きょうのことば『どうぞ披露宴においでください』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年5月11日(日)伝道礼拝
説教題 どうぞ披露宴においでください』(←クリック)
聖書朗読
 マタイの福音書 22章1~14節

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1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。

2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。
4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください』と。」
5ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。
9 だから大通りに行って、出会った人をみな宴会に招きなさい。』
10しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。
13 そこで、王は召使たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

【神谷師による説教の要約】
 キリストは天国についてたとえで語られた。最初に披露宴(結婚式のお祝い)に招かれた人々が来なかったことは、イスラエルの人々が救い主として来られたキリストを拒むことを指しており、そのために神の招きは全人類に広げられ、さらに「悪い人でも良い人でも」披露宴に来ることができたのは、受付で渡される「礼服」を着ることがその条件だからである。
 また、その礼服が意味するキリストを「着る」とはキリストが私たちのために十字架にかかってくださったことを信じることで披露宴である、天国に入るための資格を得ることを意味している。

―ブログ管理人のひとりごとー
 この日は伝道礼拝ということで、K姉の信仰の体験談をお聴きしました。K姉は教会に行くときには毎週ご一緒させていただいている方です。クリスチャンだから人生の困難を特別に免れられるのかというと、そうではない場合、そうである場合があり、それはひととおりではない。しかしその根底にイエスさまの存在があるかないか、その違いである、お聞きしてそう思われました。
 この日の説教、キリストを「着る」。どのような礼服にも勝って威儀をただせる着衣であると思いました。
5月に上京したとき、上野の奏楽堂へ行きました。この日まる一日付き合ってくれた息子が、主人と私を豊洲から上野に連れていってくれました。案内人がいると、どこをどう歩いたか確かめもしません。ただついて歩くだけ。小雨が降っていました。傘をさしました。帽子でしのぐには雨量があります。道端の縁石に、じっと地面に目を落として座っている人がいました。くたびれた身なり。この雨に帽子もかぶっていません。なぜか今鮮やかに思い出しました。ホームレスの方です。誰も気にとめていないかのように、いつもそこに人が流れているかに人が通り過ぎていきます。よし心が痛んだとしても、通り過ぎては忘れています。あの光景を思い起し、ああ、キリストのくださる着物があるものを、そう思いました。キリストの披露宴に招かれることができる〝礼服〟が備えられてあるものを。

 

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きょうのことば『福音を一緒に届ける同労者として』ー木山キリスト教会  松尾献牧師の説教ー

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2025
年5月4日(日)「 ビルド」(全国青年大会)にオンライン参加
説教題 『福音を一緒に届ける同動労者として』
木山キリスト教会 松尾献牧師説教
聖書朗読
 ヨハネの福音書 6章1~14節

1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。
2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。
3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。
4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。
5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとちが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。また、魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
14 人々はイエスのなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。

※ビルド20255 2025.5.3 [Sat] – 5.5 [Mon] Guest: 松尾献師(本山キリスト教会牧師/元KGK九州地区主事) Title: MY WAY 主の道を歩む私たち』 主催:イムマヌエル綜合伝道団青年課ビルド委員会 会場:イムマヌエル聖宣神学院教会

―ブログ管理人のひとりごとー
 今回はインマヌエル聖宣神学院で行われたビルドの日曜礼拝に、盛岡教会の皆様方とともにオンラインで参加いたしました。動画掲載はありませんが、若い方々の賛美、そして若いメッセンジャーによる説教をお聞きしました。未来を担われる方々のために祈りました。
 昨日は、老人施設を訪問。親戚筋に当たるご夫妻と歓談。実はお二人ともに認知症でらっしゃるのですが、一生をクリスチャンとして真実に全う。明るさと眼の輝きは失われてはおらず、それが何よりうれしく、30分の面会も短く感じられたことです。奥さんが口を耳に近づけてご主人に「何歳?」と話しかけられると「96歳」と答えておりました。

 

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きょうのことば『イエスは手と脇腹を彼らに示され』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年4月27日(日)
説教題 『イエスは手と脇腹を彼らに示され』
聖書朗読 ヨハネの福音書 20章19~31節
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19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい。」
28 トマスはイエスに答えた。「私の主。私の神よ。」
29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

【神谷師による説教の要約】
 よみがえりのキリストが、弟子たちのいる鍵のかかった部屋に現れたことは、その体をもってどこにでも自由に行ける存在になったことを意味する。
 また、キリストが弟子たちに手足を見せられたのは、ご自分がほんとうに十字架にかかられた当人であることを示し、さらにそのままのからだで生きて、もう死ぬことがないことを示すためといえる。
 それはわたしたちもまた、キリストと同じようになることができ、死を恐れる必要はなくなったことの宣言であり、確かな希望がそこにある。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 桜のつぼみはほらもう枝先にびっしりついて青空をこぞり仰いでいる。つぼみがふくらみ薄いピンクがつぼみの先にのぞいている、もうすぐもうすぐ。おお、いつのまにこんなに一気に花ひらいていたのか。どれもどれもまるで笑いをこらえきれないようにたわわにゆたかに咲ききそっている。そしてカメラを向けるゆとりもないうちに桜は散りゆき、いのち芳しい新緑が清冽な息をしている。
 イエスさま、おはようございます。イースターの記念の日は過ぎましたけれども、よみがえられたばかりの主が、今朝もここにおわし、そこにおわし、病めるものにも健やかなものにも、貧しきものにも富めるものにも、逆境にあるものにも順境にあるものにも、「平安があなたがたにあるように」とサイレントでしかしそれが澄明な響きを伴って聞こえるのです。どうぞ今日という一日を共に歩んでください。イエスさま、もしあなたがいらっしゃらなければ、この世の暗闇はどんなに深いことでしょう。人は人の力で灯りをともすことができません。どうかきょうの道筋を先立ち照らしてくださるようにお願いいたします。

 

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きょうのことば『聖書を、まだ理解していなかった』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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2025
年4月20日(日)
説教題 『聖書を、まだ理解していなかった』イースター講壇
(←クリック)
聖書朗読
 ヨハネの福音書 20章1~18節

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1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちにマグダラのマリアは墓にやって来て、そして、墓から石が取りのけられているのを見た。
2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子とのところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちにはわかりません。」
3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
5 そして、身をかがめるとてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
7 イエスの頭を包んでいた布は、亜麻布と一緒にはなく、離れた所に丸めてあった。
8 そのとき、先に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。
11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」」とイエスに言った。
17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

【神谷師による説教の要約】
マリアがキリストの墓に行ったのは埋葬されているキリストの亡骸に防腐剤としての薬を塗るためであった。
しかしそこで、墓石が取りのけられ、中は空になっている様子を見たマリアや弟子たちが「だれかが墓から主を取って~」と言ったのは、主のよみがえりについて語っている聖書をまだ理解していなかったからである。
墓の前で悲しみに暮れるマリアは復活のキリストを見て喜んだ。そのマリアに向かってキリストが「わたしにすがりついていてはいけません」と言われたのは、これ以後、キリストが昇天の後に遣わす助け主なる聖霊によって、弟子たちが主の十字架と復活の証人となるからで、これにより福音は、時代を超えて私たちにまで届いたのである。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 20日のイースタ―礼拝をまもり、そして、火曜日からは主人と松田順子先生と上京、私の上京は実に十数年ぶりかで、甥の結婚式で上京して以来のことです。豊洲シビックホールでの中館耕蔵氏に因んだコンサート(指揮中館伸一氏)に行きました。そのときはあまり分かっておりませんでしたが、その後の成り行きから、この一連の旅が私自身の復活、神の備えたもう復活であることに気づきました。
 甥が年末には蕎麦打ちをするのですが、叔父叔母が来るというので、手ずからの蕎麦でもてなしてくれました。
以下、訪問先の一部写真です。心から神さまに感謝いたしました。
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上野奏楽堂。出版物で知っていることと実際に目で見ることとの落差を思いつつ。階段を下りてゆくのは息子と主人。
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昔の国立駅。切符売り場に映っているのは、右が姉、左が甥の妻。大喜びで国立の案内を務めてくれました。



 

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きょうのことば『わたしとともにパラダイスに』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

イースター、おめでとうございます!


「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通してきたのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。」
(コリント第一15章20~22節)

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          ☆   ☆   ☆

このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教を掲載しております。ですので、イースターメッセージは来週となります。
2025
年4月13日(日)
説教題 『わたしとともにパラダイスに』(←クリック)
聖書朗読
 ルカの福音書 23章33~46節

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33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42 そして言った。「イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
45 太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。
46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ。わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

【神谷師による説教の要約】
 キリストが十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、私たちの罪を代わりに背負って、神に見捨てられるさばきの苦しみを味わわれたのである。
 また、キリストの隣で十字架にかけられていた犯罪人が、キリストのことを「ユダヤ人の王」だとわかったのは、自分たちと同じ苦しみを味わっていながら、その態度が違うことから、十字架につけられていた罪状書きの通り「ユダヤ人の王」が本当だと信じた、と言える。
 また、キリストが犯罪人に「あなたは~わたしとともにパラダイス(天国)にいます」と約束されたとき、その犯罪人は、キリストが死の間際に祈られた「わたしの霊をあなたの御手に~」という、神のみこころと一つとされ、キリストと同じく平安な心を頂いて人生を終えることができた。
 今も、キリストを自らの救い主と信じる者は、誰もがこの心を頂くことができる。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 13日は伝道礼拝の日。秋田教会のM兄が、極度の疲労と結核がきっかけで宗教に向かい、イエス様を信じた体験談を聞くことができます。

 きのう19日イースターエッグをゆでたりラップがけをしたり、カードと小袋に詰めながら、このしごともいつまでできるかしらと思いました。できるところまで、です。ある作家がイエス伝を書くときに、キリストが葬られたところまでは書いてくれましたが、復活から先は書いてはおられませんでした。この先はそれぞれの信仰によるということだったでしょう。しかし、罪の贖罪である十字架、そしてこの復活こそがイエス様がこの世においでになった理由であり、この地上のご生涯33年の意味でもあることを、今年の聖書の通読からこれまでになく深く知らされました。キリストの復活はほんとうだとわたしは信じています。それが曖昧なうちは信仰者としての自分もほんとうの神のいのちを生きてはいない、どこか死んでいる。そしてそれはほんとうに死んでいる。だからこそ死と癒着しやすくなる。そうわかるのです。神のみ子イエスさまに癒着することによってこそ生きる、生き返ることができる、そう知らされました。

 

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⏰6時26分更新

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室内合唱団「日唱」の第40回定期演奏会があります。指揮は中館伸一氏。題して「受け継がれる魂~祖父・中館耕蔵の足跡をたどって~」

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4月22日(火)、東京の豊洲シビックセンターホールで室内合唱団「日唱」の第40回定期演奏会があります。指揮は中館伸一氏。題して「受け継がれる魂~祖父・中館耕蔵の足跡をたどって~」18時半開場、19時開演
 中館耕蔵は遠野市出身の日本初の音楽マネージャーであり、国立音楽大学の創立者です。
 音楽マネージャーというと興行師的に捕らえられる側面もありますが、大正という西洋音楽の黎明期における中館耕蔵の音楽マネージメントは、関東大震災で焼失を免れた資料を見ると、現代に一般的に語られる内容とはかなり違っています。
 当時の地方と中央との、日本と西洋との音楽較差を行く先々で説き、さらに上を目指し学ぶべきであることを勧め、啓蒙の役目を果たしています。また私費をもって、或いは支援の音楽会を全国的に展開して中央に出ての学び、或いは海外留学を支援しました。また演奏できる楽団の少なさを嘆き、自らが楽壇の結成の為に奔走し楽壇の創立に漕ぎつけました。音楽普及を果たしながら、教育目的のため、学校運営資金獲得のため、医療分野の支援のため、孤児院のため、社会主義団体のため、殊にもクリスチャンからの依頼であった白十字会のマネージメントには力を注ぎました。
 書き出してなお書き落してはいないかと危ぶみますが、そう、関東大震災の時には、日夜分かたずに、演奏先とそれまでマネージメントしてきた楽団を全国各地に結び、復興支援を果たしました。そして多くの慈善目的の音楽会は、それまで西洋音楽は主に上流社会のものでしたが、中館の企画によって、そのすそ野が一気に一般の人々にも広がったのです。
 書き落しがまだありました。中館は、ロシア革命、第一世界大戦を逃れ亡命してきた音楽家たちをステージに招き、無国籍で仕事に就くことが難しかった音楽家たちを窮乏から救う一助となりました。
 まだありますけれども。
 マネージメントのそもそもの初発も、音楽家の活動が経済的にも何とか保障されなければならないとの思いからであったことを、資料から読み取ることができます。
 そしてこの音楽マネージャー時代に築いた音楽界、政界、財界、教育界の人脈が、関東大震災で多くの学校が壊滅した後、東京高等音楽学院 (現・国立音楽大学)の創立に生かされていくのです。

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きょうのことば『立ち直ったら、兄弟たちを力づけ』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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年4月6日(日)
説教題 『立ち直ったら、兄弟たちを力づけ』(←クリック)
聖書朗読
 ルカの福音書 22章31~34節

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31 シモン、シモン、見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
33 シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

【神谷師による説教の要約】
 キリストが、サタンの試みの中で信仰がなくならないようにと祈られたペテロに向かって、後にキリストを知らないと三度言う、と言われた時、ペテロは、絶対にそんなことはしないと宣言するが、その後、捕らえられて裁判にかけられるキリストの前で、事実その通りのことが起きた。ペテロがキリストに見つめられた時、外に出て泣いたのは、ふがいない自らであることへの申し訳ない思いと共に、そんな自分のためにと祈られたキリストへの感謝があったといえる。そのような経験をしたペテロだからこそ、失敗をしても必ず立ち直れることを知って、人を励まし力づけることができるようになった。人は失敗しても、そこでキリストにより頼む信仰さえ失うことがなければ、より深みを増した信仰をもって立ち直ることができる。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 ネットには盛岡の桜の開花予想日は4月12日、満開予想日は4月16日と出ていたことで、まだ間があると思い道歩くときも、家々の軒先にある水仙や路肩にある姫踊子草の小さな小さな薄紫の花を喜んでいた。どんな球根が、草花がと足元ばかりを視線で探っていたところ、昨日午前中、バルコニーから見ると、何と写真のように2本の樹木に花が咲いていた。そういえば土曜日に孫の手を引いて散歩したときに、レンギョウがちらほらと咲いていたなと思い出す。屈んでヒメオドリコソウを指さすと興味深げに見ていた。1本折って手に持たせた。あとで草とはいえ折るところを見せてよかったのかどうか、折り取って許される花、許されない花の区別はまだつかないだろうな、などと、自分のしたことに自信が持てなかった。
 それはともかく、いつの間にかこんなに花が咲いていたのに意表を衝かれ驚きと喜びにしばし浸った。人様の庭の木でもあり、写真に写り込んだ3軒の屋根を切り取ったところが、花が委縮してしまったように見えるのが残念なのだけれども。

 この日の説教からの思い巡らしは、人が躓くのは欲か恐れであることが多い。この二つに打ち勝つことは人間の力ではなかなか難しい。しかし、それ以上に、キリストを裏切ることはもっと難しい。だから多くはその入り口で踵を返す。踵を返せなかった痛みは生涯ついて回るだろう。しかし、神は人がどういうものであるか、ほんとうによくご存じなのだ。ペテロが躓きキリストを知らないといったとき、ペテロを見つめたキリストの御目。その目に恐らく非難の色はなかったろう。残念だ、無念だという目ではない。憤怒の色は無い。「わかっているよペテロ」。私にはそう思われる。慈愛に満ちた、赦しを湛えたイエスの御目。このイエスの目に逆らい続けられる者はいないだろう。〝この目〟を知ってしまった、見てしまった者は、もはやキリストに抗うことはできないだろう。〝この目〟こそはむしろ自らの罪、咎に深く思い到らせ、悔い改め、悔い改めた者に勇気を賦与する。「勇気を出しなさい!」とイエスは言われた。強くとも弱くとも、富んでいようと貧しかろうと、健やかであろうと病にあろうと、目に見える事態が苛酷であろう平坦であろうと、イエスさまはこう言われる「勇気を出しなさい!」。

 

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きょうのことば『わたしの恵みは十分である』ーイムマヌエル綜合伝道団 岩上祝仁 代表の説教ー

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2025
年3月30 日(日)
第80次年会礼拝

説教題 『わたしの恵みは十分である』
聖書朗読 コリント人への手紙 第二 12章1~10節

1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
2 私はキリストにある一人の人を知っています。この方は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。
4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。
5 このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外のことは誇りません。
6 たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、誰かが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。
7その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
9 しかし、主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 

―ブログ管理人のひとりごとー
 この30日は、イムマヌエル綜合伝道団の第80次年会の礼拝でした。盛岡教会から上京した方々もいらっしゃいましたが、私は盛岡教会で盛岡教会の皆さまがたとともに配信を受け礼拝をまもりました。長い間、自分がこの教団に連なる者であるという意識は、私の場合決して高くはなかったといえます。盛岡教会にあってイエスさまを信じる一信徒という感覚でした。しかしこの教団、80年。この教団の創設者初代の蔦田二雄先生のテープにのこされたメッセージを今思い出しています。摩耗したSPレコードのように聞き取るのに苦心しましたが、しかし、その中には「義の火」が耀いている。今そのことに気づきました。戦争で、災害で、ウィルスで、犯罪で、事故で、あまりに無造作にひとのいのちが奪われ、厳しくなる経済、暮らしのしめつけで、人の価値観、在りようががらりと豹変するのではないかという危惧の只中、また目には隠されているけれども、そのようなあり方が水面下にじわじわと〝市民権〟を獲得しつつある今に、この「義の火」はこの世に、この社会に掲げられていなければならない。何か、なぜか、あの蔦田二雄先生の説教にある神の義、義の松明は掲げられ続けなければならないと、この教団のいわば末端にいる凡そ社会的な名誉、権勢からは遠いこの小さき者の眼からも涙が落ちるのです。
 教団を担われる多くの牧師先生方、これまで担われて来られた多くの牧師先生方、多くの真実な信徒の方々に、その自覚が乏しかった時期があったことを、心からお詫びし、このインマヌエルの義の火が、神の義が高く掲げられ続けることを心から祈るのもです。

 

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⏰6時48分更新

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きょうのことば『この戦いは主の戦いだ』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師  神谷光一師の説教ー

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このブログは、日曜日ごとに、一週間遅れて説教を掲載しております。
2025年3月23 日(日)
説教題 『自分を愛するほどにダビデを愛し』
聖書朗読
 サムエル記 第一 20章5~17節
(←クリック)
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5 ダビデはヨナタンに言った。「明日はちょうど新月祭で、私は王と一緒に食事の席に着かなければなりません。でも、私を行かせて、三日目の夕方まで、野に隠れさせてください。
6 もし、父上が私のことをとがめたら、おっしゃってください。「ダビデは自分の町ベツレヘムへ急いで行きたいと、しきりに頼みました。あそこで彼の氏族全体のために、年ごとのいけにえを献げることになっているからです」と。
7 もし父上が「よし」とおっしゃれば、あなたのしもべは安全です。もし激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。
8 どうか、このしもべに真実を尽くしてください。主に誓って、しもべと契約を結んでくださったのですから。もし私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして父上のところにまで、私を連れ出す必要があるでしょうか。」
9 ヨナタンは言った。「とんでもないことです。父があなたに害を加える決心をしていることが確かに分かったら、あなたに知らせないでおくはずはありません。」
10 ダビデはヨナタンに言った。「もし父上が厳しい返事をなさったら、だれが私に知らせてくださいますか。」
11 ヨナタンはダビデに言った。「野原に出ましょう。」それで、二人は野に出た。
12 ヨナタンはダビデに言った。「イスラエルの神、主にかけて誓います。明日かあさっての今ごろまでに、父がダビデに対して寛大であるかを探ってみます。寛大でなければ、必ず人を遣わして、あなたの耳に入れます。
13 もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がさなかったなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰せられますように。主が父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。
14 もし私がこれ以上生きるべきではないのなら、あなたは、主の恵みを私に施して、私が死ぬことのないようにする必要はありません。
15しかし、 あなたの恵みを私の家からとこしえに断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断たれるときにも。」
16 ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われますように。」
17 ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。

【神谷師による説教の要約】
 ペリシテの兵士ゴリアテを倒したダビデのことを、王子であるヨナタンが愛したのは、かつて神に信頼して敵と戦った自分と相通じるものをダビデのうちに見出したからである。
 また、主にある勝利をもたらしたことで、父サウルに妬まれ、命を狙われているダビデに向かって、ヨナタンが「もし私がこれ以上生きるべきではないのなら~私が死ぬことのないようにする必要はありません」と語ったのは、本当に王となるべきはサウルの子である自分ではなく、ダビデの方であると見通していたからといえる。
 ヨナタンはダビデを自分自身のように愛したことで、父サウルのもとからダビデを逃がし、自分ではなくダビデが王となるために力を尽くした。それは同時に父と共にサウルの家に属する自分たちこそが失われゆくのを知ってのものであった。
 私たちを通して次のひとりが生かされてゆくために、これまで受けてきた愛を注ぐ者でありたい。


―ブログ管理人のひとりごとー
 14節のヨナタンのことばには心揺さぶられる。ヨナタンは親友のダビデに、自分を見捨てていいのだと言っているのだ。父が王である限り自分は王子として、あわよくば次の王として君臨できるのだとそれにしがみつく思惑は微塵もない。このような場合、親友ならばわが一族のために何とかしてくれと土下座し泣きつくこともあり得るところ、ヨナタンはまことに潔い。ヨナタンは、ダビデこそが自分の父に優る王となることを得心し、あるいはこの若さでイスラエル民族に繁栄をもたらすことのできる者こそが王座につくべきであり、それがダビデであることを霊的にも納得していたのだろう。大義の為に自らを捨てる、死にゆくともの覚悟で自らを処するこのすがたに落涙。


 

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音楽雑感 これそれ あれこれ

 クラシック倶楽部、とにかく目覚めると「今日は何だったかな」。
 けさは大西宇宙、うちゅうさんと勝手によんでるけれども、たかおき氏なのだ。バリトン。自分に合っていないというか、やりにくいというか、苦手な役柄というのもあるらしいけれども、オペラアリア、どれもありありと歌い上げてくれる。見慣れないホール、これはどこだっけと逡巡。すみだトリフォニーホールだった。この番組で映し出してくれるホールの特徴を見るのもまた楽しみ。
 して、昨日は。これが何とスイッチ・オンで吸い込まれる。ベルリンRIASU室内合唱団。しゃわーっと浄められた響きが。後半の「イエスはわが喜び」。「ヨハン・セバスティアン・バッハの曲。死の直前にある人を死のおそれから解放する」この解説に、今その準備の段階にあられる姉妹が浮かんだ。喜び、感謝のうちにおられると聞いている。ジャスティン・ドイルの指揮。
 遡って、アンドレイ・コロベイ二コフのピアノ。ラフマニノフの「鐘」で綴られた人生。朗読されたエドガー・アラン・ポーの詩が心にのこる。番組と同じ訳ではないけれども後で自分が読み直すためにつないでみた。「楽興の時 第6番」の華麗さ、重厚さ。ラフマニノフの耳に残り、通り抜けていった人生さまざまの「鐘」に共鳴。
 パリ、シャンゼリゼ劇場で奏するはブルース・リウのピアノでショパン。パリデビューだ。
 さらに遡って、こんな音は出せるものじゃないと唸ったのはサンナザーロ劇場に出演のヤン・リシエツキ。ショパンの「ノクターン嬰ハ短調」の1フレーズ。楽譜を見て、ここここと指すことができたらと無念。はっとさせるすばらしい表現。ピアノ演奏という以上のものを聴いた感じが。

と、ここで時間切れ。何れ聴くごとに心の内に何か、それはありとあらゆる人生であるかもしれないが、知らせてくれている。

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