2025年11月30日インマヌエル秋田・盛岡キリスト教会 第一アドベント礼拝説教 神谷光一 牧師
『ひとりの男の子が私たちに与えられ』イザヤ書9章1~7節
説教題をクリックしてお聞きください。
1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが。後には海沿いの道、ヨルダンの川向う、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
2 闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が耀く。
3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられた。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。
5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。
6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
【神谷牧師による説教の要約】
律法に背く偶像礼拝の結果、他国の支配下に置かれ、かつて辱めを受けたぜブルンとナフタリの地が、のちには栄誉を受けると預言されているのは、神は、人が失敗や痛みを覚える過去を、良いことの計らいに変えられることを意味している。
そのような中から、救い主が生まれるという預言に人々が期待していたのは、長らくの支配から解放され、支配者であるローマ帝国を倒して、自由にされることであった。
しかし、実際に生まれたキリストがローマ兵によって十字架につけられたことが示しているのは、キリストは私たちの身代わりに死ぬことで、人の目に映る権力の背後にある、心を支配する罪から自由にして下さることであった。
<ブログ管理人のひとりごと>
待降節を迎えている。ことしはクリスマス・ソングが街に流れていてもいまいち気分が浮き立たない。自分の体力への気配りという〝仕事〟が増えたことがある。またあるお店では、クマ対策ということで自動ドアに「手動でお願いします」と張り紙が。これがけっこう重い。路を歩いていてもやはり気になるのがクマ。気軽に散歩気分というわけにはいかない。主人が出かけても、これはクマのことばかりではなく健康上の気がかりもあり、帰るまでは何か落ち着かない。
やはりクリスマスは教会で過ごすことがイエスさまのご降誕を待ち望むに相応しい気がする。
クリスチャンだからといって完全なわけではなく、罪を自覚し、十字架上で贖罪を為したもうたイエスさまを信じる事によって欠けたるところを御赦しいただき、また新たな思いをもって歩み出し、歩み続ける。これじゃダメだ、という自分に留まっていないで、イエスさまの十字架を仰ぎ見、イエスさまの血は罪を赦すことがおできになることを信じる。
「しかし、ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森と見なされるようになる。」 イザヤ32:15
以下のURLを辿りますと、それぞれの教会のHPに入ることができます。
インマヌエル秋田キリスト教会 https://localplace.jp/t100303888/
インマヌエル盛岡キリスト教会 https://sites.google.com/view/igm-morioka/
⏰20時40分














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