その通りのことが起きた。ペテロがキリストに見つめられた時、外に出て泣いたのは、ふがいない自らであることへの申し訳ない思いと共に、そんな自分のためにと祈られたキリストへの感謝があったといえる。そのような経験をしたペテロだからこそ、失敗をしても必ず立ち直れることを知って、人を励まし力づけることができるようになった。人は失敗しても、そこでキリストにより頼む信仰さえ失うことがなければ、より深みを増した信仰をもって立ち直ることができる。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 ネットには盛岡の桜の開花予想日は4月12日、満開予想日は4月16日と出ていたことで、まだ間があると思い道歩くときも、家々の軒先にある水仙や路肩にある姫踊子草の小さな小さな薄紫の花を喜んでいた。どんな球根が、草花がと足元ばかりを視線で探っていたところ、昨日午前中、バルコニーから見ると、何と写真のように2本の樹木に花が咲いていた。そういえば土曜日に孫の手を引いて散歩したときに、レンギョウがちらほらと咲いていたなと思い出す。屈んでヒメオドリコソウを指さすと興味深げに見ていた。1本折って手に持たせた。あとで草とはいえ折るところを見せてよかったのかどうか、折り取って許される花、許されない花の区別はまだつかないだろうな、などと、自分のしたことに自信が持てなかった。
 それはともかく、いつの間にかこんなに花が咲いていたのに意表を衝かれ驚きと喜びにしばし浸った。人様の庭の木でもあり、写真に写り込んだ3軒の屋根を切り取ったところが、花が委縮してしまったように見えるのが残念なのだけれども。

 この日の説教からの思い巡らしは、人が躓くのは欲か恐れであることが多い。この二つに打ち勝つことは人間の力ではなかなか難しい。しかし、それ以上に、キリストを裏切ることはもっと難しい。だから多くはその入り口で踵を返す。踵を返せなかった痛みは生涯ついて回るだろう。しかし、神は人がどういうものであるか、ほんとうによくご存じなのだ。ペテロが躓きキリストを知らないといったとき、ペテロを見つめたキリストの御目。その目に恐らく非難の色はなかったろう。残念だ、無念だという目ではない。憤怒の色は無い。「わかっているよペテロ」。私にはそう思われる。慈愛に満ちた、赦しを湛えたイエスの御目。このイエスの目に逆らい続けられる者はいないだろう。〝この目〟を知ってしまった、見てしまった者は、もはやキリストに抗うことはできないだろう。〝この目〟こそはむしろ自らの罪、咎に深く思い到らせ、悔い改め、悔い改めた者に勇気を賦与する。「勇気を出しなさい!」とイエスは言われた。強くとも弱くとも、富んでいようと貧しかろうと、健やかであろうと病にあろうと、目に見える事態が苛酷であろう平坦であろうと、イエスさまはこう言われる「勇気を出しなさい!」。

 

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⏰6時14分更新

 

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«きょうのことば『わたしの恵みは十分である』ーイムマヌエル綜合伝道団 岩上祝仁 代表の説教ー